49章 ラザロの生き返り(前編)
11章1〜37節
■11章
1ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
2このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
3姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
4イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
5イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
6ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
7それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
8弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
9イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
10しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
11こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
12弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
13イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。
14そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
16すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。
30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。
32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
35イエスは涙を流された。
36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
わたしは、まだ小学校の時から、信心深い仏教徒の継母に育てられました。母は、虫やみみずでさえもむやみに「殺生」をしてはいけない。なぜなら、どんな生き物も、その前世は、どこかの人間かもしれないのだからと教えてくれました。わたしは、自分も死んだら虫になるのかな? と思って、このために虫を殺さないようにしたのを覚えています。大学に入って、イエス・キリストの福音を学ぶようになって、わたしは、かつて教えられたことと大きな違いがあることに気がついたのです。それは、自分が死んでも、自分という存在自体は、消え去らないで残ることです。死んでから虫になるのであれば、「わたし」という存在はもはや「わたし」ではなくなります。この「わたし」は、いろんなものに生まれ変わるからです。このように、人間の霊魂と肉体を分離する思想は、ギリシア的な思想からきていると言われますが、もっと一般的に言えば、インドの輪廻思想ともつながっていて、ヨーロッパからインドにかけての共通した思想ではないかと思います。
これに対して、新約聖書の御霊の信仰は、霊魂と肉体との分離ではありません。人間ひとりひとりを国や民族に同化させて見る人間観とも異なっています。新約聖書の聖霊から生まれた人間観は、その最初期には、メシア王国に属する人間という見方もありましたが、2世紀の終わりから3世紀頃になりますと、ギリシア・ローマの思想の影響もあって、個人の人格 (personality)を重視するようになります。このように個人の人格を大切にする人間観には、父と御子と聖霊の三位一体を形成する「位格」(ペルソナ/persona)の神がその背後にあると言えます。三位一体の神学は、カルケドン公会議(451年)において一応完成されます。この三位一体の信仰の源は新約聖書、特にヨハネ福音書にあります。ヨハネ福音書以外にも三位一体の信仰が見られますが(マタイ28章19/第二コリント13章13節)、マタイ福音書とパウロ書簡とヨハネ福音書との三位一体の信仰が、相互にどのような関係にあったのかは明らかでありません。それぞれ個別に受け継がれたという説もありますが、そこには父と御子と御霊の神への共同の祈りがあったと推定するほうが正しいでしょう。
三位一体の信仰を形成するのに最も大きな役割を果たしたのはヨハネ福音書です。この福音書は、父と御子との深い交わりに貫かれています。その上、14章以下では、「助け主」(パラクレートス)としての聖霊の働きがはっきりと告げられています。何よりも三位一体の形成の土台となるのが、1章14節の御子の受肉です(15章26節をも参照)。この信仰はヨハネ共同体の内部で形成されてきたものですが、それは神学と言うよりも、集会において活きた愛の交わりの現実として働いていたと考えられます(第一ヨハネ4章7〜12節)。
■受肉したペルソナ
受肉は、イエス様が天から降られたことの証しとして、キリストの神性を顕すと理解される傾向があります。けれども、これは、受肉の反面であって、受肉の本当の意味は、むしろイエス様の「人間性」の証しのほうにあります。キリストの受肉は、1章14節ではなく、「光が世に来た」とある9節からすでに始まっています。9節から14節までに、イエス様は、「自分の民」すなわちユダヤ人たちに拒まれると告げられています。このことが、今回の11章で、ユダヤへ向かわれるイエス様のお姿に重なります。だから、これは「死にいたる受肉」でもあります。
このような受肉を理解する鍵は、パウロの次の言葉、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって己を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現われ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2章6〜7節)にあります。
ここで「己を無にする」とは、神がその一部分を捨てて、人間と半々になった、という意味ではありません。このような半神半人の「キリスト」なら、ギリシア神話のヘラクレスや日本のスサノオのように、神話的な人物になってしまいます。そうではなく、神が、「神ご自身であることを全くやめることなく」イエス様という人間に宿られたという意味です。つまり、宇宙を創造された方が、「己を無にして」、ご自分が創られたその時空の領域に入ってこられたのです。これは驚愕すべきことです。「いったい、この方はどなただろう。命じれば風も波も従うとは」(ルカ8章25節)。これは、受肉の事態を見事に言い表わしています。キリストの中に全宇宙の創造主が宿っておられることを指すからです。
この「己を無にする」(「ケノーシス」と言います)は、キリストの謙虚さを言い表わす表現だというので、わたしたちもキリストに見習って謙虚にならなければならないなどと、まるで「己を無にする」ことは人間が見習うことのできる模範のように言われることがあります。これは大きな誤解であり、はっきり言って錯覚です。なぜなら、ここで語られているのは、全宇宙の創造主である「神ご自身」が、その力と御栄光を保ったままのお姿で、一人の人間に宿られたことであり、これは人間の理解をはるかに超える出来事だからです。なにしろ「神様が」己を無にされたのですから。いったい誰が、これを模範にして「真似る」のですか? わたしの知っている限りでは、これを真似ようと試みて、見事に失敗したのは、ミルトンの『楽園喪失』に描かれているサタンだけです。このサタンは、神の全創造をそっくりそのまま自分のものに「造り替えよう」としたのです。
ルネサンスの時代に、人体の構造は宇宙の縮図であるという考え方があり、大宇宙(マクロコスモス)に対応して、人間は小宇宙(ミクロコスモス)と呼ばれました。ルネサンスの巨匠と言われるレオナルド・ダ・ヴィンチも同じように考えましたが、人体を宇宙の縮図と観た彼が、イエス様というひとりの人間の中に全宇宙の創造者である神ご自身が宿ったことを考えていたかどうかは分かりません。しかし、ペトロが、「どうかわたしを離れ去ってください。わたしは罪深い者です」(ルカ5章8節)と言って、イエス様の足下にひれ伏した時に、彼はおそらくこのような驚くべき存在を感じ取ったに違いありません。人間がこういうことを感じ取ることができるのは、逆説的に聞こえますが、神様が、わたしたちと同じ人間の姿で、すなわち人格(ペルソナ)として、わたしたちのところへ降られたからこそ起こるのです。イエス・キリストの受肉は、「このこと」のしるしなのです。
■ペルソナの死と復活
ヨハネ福音書だけでなく共観福音書も、イエス様が復活されて、その御霊が降臨された後になって書かれたものです。イエス様の復活と聖霊降臨がなければ、福音書は書かれなかったでしょう。と言うより、「福音」書とは、そもそもイエス様の復活を通してイエス様の地上の姿を観ることから生まれたものです。だから、イエス様の「伝記」ではありません。先ほど、受肉は、イエス様が「人間として」来られたことであると言いましたが、イエス様の復活についても同じことが言えます。イエス様は、「人間として」復活されたのです。イエス様の復活は、「人間の復活」です。では、人間の復活とは、なんでしょうか? イエス様はわたしたち人間にいったい何をなさったのでしょうか?
わたしたちが復活を語る場合に、まず「キリストの復活」を思い浮かべます。それはそれで正しいのですけれども、ここ11章のメッセージは、そうではありません。ここでは、イエス様は、「死ぬために」行かれるのであって、復活するために行かれるのではないからです。復活するのはイエス様ではなくて、ラザロのほうです。このことをここで確認してください。ラザロは、イエス様が愛されて、「わたしの友」だと言われた人間です。この人間ラザロがよみがえる。このためにイエス様が死に赴かれる。これが、11章で語られていることなのです。ここでは、人間がよみがえるためにイエス様が死なれることを言っているのであって、イエス様が復活することを証しするためではありません。むしろ、ヨハネ福音書は、人間の復活のためにイエス様が死んで復活されたことを明らかにしようとしているのです。この点をはっきり理解してください。
ここでは、人格(ペルソナ)としてのイエス様が、ラザロのために死ぬことによって、ラザロが全人格的によみがえることが語られています。イエス様が「わたしの友」と言われるのはこの意味です。「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15章13節)からです。だから、ここで語られている「よみがえり」は、イエス様とラザロとの関係において、あえて言えば、ラザロの人格(ペルソナ)が「復活した」と言うことができます。
ラザロは、その死によって、彼の存在それ自体が、消えてしまって無に帰したのではありません。あるいは、旧約聖書にあるように、陰府(よみ)の国で神の裁きを待つだけの死者の状態にあるのでもありません。そうではなく、ラザロという一人の人間が、イエス様を信じる信仰によって、ひとりの人格として生かされること、しかも「このこと」が、不滅の命につながることをヨハネ福音書はわたしたちに語ろうとしているのです。「生きていてわたしを信じる者」というのは、イエス様を信じることで、現在この世で生きながら、神によって「創られつつある」人格のことです。神は「生きている者の」神だからです。「主は生きておられる」からです。「ヤハウェ」の語源である「ハーヤー」するお方とは、このように「働き続ける」お方のことです。神は単に「存在する」方ではありません。わたしたち人間に肉体的にも霊的にも「命を与え、命を創り続ける」のです。
ヨハネ福音書がここで言う「復活」は、マルタが当初考えていたように、死んでも世の終わりになれば復活する、ということでもなければ、死んだら直ちにこの地上から「天に召される」という信仰でもありません。新約聖書には、人が天に「召される」という思想もあり、また終末に復活する信仰も語られています。けれども、ヨハネ福音書がラザロのよみがえりを通して語っている信仰は、そのような「天国信仰」でも、いわゆる「終末信仰」でもありません。むしろ、そういう信仰を超えるものです。
イエス様は、歴史的な存在から、復活して御霊のキリストとなられました。ラザロの生き返りは、イエス様の死と復活の前触れだと言えます。ここで大切なのは、イエス様の地上での生涯をその言葉と振舞い(行動)だけから判断してはならないことです。大事なのは、イエス様というお方それ自体の人格的な霊性、ペルソナとしてのイエス様です。これが人々の心に大きな感化を与えたのです。それは、イエス様の言動よりも、イエス様の霊性そのものから発する力、すなわち「愛」です。その愛は、人間的な意味の愛を超えた不思議な力として人々の心を信仰へ導くのです。しかも、人々から捨てられた十字架刑の後でも、このイエス様の人格的な霊性それ自体は、失われるどころか、ますますはっきりと人々に顕れました。ここで生じていることは、いわゆる「偉人の死」(たとえばソクラテスの場合)と呼ばれるレベルをはるかに超えています。イエス様の場合は、その人格(霊的ペルソナ)が十字架以後になって初めて、その霊性の意味が明らかに顕現したのです。イエス様が「神の子キリスト」であると信じられるのはこのためです。十字架のイエス様(子)とイエス様を復活させた方(父)とイエス様の御霊(聖霊)とはひとつです。父と子と聖霊、この三つが重なることで、ヨハネ福音書のキリストが初めて成就するのです。
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