【注釈】(1)
■ラザロの物語伝承
イエスが行なった死者のよみがえりの奇跡に、マルコ5章の「ヤイロ娘のよみがえり」があります。またルカ7章11節以下の「ナインのやもめの息子のよみがえり」も、地名が特定されていることなどから、生前のイエスによる「よみがえり」の出来事だと見なされています〔マイァ『一人の周辺的なユダヤ人』(2)〕。イエスの復活に伴って、イエスが死者をよみがえらせた出来事が、特別の意味を帯びるようになりました。ラザロのよみがえり物語も、このようなイエス自身へのよみがえり信仰と結びついて形成されています。
今回の「マルタとマリアの姉妹」の物語も、ルカ10章38節以下とヨハネ福音書とに共通する伝承から出ていると思われます。伝承の段階ではマルタよりもマリアが重視されていたのですが、ヨハネ福音書では、編集の結果、マルタが主な役割をはたすことになります。ヨハネ福音書では、ルカ福音書と異なって、ふたりのどちらが「より大事なもの」を選んだのかという比較はありません。
また、「ラザロ」という名は、ルカ16章19節以下の「金持ちとラザロ」の話からきているという推定がありますが〔ブルトマン『ヨハネの福音書』826頁(注)16〕、この推定は正しいとは言えません。マルタとマリアとラザロが、ベタニアという地名と結びついている今回の伝承は、むしろヨハネ福音書が書かれる以前からヨハネ共同体が保持していた古い伝承に基づくもので、これがヨハネ共同体において編集されたと見るほうが適切です〔マイァ前掲書〕。マルコ福音書は、イエスの復活をあからさまに描くことを控えていますから、ラザロのよみがえりの出来事もマルコ福音書では、意図的に省筆されているという推定があります(マタイ福音書とルカ福音書に今回の記事がでていないのはこのためか)〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。
死人のよみがえりは、ユダヤだけでなく、ヘレニズム世界でも珍しいことではありません〔キーナー前掲書〕。たとえば、2世紀のアプレイウスの『変身物語』(2巻28~29段)には、エジプトの優れた預言者が若者をよみがえらせる様が生き生きと描かれています〔アプレイウス『黄金のろば』呉茂一訳。岩波文庫〕。21世紀の現代でさえ「死者のよみがえり」が信じられていますから、今回の物語も生前のイエスが行なった出来事と結びついていると見るほうが適切です〔マイァ前掲書〕〔キーナー前掲書〕。もう一つ見逃すことができないのが、このよみがえり物語の終わりにでてくる大祭司カイアファの記事です。カイアファは、受難物語にもでてきますが(18章19節以下)、これらの記事から判断すると、ヨハネ共同体がイエスに関する古いエルサレム伝承を保持していたのは間違いないようです。
■物語の原伝承と編集
今回のラザロのよみがえり物語では、これまでのヨハネ福音書の手法とは異なって、出来事とイエスの教えと人々の反応とが、完全に一体になって構成されています。11章は全体として見事なまとまりを見せていて、それまでの語りのスタイルがここで完成されていると言えましょう。したがって、この物語では、原型となる伝承を想定することは容易でありません。しかし、想定に基づくとは言え、物語の構成を知る上で参考になると思いますから、フォートナの説に従って、11章の原型として想定されるものをあげておきます〔Fortna.
The Fourth Gospel and its Predecessor.97〕。( )内は、原型なのか後の編集か判別の難しい部分です。
ベタニアにマリア(とその姉妹マルタ)がいた。その兄弟ラザロが病気であった。そこで彼女(姉妹たち)はイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です」と言わせた。彼は弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。彼のところへ行こう。」イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。(ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。)
マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、(彼女が泣いているのを見て、)心に憤りを覚えて言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスは「その石を取りのけなさい」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで大声で叫ばれた「ラザロ、出て来なさい」。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に言った。「ほどいてやって、行かせなさい。」このことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
個々の部分については、節ごとの注釈に譲りますが、この原型から、ヨハネ福音書の編集者が、どのように物語を構成しているのかが見えてきます。まず、この物語のおかれている位置を見ると、この出来事は、神殿奉献祭と過越祭との間に置かれています。だから、季節的には12月から3月の間になります。11章に先立って、イエスは、ユダヤから「ヨルダンの向こう側」へ逃れます。そしてラザロの出来事の後で、イエスは再び「荒れ野に近い地方」へと去ります。その後で、過越祭に合わせて、今度は逆にエルサレムへ向かいます。今回の出来事は、イエスのエルサレムでの受難の直前の出来事であることが印象づけられていますから、これまでの活動の最後を飾るものとなります。
共観福音書では、受難の前に宮浄めの記事が置かれていて、これがイエス逮捕の直接の原因になります。ところがヨハネ福音書では、宮浄めは、イエスの活動のはじめの部分に移されて(2章)、しかもこれが、イエスのよみがえりと重ねられています(2章21~22節)。だから、イエスの活動の始めにおかれたこの宮浄めは、終わりのラザロのよみがえりと対応しているのが分かります。ヨハネ福音書では、ラザロのよみがえりが、イエス逮捕の直接の原因になります。始めと終わりのこの対応関係から見ると、ヨハネ福音書は、ラザロのよみがえりをイエスの最後で最大の「しるし」として、これを通じて、イエスの活動全体とその生涯の意味をここに凝縮して伝えようとしているのが分かります。ラザロのよみがえりは、イエスの地上の活動と続く受難を結ぶのです。ヨハネ福音書では、イエスの救いの本質をラザロの「復活」によって啓示する意図によって、伝承の再構成が行なわれています。
物語の構成は、ラザロの死(1~16節)、イエスとマルタとの出会い(17~27節)、イエスとマリアとの出会い(28~37節)、ラザロのよみがえり(38~44節)、イエスを殺すための最高法院での決定(45~57節)と続きます。この構成の中で、先の原伝承に加えられた編集部分をあげると、
(A)4節~16節と
(B)19節~31節と
(C)39節~42節、
(D)45節以下です。ただし、この編集部分にも原型の伝承部分が幾つか挟み込まれています。
編集(A)の部分では、「この病気は死で終わらない」こと、逆にこれが「神の栄光のため」であること、そして「神の子が栄光を受けるため」であることが語られます。特に4節は、11章全体だけでなく、これから起きるイエスの受難全体への解き明かしです。ここでラザロが死んだことが明らかにされますが、それが同時に「死で終わらない」ことが告げられるからです。しかし、ラザロが「死で終わらない」ためには、イエスがユダヤへ行かなければなりません。これがイエスの死を意味することが8節で弟子たちの口から語られます。続いて、イエスの口から、光の「時」と闇の「時」が語られます。福音書のはじめから繰り返されてきた「イエスの時」が、いよいよ近づいたのです。ラザロを生かすためにイエスが死ななければならないことが、このようにして示されます。
次に、原話では、マリアが占めている役割が、編集ではマルタに代えられることです。編集(B)の部分では、イエスとマルタの対話の形で「復活」が語られます。マルタは、イエスに、ラザロが「終わりの日に」復活すると信じていると言います。ところが、イエスはマルタに、「今この時に」ラザロがよみがえる/復活すると告げます。イエスが「今ここにおられる」こと、そのこと自体が復活であると告げるのです(25節)。ここで、マルタは初めて、復活が「終わりの出来事」ではなく、イエスを「神の子キリスト(メシア)」と信じる時に、その場で起きることを悟ります。ラザロの「よみがえり」は、まさに「復活」を証しする「しるし」なのです。ラザロの肉体は、よみがえっても、やがては朽ち果てます。だから彼の「今の時の」よみがえりは、彼が「終わりの日に」復活することを証しすると同時に、彼が「今受けている」霊的な命は「決して死なない」ことへの「しるし」であることが分かります。ラザロのよみがえりは、ヨハネ福音書が、「復活とは何か」を語るために編集されているのです。
ところで、伝承にはほとんど登場しない人たちが、11章にでてきます。それは今回の「ユダヤ人たち」です。彼らは、マリアとともに語られますが、彼らの声は、ちょうどギリシアの古典悲劇のコロス(合唱)のように、終始背後で響いています。この合唱は、「イエスがいかにラザロを愛していたか」と語るとともに、「盲人の目を開けた人がラザロを死なせないようにできなかったのか?」という疑問の声をも響かせます。しかし、ユダヤ人の指導者たちの登場は、特に後半の編集(D)の部分で、はっきりとイエスの死と結びつけられます。ここで大祭司カイアファが語る言葉は(50節)、イエスの受難の意味を見事に言い表わしていることで知られています。「ユダヤへ行く」という最初の編集部分から、大祭司が、「民の代わりにイエスが死ぬ」と宣言するまで、ユダヤ人の登場は、イエスへの死の予告を表わします。ラザロがよみがえりへ向かう道は、同時にイエスが死に向かう道であることが、このようにして明らかにされます。
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