50章 ラザロの生き返り(後編)
11章38〜54節
■11章
38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
45マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
46しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
47そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。
48このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
49彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。
50一人の人間が、民の代わりに死んで、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
51これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
52国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
53この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
54それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
【講話】
【注釈】
■墓の中から わたしが、かつて「心の中の雑草を抜き取りなさい」と語ったところが、これを聞いたある人が、「そんなことはしないほうがいい」と言いました。これは、ある意味で正しく、ある意味で間違っています。この人の言うのが正しいのは、わたしたちは、自分の心にある雑草を「自分で」抜こうとしてはいけないからです。そんなことをすれば、自分自身を苦しめるだけでなく、信仰それ自体を破壊してしまうからです。では、なぜ、その人が間違っているかと言えば、「心の雑草」は「主様の御霊が」抜き取ってくださることだからです。
ラザロは、石で塞がれた墓の中にいました。しかも、この石は、ラザロの目からは見えません。ラザロは、石の「内側に」いるからです。石を取りのけなければならないことが分かるのは、「外から見ている」人のほうであって、内側にいる人ではないのです。だから、わたしたちは、自分の力で、自分を閉じこめている石を取り除こうなどとしてはいけません。そもそも、そんな石があることさえも理解できないからです。こういうラザロの全く無力な状態、言い換えると、完全に死んでいる状態をマルタは「はや四日もたっています」と言うのです。ベトザタの池の畔に38年間座っていた人、生まれながらの盲人だった人、長い歴史の年月、ユダヤとサマリアとの間の憎しみと敵対関係の中で過ごしてきたサマリアの人、こういう人たちにイエス様は語りかけるのです。「光は闇の中に輝いている。しかし闇はこれを悟らなかった」とありますが、ここは「しかし闇はこれに勝てなかった」とも読むことができるから不思議です。死んだ人間は無力です。死んだ人間は何にもしません。それでいいのです。逆に、死んだ人間が、自分は生きていると思いこんで、勝手に動き回るとおかしなことになります。嘘かほんとか分かりませんが、幽霊は、自分が死んだことが分からないそうです。
では、どうやって石を取り除くのでしょうか? お言葉が発せられ、み声が響いてくると、その人を閉じこめていた石が、ゆっくりですが、動き始めます。大きな重い石です。石の大きさを見誤ってはなりません。後で見るとびっくりします。こんな大きな石が、自分を閉じこめていたのかと。では、石を取り除けたら何が起こるのか? イエス様のお姿が見えるのか? いいえ、何にも見えません。ただ、イエス様のお声が聞こえるのです。神のお言葉が響いてくるのです。「わたしの声を聞いて死から命へ移される」(5章24節)ということが起こり始めるのです。
では、その石の内側の人の状態はどうでしょうか? 縛られている状態です。ウィリアム・ブレイクというイギリスの詩人は、人間の魂がこの世に生まれる時には、「肉体という雲にぐるぐる巻きにされて」出てくると言いました。生まれたばかりの赤ん坊は、「おむつの紐で縛られて」ピーピー泣いたとあります(ブレイク『無垢と経験の歌集』)。パウロは、こういう肉体にあって縛られている状態を「肉にある」人間と呼んでいます。「肉にある」というのは、肉体のことだけではなくて、人間の存在は、この世では、束縛された状態で、外面的にも内面的にも縛られているという意味です。
ラザロがイエス様の声を聞いて、縛られたまま出てきた時は、そのような状態でした。だから、自分に何が起こったのか、彼にはよく分からなかったでしょう。自分は、墓の中にいるのと同じような状態にあると思えたでしょう。ところが、何となく、周りが変わったのです。自分の周辺に、不思議な空気を感じるのです。彼は自分の周辺が、何となく輝いているように思われます。聖霊の働きが始まったのです。すると、イエス様は、彼を「ほどいてやりなさい」と言われました。束縛の紐が、ひとつひとつ取り除かれていきます。けれども、長い間縛られていた人なら、束縛が内面化されていますから、そこからなかなか抜け出すことができません。
束縛がなくなるとどうなるのか。歩くことができるようになります。ラザロは、自立自歩ができるようにされたのです。神が人間を人格としてお造りになられたとは、「自由な」存在として造られたことです。人の人格は、イエス様以外のものの前では、束縛されています。完全なペルソナ(人格)としてのイエス様のみ前にある時だけ、人はペルソナとして自由になるのです。
■新しい「わたし」
「わたしが臨在するところ、そこに復活がある。活きる命がある」とイエス様はマルタに言われました。「わたし」というイエス様の人格的な御臨在に応える時に、信じる側の「わたし」のほうにも、人格の復活が生じます。これが御霊による「新しいわたし」の創造です。ここから、終末の最終的な復活へ「方向づけられる」命が始まります。だから、復活とは、肉体的な意味なのか? あるいは肉体を離れた霊魂のことなのか? と問う必要はありません。パウロは、これを「霊の体」という不思議な言葉で表わしています。身体的か、霊魂的か、という問いではなく、両方を人格的に統合したペルソナとしての人間の有り様のことだと考えるほうがいいでしょう。では、「霊の体」とはなんなのか? さらに問う人がいるかもしれません。これに納得できるように答える自信はわたしにはありません。一つだけ確かなのは、「霊のからだ」とは、その人が全人格的にその人自身であることを失わない、そういうものだということです。こういう意味を込めてパウロは、「からだ」と呼んだのです。肉「体」、人「体」、国「体」、全「体」というときの「体」は、「すがたかたち」のことであって、その中身のことではありません。それがそれである姿形のことをパウロは「からだ」と呼んでいて、その人格的な姿が霊的であることを「霊の体」と呼んでいる。わたしはこのように理解しています。これ以上のことを詮索することは、わたしにはできません。このことについては、補遺編の「『霊の人』と永遠の命」をも参照してください。
新約聖書が、「イエス・キリストの御霊」と言う時に、それは、イエス・キリストのペルソナとしての御霊のことです。聖霊がペルソナであること、その聖霊が、新たに創造する働きをすること、この二つが大事です。三位一体の神が、その交わりへとわたしたち人間を招き入れてくださるとは、わたしたちが、人格的なペルソナとして新しく創造され続けていくことを意味するのです。これが、ヨハネ福音書の伝えるイエス・キリストが、わたしたちに与えてくださる「永遠の命」の賜です。このことをしっかりと把握することが、聖霊体験と聖霊の神学において最も大事です。
わたしたち一人一人は、本来あるべき人格としての姿を見失っています。自分の真の姿は、いわば死んだラザロのように、墓の中で、布に包まれて、隠されています。ところが、主のみ声を聞くことによって、一人一人の内にある真の人格が、このようにして目覚め、この地上にあって活き始める。こういうことが、イエス様の御霊の働きによって起こるのです。「ラザロよ」という呼びかけは、わたしたち一人一人に向かって、イエス様を通じて来る神からの呼びかけです。この意味で、ラザロのよみがえりは、イエス様が「死に勝つ命」の授与者であることを表わしています。11章は、万物を飲み込む「死」と滅びの世界にあって、イエス様が「死に勝つ」ことを証ししています。
■身代わりの山羊
「スケープゴート」(scapegoat)、訳せば「身代わりの山羊」という言葉があります。これは、古代のイスラエル共同体が、自分たちの共同体の罪を贖うために、また悪霊から守られるために行なっていた儀礼から出た言葉です(レビ記16章7〜10節)。二頭の雄山羊がいて、一頭は贖罪のために主に捧げられ、もう一頭は荒れ野に住む悪霊アザゼルへ献げる犠牲として、生きたまま荒れ野へ追いやられました。この悪霊に捧げられるほうを「スケープゴート」と言います。
この故事から、ある団体や社会や民族が、その共同体の内か外かで、なにかの危機や不都合が生じた場合に、これを解決する手段として、「身代わりの山羊」を犠牲にして問題の解決を図ろうとするやり方を、特にその犠牲を指して「スケープゴート」と呼びます。会社の犯した組織的な犯罪を一人の秘書なり課長なりが、その責任を負わされて起訴される、あるいは自殺に追い込まれる。こうして会社が生き延びる。政党全体が犯している犯罪を一人の議員のせいにして、彼をマスコミの前に曝して犠牲にし、あたかも政党全体が浄化されたかのように装う。経済の歯車が狂った時に、ある特定の階層の人たち、あるいは特定の企業を犠牲にして、全体の秩序の回復を図る。このように、「身代わりの山羊」は、犠牲を要求する仕組み、すなわち「犠牲の構造」から生じます。「身代わりの山羊」の構造は、わたしたちの経済、政治、文化、そして宗教に深く根ざしています。
旧約聖書は、身代わりの山羊の事例に満ちています。まず、カインによるアベルの殺人で始まり、カインの息子たちによる文明が創始されたます。兄の犠牲となったアベル、家族から捨てられたヨセフ、エジプトで奴隷にされたイスラエルの民、王国の政治と宗教の指導者たちから迫害された預言者たち、旧約聖書は、このような犠牲の事例で満ちています。新約聖書では、洗礼者ヨハネの首とイエス様の十字架というふたつの血なまぐさい出来事が語られます。片やヘロデという為政者の犠牲となり、片やユダヤ教の指導者とローマ帝国の代官による犠牲者です。この犠牲から、洗礼者ヨハネの宗団と、イエス・キリストのエクレシアが誕生しました。
今回のところで、大祭司は、ユダヤの国と民族と宗教をその危機から救うために、イエス様に死刑を宣告します。大祭司は、イエス様を「身代わりの山羊」として、ローマの権力を借りて処刑しようと謀(はか)っています。ところが、ヨハネ福音書は、彼の決定に、贖罪の献げものとされるもう一頭の山羊とイエス様とを重ねているのです。イエス様は、「身代わりの山羊」ではなく「犠牲の小羊」となられました。大祭司は、宗教的な指導者なら誰でもするように、「みんなにとって好都合」になるようにと、生け贄を殺す役目を果たしたつもりでした。
わたしたちは、ここで、人類の文化と文明に潜んでいる「犠牲の構造」から、改めて「復活」をとらえ直す必要があります。なぜなら、このように犠牲として葬られた小羊こそが、よみがえって、人々に敬われ崇拝される、ということがしばしば起こるからです。イエス様が、「しるし」を求めてきたユダヤ人に対して、「ヨナのしるし」のほかは、何も与えられないと言われたのもこの意味です。「ヨナのしるし」とは、イエス様の復活を指します(マタイ12章39〜40節)。
ヨナは、神に背いたために、乗っていた船が大嵐に遭い、船に乗り込んでいた全員を救うために犠牲となって海に投げ込まれ、「三日三晩」鯨の腹の中にいたとあります(ヨナ書1章7〜2章1節)。ヨナは、乗組員全体のために身代わりの山羊として、荒れ狂う大海の中へ投げ込まれて、犠牲にされたのです。ただし、ヨナは神に背いたためであり、イエス様のほうは人の罪を背負ったためです。イエス様は、当時のパレスチナが置かれていた国家的、民族的な危機の中で、この危機を乗り切るための犠牲として、ユダヤ号という船から、荒れ狂う危機の海の中へ投げ出されたのです。これが、大祭司カイアファが言ったことのほんとうの意味です。
ヨハネ福音書は、イエス様を殺した人たちを「ユダヤ人」と呼んでいます。もしもこの言葉を、イエス様を十字架に付けた「悪い民族」のことだと誤解するなら、その時わたしたちは、間違いなく、「ユダヤ人」をわたしたち全体のための「身代わりの山羊に」仕立てていることになります。過去2000年間、キリスト教は、こうして「ユダヤ人」を身代わりの山羊として扱ってきました。ナチスのユダヤ人虐殺は、こういう宗教的な構造の中で容認され実行されたのであって、決して一部の人間だけの仕業でも偶発的な出来事でもありません。では、ヨハネ福音書は、なぜイエス様の十字架を「ユダヤ人」のせいにしたのでしょう? それは今指摘したとおり、旧約聖書には、このような犠牲の構造が、「宗教的に」組み込まれているからです。しかも、その構造が、人類全体の文化と文明の根底に潜むことを明らかにするだけでなく、人間の宗教性それ自体に潜む精神構造だということ、このことを「ユダヤ教/ユダヤ人」が明らかにしているからです。小さなグループからより大きな団体、会社や様々な組織、社会や国家や民族、これらの大小様々な人間の集まりの中には、グループ内の「いじめ」から戦争まで、広い範囲の「犠牲の構造」が潜んでいます。このような人類の営みに潜む「罪」こそ、イエス様を十字架につけたほんとうの犯人であり、ヨハネ福音書が「ユダヤ人」と呼ぶのは、この意味での「真犯人」のことです。ここで言う「ユダヤ人」は、意識的、無意識的に、そのような社会と文明の構造の中で生きているわたしのことであり、あなたのことです。だから、キリスト教という宗教の名の下に人種的な差別をこめてユダヤ人を犠牲にする者たちのほうこそが、ここでヨハネ福音書が言う「ユダヤ人」であり、大祭司カイアファであり、彼と「共に立つ」最高法院のメンバーの一人なのです。
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