【付記】
■ラザロ物語の「よみがえり」の用語
11章には「ラザロの生き返り」がでてきます。通常ここは「ラザロのよみがえり」と呼ばれています。「よみがえる」の原語は、ギリシア語の動詞「エゲイロー」で、「眠りから目覚めさせる」「起こす」「よみがえらせる」「復活させる」の意味で用いられ、これの名詞は「エゲルシス」です。この動詞は、共観福音書でもヨハネ福音書でも、死んだ人間が再びこの世に生き返ることを指しています(例えばマルコ5章にでてくるヤイロの娘の「よみがえり」やルカ福音書のナインのやもめの息子の「よみがえり」のように)。聖書では、このほかに、ギリシア語の名詞で「アナスタシス」(起きあがること/復活/よみがえり)があります。これの動詞「アニステーミ」も「起きあがらせる」「(死者の中から)復活させる」(自動詞では「起きあがる」「復活する」)という意味です。
便宜上ここでは、「エゲイロー」「エゲルシス」を「よみがえらせる」「よみがえり」と訳し、「アニステーミ」「アナスタシス」を「復活させる」「復活」と訳しておきます。ただし、これら二つの言葉は厳密に区別して用いられているわけではありません。例えば第一コリント15章20~21節では、「キリストは死者の中から<よみがえった>」とあり、続いて「死が一人の人によって来たのだから、死者の<復活>も一人の人による」とあります(新共同訳はどちらも「復活した」「復活」と訳しています)。「復活」は、新約聖書全体を通じて、特にイエス・キリストの「死からの復活」を指す特別な意味で用いられる場合がほとんどです(マルコ8章31節/ヨハネ20章9節/使徒言行録1章22節/ローマ1章4節)。
ヨハネ福音書の場合は、「よみがえらせる」という動詞が6回用いられていて、そこには、ラザロのよみがえりも、イエスの死からの「永遠のよみがえり」も含まれています(2章22節)。この「エゲイロー」については、共観福音書もパウロも変わるところがありません。これに対して「復活」(アナスタシス)のほうは、ヨハネ福音書に名詞と動詞を併せて9回でてきます。ところが、その中の6回には(5章29節/6章39節/40節/44節/54節/11章24節)、「終わりの日に」という限定が付けられていて、その復活が終末の時に生じる「死者の復活」であることがはっきりと分かります(ただし5章29節の場合は「終わりの日に」がありません。しかし、ここは、終末の裁きの時を意味することが明らかに示されています)。このことが以前から多くの学者たちの注目を惹いてきました。明らかにヨハネ福音書の意図的な用い方だと思われるからです。
ヨハネ共同体は、ほかの「主流派」の教会とは独立の歩みをしてきましたが、異端のそしりを免れるためもあって、主流である「大教会」へ合流したと見られています。その際に、この共同体の終末観と復活についての考え方が問題になり、このために「終わりの日に」を挿入したという説もあります。ただし、このような「挿入説」は、あくまで想定であって、はたしてこの句がそのような意図によって「挿入」されたのか確かではありません。
ところが、11章23節と25節の「復活」には、この「終わりの日に」が付いて<いない>のです。今度は、逆の意味で、この23節~26節で語られているイエスとマルタの対話が、注目を惹くことになります。11章23節でイエスは、マルタに向かって「あなたの兄弟は復活するであろう」と言われます。この「復活」には、それが「終わりの日」の出来事だけではなく、<現在において>すでに「復活」の出来事が生じることであり、それが終末において完全に成就するという意味が込められています。しかし、マルタには、そのような「復活の二重性」が理解できません。それで「終わりの日の復活において復活するのは知っています」と答えます(24節)。ここでは、「復活」という言葉が二度繰り返されて、それが「終わりの日」と結びつけられて読者にも理解されます。
ところがイエスは、これに対して、「わたしこそが復活であり命である」(25節)と語って、「復活」と「命」とを一つに結びつけるのです。「わたしこそ」とは、イエスが臨在している現在のこの場こそ、「復活」が生じる「命」が造られる場であるという意味です。イエスは続けて、「わたしを信じている者はたとえ死んでも生きる」と言われます。「死んでも生きる」は「たとえ肉体の死にあっても死に支配されることがなく永遠の命を保つ」という意味に理解できますが、同時に、今回の場では、「身体的に死んでしまったラザロでも今この時に生き返る」ことも含まれているとも受け取れます。ここには「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。<今やその時である>」とある5章25節のイエスの言葉が響いています〔C.H.ドッド『第四福音書の解釈』〕。その上で、イエスは、「生きていてわたしを信じる者は、だれ一人永遠に死ぬことがない」(26節)と告げます。ただし、この箇所については、「肉体的な命にあってイエスを信じる者は死に支配されない。地上の生にとどまりながら信仰者である者にとっては、究極的な意味で死は存在しない。・・・・・死によって(肉体の)生そのものが無となることが打ち消されるのなら、人は喜んでこれに聞こうとする。・・・・・しかし、信仰は、それ(肉体的な不死性)をも断念する。信仰は、自分に約束されている命(ゾーエー)がどんな性質かを知ることさえ求めない」〔ブルトマン『ヨハネ福音書』〕のような解釈もあります。
ここで確認したいのは、イエスから与えられる命は<わたしたちの身体的な命とは無関係である。あるいはわたしたちの身体的な命への否定として働く>と受け取るのは正しくないことです。そうではなく、イエスの霊性は、わたしたちの身体の命を支え導く大事な、唯一の<命>であり、御霊にある命は身体の命と相反するものではなく、逆に、これさえも「生かし強める」よう働くこと、ラザロの身体的なよみがえりは、まさに「このこと」をも証しする「しるし」であって、そうでなければ、これはしるしでもなんでもなく、ただの幽霊物語になります。わたしたちが、イエスに、「霊と肉」共々一切を委ねるその時に、我知らず人知れずに、顕現するのがイエスの御復活の命であり、それは「エゴー・エイミ」に顕れるイエスの御臨在そのものにほかなりません。イエスこそは、人間が現在も生き、また生き続けていく<命そのもの>であるだけでなく、同時に、最後に死に勝利する復活の命でもあることがヨハネ福音書の信仰なのです。
「復活」と「命」という言葉は、25節後半と26節前半とで次のように対応し合っています。
わたしは復活である。
わたしを信じる者は、たとえ死んでも、再び生きる。
わたしは命である。
生きながらわたしを信じる者は、決して死なない。
先に述べたように、「よみがえり」にも復活の意味がありますから、これは、イエスの復活を予兆する意図をこめて用いられています。この意味で、あえて「ラザロの復活」という呼び方も不可能ではないでしょう。「イエスは、常にこの世において、永遠の命を実現される方です。この真理をしるしとして明らかに示すために、<ラザロの復活>を成し遂げられたのです」〔バレット『ヨハネ福音書』〕。なお、この問題に関連して、ヨハネ福音書の補遺編の「『霊の人』と永遠の命」をも参照してください。
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