【注釈】(2)
■11章
[1]【ラザロ】原文では「ラザロ」が冒頭にでてきて、彼の存在が強調されます。この名前はヘブライ語の「神は助ける」に由来しますが、作者はおそらくこの語源的な意味を意識していないでしょう。聖書では、ヨハネ福音書以外に、ルカ16章にでてくるだけです。
【ベタニア】エルサレムから東へ約3キロの所にあって、エルサレムとエリコを結ぶ街道の途中にありました。ネヘミヤ記(11章32節)には、「アナネヤ」の名前ででていて、現在は「アザーリエ」(この地名は「ラザロ」から出ています)と呼ばれています。
【マリアとその姉妹マルタ】この姉妹は、ルカ10章38節以下の記事と共通する伝承からでています。なお「とその姉妹マルタ」はおそらく編集者が加えたものです。
[2]【主に香油を塗り】「ベタニア」と「イエスの足に香油を塗った女性」と、その上で、「マグダラのマリア」の三者が関連して(?)出てくるのはヨハネ福音書だけです。これらの関係は複雑ですから12章でとりあげます。なお、このことは12章1節以下で起こることですから、ここは後の編集による書き加えでしょうか。「主に」とあるのもイエスのよみがえり以後の呼び方で、後の編集を裏付けています。イエスの死と葬りの意味がこめられていることを読者に分からせるために加えたのです。
[3]【あなたの愛する】ここの「愛する」の原語「フィロー」は「友達」(フィロス)とつながります。11節でイエスが「わたしの友」と呼ぶのはこのためです。
[4]【死で終わらない】直接的には11節と呼応します。ラザロは「眠っている」のであって、決して死んだのではないという意味です。キリストにあって「眠った者」が「死で終わらない」ことは、第一テサロニケ4章13~14節にもでています。ラザロのよみがえりが、これから起きる出来事としてだけでなく、それが、終末において復活する「しるし」であることを意味します。
【神の栄光のため】これから起きることは、人間の業ではなく、神が命を与える創造のみ業であることを明らかにするのです。神の栄光「のため」というのは、その結果、神が崇められるという意味よりも、むしろ、起こる出来事それ自体が神の業であり、同時に神の栄光の顕れだという意味です。続いて「神の子が栄光を受ける」とありますが、「栄光を受ける」は、イエスの受難と復活を意味するヨハネ福音書独特の表現です。神の栄光とイエスの受難が一体であることが、ラザロの出来事に象徴されています。
[5]【マルタとその姉妹】マルタが前面に出ているのは、後でイエスとマルタとの対話を導き出すためです。ただし、ここには、ルカ福音書のように、姉妹を比較対照する意図は見られません。なお、ここでイエスが「愛しておられた」と言っているのが注目されます。なぜなら、この言葉は、特にヨハネ福音書では、「主の愛しておられる弟子」を思い起こさせる言い方だからです。この福音書には、サマリアの女(4章)やマグダラのマリア(20章)に見られるように、大事な場面で女性が登場するのが特長です。特に、この11章では、イエスとマルタとが、よみがえりと復活の問題の核心に触れる対話をしますが、これはユダヤ教の慣習から見て異例のことです。『トマス福音書』は、四福音書より先に書かれたと考えられますが(後という説もあります)、この福音書では、マグダラのマリアが、ペトロにも優る弟子としてイエスと対話を交わします。このことから、イエスの弟子たちの中には幾人かの女性がいて、「めざましい働きをしていた」〔ウィザリントン『最初期の教会における女性たち』〕と考えることができましょう。
[6]【二日間同じ所に】物語の構成から見れば、イエスは「ヨルダンの向こう側」にいるために、ベタニアまで、およそ二日の距離にあると考えられます。ラザロは死んでから「四日たって」いますので、二日間出発を延期したのでしょう。しかし、イエスの遅延はそれだけでなく、その業は常に「父の定めた時」と結びついているのがヨハネ福音書の特徴です(2章4節/7章8節/8章20節)。
[7]【ユダヤに行こう】「行こう」の原語は「赴く/進む」です。ほんらいの伝承では「<彼の>ところへ行こう」でしょう。ここでイエスのベタニア行きを「ユダヤ」、すなわち受難の場であるエルサレムと関連づけているのです(10章39節参照)。このことは、次の弟子たちの言葉ではっきり表明されます。
[8]【ユダヤ人たち】7節の「ユダヤ」という地名が、ここでは「ユダヤ人」となっていて、同じ意味に用いられているのに注意してください。ヨハネ福音書では、「ガリラヤ」と「ユダヤ」という地名は、そこに住む人たちとほぼ同じ意味で用いられています。イエスも弟子たちも「ユダヤ人」ですから、ここでは民族や人種の意味ではありません。「ついこの間も石で打ち殺そうとした」は8章59節を参照。
[9]【12時間ある】当時のユダヤでは、ローマと同じく、1日は、季節の日没から日の出までの長さに関わりなく、昼が12「時刻」に分けられていました(夜は四つの刻限)。イエスはここで、「神の定めた時が来るまではまだ少し間がある」(12時間)と言いながら、自分がこの地上で「光として」証しする時間が非常に限られているとも言っているのです。
【光を見ている】古代の人には、ものが見えるのは外から光が入ってくるからだということがまだよく認識されていませんでしたから、目それ自体に光が宿るという考え方がありました。ここは、「イエスからの光」を受けることで、光を内に宿すことによって、その人自体が光と<なる>という意味です。だから、「光」とはイエス自身のことですが、同時に、それを「見る」ことによって、人それぞれの内に宿る「光」のことをも指します。『トマス福音書』(24)にも次のようにあります。「誰でも耳のある者は聞くがよい。光の人の内に光があり、そして、それは/彼は、全世界を照らしている。もしそれが/彼が照らさないならば、それは/彼は、闇である。」〔荒井献訳〕
[10]【つまずく】原語は暗闇の中で何かにぶつかることで、イエスが救い主であると悟ることができないことを指します。9章39~41節にあるように、光は「裁き」にもなります。「見える」と言い張る人こそ、逆に闇の中でつまずくのです(イザヤ書8章14節/ローマ9章32~33節)。残された限られた時の間に、イエスを通して光を宿すならば、その人はつまずくことがありません。しかし、イエスは、命を与えるために死に赴こうとしていますから、間もなく「光」が「取り去られる」時が来ます。その時になって、「その人の内に光がない」とつまずくのです。
[11]【眠っている】イエスは、ラザロが死んでいることを知っています。「眠り」は、ユダヤ社会では、通常の意味だけでなく、特に「死の眠り」の意味にも用いられました。歴代の王が「先祖と共に眠りについた」(列王記上11章43節)とあるとおりです。イエスは、ここで、この意味で「眠っている」と言っています。ただし、ここで言う死者が「眠りから覚めて復活する」ことは、黙示思想に起源を持っています。新約聖書の終末観と復活信仰には、黙示思想が深く関わっていますが、黙示思想そのものは、一般のユダヤ人にはなじみの薄いものだったようです。
【起こしに】イエスは、はっきりと「死からのよみがえり」の意味で「眠りから起こす」と言っています。しかし、用いられている原語は、眠りから「覚ます」、「目覚める」というふつうの意味です。「眠りから覚める」ことが、特に「死からのよみがえり/復活」を意味する場合に、新約聖書では、通常「起きあがる」(この語自体にも「復活」の意味がありますが)という言い方をします。おそらく、この辺にも弟子たちの誤解の原因があるのでしょう。なお、「わたしたちの友」という言い方は、信仰を同じくするキリスト教徒を指す言葉としても用いられました(15章13~14節/第三ヨハネ15節/ルカ12章4節/使徒言行録27章3節)。
[12]【助かる】原語には「(病気が)治る/救われる」の両方の意味がありますが、ここで弟子たちが言うのは「(死から)救われる」ことではありません。「眠る病人は治ると言います。起こさないほうがいいでしょう」〔塚本訳〕。ただし、イエスの視点からは、眠りから「目覚める」ことは死から「救われる」ことです。「眠り」と「死」と「救い」については、マルコ5章39~42節にもでています。ちなみに、マルコ5章23節にある「助かる」には、死から「救われる」の意味が込められています。
[13]前節へのコメントです。「助かる」には、病気が「治る」ことと「救われる」ことの両方が含まれています。ヨハネ福音書は、時々弟子たちや敵対者の口を通して、自らは気づかずに「隠された真実」を語らせる場合があります。ヨハネ福音書独特のアイロニー(皮肉)の手法です。ここで弟子たちが「助かる」と言ったのは、全くの「誤解」からですから、彼らは、ラザロが死んで、そこから「救われる」などとは知らずに言っていると説明しているのです。
[15]【信じるようになる】原文は「あなたがたが信じるようになるから、わたしは感謝する。あなたがたがそこにいなかったからである」です。イエスの「しるし」の結果、弟子たちや人々が「信じるようになる」ことは、2章11節/同22節でも記されています(11章42節も参照)。イエスは、ラザロの死について、弟子たちを元気づけようとしたのでしょう。
[16]【ディディモと呼ばれるトマス】イエスが「ラザロは死んだ」と語ってから、「彼の所へ行こう」と言ったので、トマスは、イエスが「死ぬために行く」と思ったのでしょう。しかし彼は、それとは意識せずに、イエスに起こる受難を語っています。共観福音書でのトマスは、その名前が十二使徒の一人にあげられているだけですが(マタイ10章3節など)、ヨハネ福音書で、彼は重要な役割をはたします(14章5節/20章24節以下/21章2節)。「トマス」も「ディディモ」もギリシア語で、「ディディモ」は「双子」の意味です。このギリシア語は、ヘブライ語「ターアム」(二重になる/ペアになる)から出た「テオーム」(双子)がアラム語「テオーマー」になり、「トマス」(20章24節)/「トーマー」(同27節)になったと思われます。『トマス行伝』(2世紀半ば頃?)には、トマスが、主イエスによってインドへ遣わされたことが書かれていて、そこでは、トマスが「大工の子イエスの奴隷ユダ」(『トマス行伝』第一行伝2章)として出ています。『トマス行伝』は『トマス福音書』との関係が注目されていますが、『トマス福音書』はシリアのエデッサで編集されたと思われますので、『トマス行伝』もシリアからの伝承に基づくものかもしれません。『トマス福音書』は、早くからある福音書で、イエスの言葉を残している貴重な文書です。これを生み出した宗団は、ヨハネ共同体と(たぶんシリアで)交流があったと見られています。なお、現在インドの西南部に残っているキリスト教は「トマス派」と呼ばれる古代からのキリスト教で、トマスの伝道によると言い伝えられています。
[17]【ラザロは墓に】原文は「彼は墓に」です。「彼」とは14節のラザロを指しますので、17節は、ほんらい14節に続いていたのです。したがって15節~16節は後からの挿入であることが分かります。
【葬られて四日】「すでにまる四日間たっていた」という意味です。ユダヤでは、通常死亡したその日に葬られますが、亡くなって三日以内は、魂が肉体に戻る可能性があると信じられていました。したがって、すでに四日間たっているので、ラザロは完全に死んでいたことになります。
[18]【15スタディオン】約3キロです。これは、ただの距離ではなく、イエスの一行がエルサレム近郊に来たことを指します。
[19]【マルタとマリアの】原文ではマルタの前にだけ単数の冠詞が付いています。「マルタ=マリア」をひとつの家族と見たからでしょうか。
【多くのユダヤ人が】ベタニアがエルサレムに近かったために、多くのユダヤ人がお悔やみに来ていたのです。これらの人たちが、ラザロのよみがえりの証人になりますが、その中の幾人かが、そのことをユダヤ人の指導者たちに報告することになります。
【慰めに】原語は「励ます・勇気づける」(パラミスーマイ)です。新約聖書では、死者の遺族を「慰める」の意味では、通常別の動詞「パラカロー」が用いられます(第一テサロニケ4章18節)。ヨハネ福音書で、聖霊を「助け主・慰め主」と呼ぶ時の「パラクレートス」は、「パラカロー」からでています。しかし、ここはユダヤ人のことなので、ヨハネ福音書は、意図的にこの動詞を避けて、違った言い方をしているという説もあります。なお、このユダヤ人たちは善意から姉妹へのお悔やみに来ているのです。
[20]ここでのマルタとマリアとの振舞い方の違いは、ルカ10章39~40節の二人の描き方と共通しています。ヨハネ福音書とルカ福音書に共通する伝承があったと思われますから、このように性格の違う姉妹が実際に存在した可能性があります。なお、マリアが「座っていた」とあるのは、死者を悼む時の姿勢を指します。
[21]この節から27節までは、よみがえり/復活についての編集者の挿入で、ヨハネ福音書の復活観を語る重要な箇所です。続く内容から判断して、マルタは、ここで、イエスに不平を言っているのではなく、また、ラザロが死んでしまったことで絶望状態に陥っているのでもありません。
[22]【今でも承知しています】原文は「今もなお知っています」。この言葉から、マルタは、今からでもラザロを取り戻してくださるようにイエスに求めているという解釈があります。しかし、これに続くマルタの復活信仰と39節のマルタの言葉から判断すると、マルタはここで、たとえラザロが死んでも、イエスへの信頼は揺らいでいないと告白しているのです。
[23]【あなたの兄弟は復活する】イエスのこの言葉には、ラザロが、今すぐに「復活する」ことと「終わりの日に」復活することの両方の意味がこめられています。この二重性が、次のマルタとの問答を導き出します。
[24]【終わりの日】「日」は単数です。「終わりの日」は終末を意味しますが、この言い方は、旧約にもでてきます(エゼキエル書2章28節/ホセア書3章5節/ミカ4章1節その他)。ただし、「終わりの日」が単数形なのは、新約でもヨハネ福音書だけです。「終わりの日の復活」は、ここ以外に、6章に4回繰り返されていて(39/40/44/54節)、さらに12章48節にも「裁きの日」としてでてきます。6章のパンの奇跡は、「命のパン」としての聖餐を象徴していますから、イエスの血と体を「今この時に」いただくことを通じて、「終わりの日に」復活することが語られるのです。ヨハネ福音書以外では、「終わりの日々」のように複数で(使徒言行録2章17節/ヘブライ1章2節/第二テモテ3章1節/ヤコブ5章3節)、そこにはヨハネ福音書の言う「終わりの日」に「先立つ」期間が含まれています。
 死者がこの地上に「生き返る」ことと、終末に「復活する」ことは同じでありません。ところが、ヨハネ福音書では、23~25節を通じて、同一の動詞「アニステーミ」(起こす/立たせる/死者から生き返らせる/復活する)の未来形と、これの名詞形「アナスタシス」(起き上がり/復興/生き返り/復活)が用いられています。あえて内容を汲んで、動詞を「生き返る」と、名詞を「復活」とに訳し分けると、23~24節の対話は、次のようになります。
イエス:「あなたの兄弟は<生き返る>」。
マルタ:「はい、わたしの兄弟が<生き返る>ことは知っています。
     終わりの日の<復活>に」
Jesus: "Your brother will rise again."
Martha:"I know that he will rise again at the resurrection on the last day."〔NRSV〕〔REB〕。
 日本語訳では、動詞と名詞三つとも「復活(する)」とありますが〔共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕、これはマルタの視点に立っているからでしょう。ここでマルタが語る終末での復活信仰は、イエスの頃ファリサイ派ユダヤ教の正統的な信仰です(使徒言行録23章6節)。このような復活信仰は、ユダヤ人キリスト教徒たちを通じて、ヨハネ共同体の頃まで、キリスト教徒たちにも受け継がれていました。しかし、イエスが「よみがえる」と言ったのは、マルタが考えている意味と重なりながらも異なることに注意してください。それだけに、次に続くイエスの言葉がマルタには驚きとして響くのです。なお、今回の「よみがえり」と「復活」の用語については、この49章末の「付記」を参照してください。
[25]【わたしは復活と命】原文の意味は「わたしが臨在するところ、そこによみがえり/復活があり、命がある」です。なお「命がある」が省かれている異読もあります。ナザレのイエスの臨在こそ、ヨハネ福音書のメッセージの核心です。ただし、ここで、二つの問題が提起されています。一つは、ここでの「よみがえり/復活」は、現在のことなのか? それとも終末のことなのか? という疑問です。もう一つは、「命」とは、身体的な命を含むのか? それとも霊的な命は、人の「霊魂」のことなのか? という問題です。これらの問題については、補遺編の「『霊の人』と永遠の命」を参照してください。
[26]25~26節では独特の並行法が用いられています。
  (A)わたしは復活であり、命である。
  (B)わたしを信じる者は、死んでも生きる。
  (C)生きていてわたしを信じる者はだれでも、
     決して死ぬことがない。
(A)で、「わたしはある」(エゴー・エイミ)によって、イエスご自身の臨在それ自体が、よみがえり/復活の命をもたらすと語ります。しかし、この段階では、復活がいつのことなのか、命には身体的な存在も含まれるのかどうかは語られません。次いで(B)では、イエスを信じる者は、たとえ肉体的に死んでも生きるとあって、ここで終末での復活が告知されます。これは、先のマルタの復活信仰と一致します。ところが、ヨハネ福音書は、この「死んでも生きる」に、ラザロが「今この時に」おいて「身体的にも」よみがえることを重ねるのです。ヨハネ福音書は、ここで二重の「よみがえり」を通じて、ラザロの現在での身体のよみがえりが、終末での復活を予兆する「しるし」だと言い表わすのです。イエスの臨在は、ラザロの身体にも働きかけます。ただし、(B)は、人が死んだ<後でも>、その人が死後にイエスを信じるなら、その身体のままの姿で生き返るという意味ではありません。
(C)は、その上で、身体的な存在のまま「今この時に」イエスを信じている者のことを指します(これが「生きてわたしを信じる」の意味です。なお、第二コリント5章14~17節をも参照してください)。だから、生きながらイエスを信じる者は、「永遠に」(「決して」の原語を直訳)死ぬことがないと言うのです(5章24節)。これは、イエスを信じる者は、<この世でも来るべき世でも>、霊的な意味において死ぬことがないことを言い表わすものです。ヨハネ福音書の復活信仰を直ちにヨハネ黙示録に結びつけることはできません。しかし、ヨハネ福音書が、ここで「終わりの日」と単数で述べていて、しかも「永遠に死ぬことがない」と言うのは、ヨハネ黙示録で言う「第一の復活」(19章5~10節)にあたります。ヨハネ黙示録では、彼らは、キリストと共にいわゆる「千年王国」に与り、その後に来る「第二の死」(ヨハネ黙示録2章11節/20章14節/21章8節)を免れます。ラザロの現在でのよみがえりは、「このこと」の最大の「しるし」なのです。ただし、これは、イエスを信じる者の復活が、現在の肉体的な存在のままですでに完了しているという意味ではありませんから注意してください(第二テモテ2章17~18節)。さらに第一テサロニケ4章13~19節を参照してください。
【このことを信じるか】信じる者には、<今この時からよみがえりの命が始まる>と言ってから、イエスはマルタの信仰を試しています。しかし、「だれも死ぬことがない」とあることから、これはヨハネ福音書が、すべての人に向けて発している問いかけともなります。
[27]【あなたがメシア】原文は「あなたこそキリスト、この世に来られる神の御子」です。新共同訳では、復活以前のイエスは、まだ教会が宣べ伝える「キリスト」ではないという見方から、「キリスト」というギリシア語を「メシア」とヘブライ語で訳してあります。この節はマルタの信仰告白ですが、おそらく、ここには原初教会以来の洗礼での信仰告白が反映しています。「神の子」という言い方は、原初教会が、早くからイエスに対して用いていた称号です。
【わたしは信じております】「わたし」が強調されています。原文は「わたしは信じるようになりました/信仰に到達しました」で、ヨハネ福音書独特の言い方です。ここでイエスが語るよみがえり/復活は、先にマルタが述べた「終わりの日に復活する」ことだけではありません。よみがえり/復活は、すでにこの世において生じる神の創造のみ業であることが大事なのです。マルタは、ようやくこのことに気づいたのです。なお、ここでのイエスとマルタとの対話は、ヨハネ共同体の信仰を表わしていますから、マルタは共同体を象徴する者として描かれています。このような女性の表象は、旧約聖書の知恵文学の流れを汲むもので、「知恵」(ソフィア)は、気高い女性あるいは「美しい愛と畏れの母、知識と清らかな希望の母」(シラ書24章18節)として登場します。神は「知恵を愛する者」を愛して、その人に知恵の本質を解き明かします(シラ書24章1~22節)。マルタは、その解き明かしに応えて、イエスへの信仰に到達するのです〔マーティン・スコット『ソフィアとヨハネ福音書のイエス』〕。
【世に来られるはずの】「神の子」「キリスト」と並んで、これも3番目の称号と考えるべきでしょうか。「世に来られる方」というのは、原初教会からの用語で(マルコ11章9節)、「モーセが預言していた預言者」(1章45節)すなわちメシアのことです。
[28]【先生が】宗教的な指導者への呼び方で、ユダヤ教では「ラビ」と言います(20章16節を参照)。なお「耳打ち」したのは、ここに来ているユダヤ人たちがイエスに敵対していたからではありません。
[29]編集者は、35節まで、もとの伝承を活かしながら語っています。
[31]【泣きに行く】当時のユダヤの慣習では、家族が故人の墓へ泣きに行くときには、お悔やみの人たちも共について行きました。故人を悼む行列は、男女別々で、女性は特に声を出して泣いて死者を悼む仕草をしたようです。
[32]【足もとにひれ伏し】マリアのイエスへの信頼の深さを現わすと同時に、ラザロが死んでしまったことへの悲しみがにじみ出ています。マリアに対するイエスの答えは、イエスの母に対するもの(2章4節)、あるいはカファルナウムの役人に対するもの(4章48節)とは異なっています。なお「イエスのおられる所に来て」は後からの挿入です。
[33]【憤りを覚え】原語の意味は「霊に激しく突き動かされ、自分の内がかき乱される」ことですが(14章1節/同27節参照)、この言い方は異例です。後半の「自分の内がかき乱されて」は後からの加筆でしょうか。あるいは、アラム語の言い方が、ふたとおりのギリシア語に訳されていたのが、そのまま両方ともとりこまれたのでしょうか。「霊に激しく突き動かされたように心がかき乱されて」と読む異読もありますが、これは後からの訂正です。「憤りを覚える」の原語は、古代から用いられてきた言葉で、病や死や災厄などのつらく苦しい事態に直面した時に霊に「突き動かされ」たり興奮や憤怒に燃えることです。この言葉は、そのような場合の祭儀での祈祷の際に祈祷者が陥る状態をも指します。ギリシアのペルセポネー神話で、太母神デメーテールが、その娘ペルセポネーをハデス(地獄)の王プルートーンにさらわれた時に、「憤怒に燃えて」(同じ原語)娘を救いに黄泉へ降りていきますが、この場合は、そこで、なんらかの(おそらくエレウシースの)祭儀が行なわれたことを表わします。
 今回の箇所の解釈は、(A)「深くため息をついて/霊において深く動かされて」(主として米英系の説)と(B)「怒って/霊において憤って」(主としてドイツ系の説)のふたつに分かれています〔タルバート『第4福音書』〕。伝承のままでは、イエスが「憤った」理由がはっきりしません。周囲の人たちの不信仰を憤ったためという説明もありますが、「ユダヤ人の不信仰」が原因ではありません(この説だとマリアが泣いたのも不信仰だと解釈できます)。むしろ、マリアのイエスへの信頼と訴えがイエスを動かしたと見るほうが適切です。「彼女が泣き~」は、編集者が伝承の意図を汲んで加えたものです。
[35]【涙を流された】イエスの涙は「ラザロのためと言うより、周りの人たちの不信仰のため」ではありません。イエスも一緒に泣いたのです。動詞がアオリスト形なのは「突然に泣きだした」という意味でしょうか。
[37]【死なないようにはできなかったのか】ラザロの出来事が「神の栄光を顕す」ためであることを悟ることができない人たちの声ですが、ここにもヨハネ福音書独特の皮肉を読み取ることができます。
                                                                        
  わたしは復活である。
  わたしを信じる者は、たとえ死んでも、再び生きる。
  わたしは命である。
  生きながらわたしを信じる者は、決して死なない。
 
 先に述べたように、「よみがえり」にも復活の意味がありますから、これは、イエスの復活を予兆する意図をこめて用いられています。この意味で、あえて「ラザロの復活」という呼び方も不可能ではないでしょう。「イエスは、常にこの世において、永遠の命を実現される方です。この真理をしるしとして明らかに示すために、<ラザロの復活>を成し遂げられたのです」〔バレット『ヨハネ福音書』〕。なお、この問題に関連して、ヨハネ福音書の補遺編の「『霊の人』と永遠の命」をも参照してください。
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