51章 マリアの香油
                    11章55〜12章8節
■11章
55さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。
56彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」
57祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。
■12章
1過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
2イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
3そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
4弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
5「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
7イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。
8貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
 
                       【講話】
                    
【注釈】
香油を注ぐ
 マルコ14章に、ベタニアのある女性が食事の席でイエス様の頭に香油を注いだ話がでています。マタイ26章にもほぼ同じ話があります。ルカ7章では、ある「罪深い女性」が、食事の席でイエス様の足に涙を注ぎ、香油を塗ってこれを自分の髪の毛でぬぐったとあります。ルカ福音書では「ある町で」となっていますから、その場所がどこかは分かりません。ところがルカ10章には、マルタとマリア姉妹がでて来ます。今回のヨハネ福音書の話では、場所はベタニアで女性はマルタの姉妹マリアです。彼女は「罪深い」とはありませんが、イエス様の足に香油を塗って髪の毛でこれをぬぐいます。ですから、ヨハネ福音書の「ベタニアのマリア」には、ルカ7章の涙の女性とマルコ14章のベタニアの女性と、さらにルカ10章のマルタの姉妹マリア、これらの女性たちの特徴が重ね合わされていることになります。
 こういうわけで、今回は、女性的な特徴をそなえた物語です。「女性的」と言うのは、女性に限られているという意味ではありません。男性にも女性的なところがあり、女性にも男性的なところがあります。そうでなければ、両性は交わりを保つことができませんから。ですから「女性的」というのは、タイプとして女性的な特徴があるという意味です。実は、この「女性的」は「知恵」を意味するギリシア語「ソフィア」(女性名詞)とも関係しています。以下では、この女性的な「ソフィア」の特徴に目をとめながら、この話を見ていくことにします。
  女性的な特徴の第一は、香油を注いだことです。マルコ=マタイ福音書では、香油注ぎが、イエス様のエルサレム入城の後になりますが、ヨハネ福音書では入城の前です。イスラエルでは、王が即位するときに「油注ぎ」が行なわれました。「油注ぎ」は神への聖別を意味します(出エジプト29章7節)。イエス様は「メシア」とも言われましたが、「メシア」(ギリシア語で「クリストス」)も「油注がれた者」を意味します。「油」は神からの「霊」の象徴で、食用だけでなく医療にも、また宗教的な儀礼でも大事な意味を帯びていました。
 ヨハネ福音書の香油注ぎは、イエス様がエルサレムに入城する直前です。香油のほうは、油ほど多様な用途がありません。これは、もっぱら「香り」のために用いられました。「香り」は必ずしも女性だけのものではありませんが、それでも、これを用いるのは、いかにも女性的な特徴を帯びていると言えます(「香り」は、霊的に「知識の香り」を象徴すると言われます)。わたしも、ナルドの香油の小瓶を買って、その香りをかいだことがありますが、その香りは香木(こうぼく)のようにアジア的な香りがして、ヨーロッパの香水とはずいぶん違う印象を受けたのを覚えています。
 今回の香油注ぎは、イエス様の遺体の埋葬への備えだとあります。11章〜12章は、イエス様の受難と復活を示唆しますが、イエス様の十字架と復活の間に置かれた「埋葬」もまた大切な意味を帯びています。それはイエス様が、肉体を持ってこの世に降られ、肉体を具えた人間として「死」を体験され、その上で、「死者の中から」復活されたことを確認させるからです。
 なぜイエス様の<おからだ>にこだわるのかと言いますと、イエス様は霊的な存在として人間の身体とは関わりがなく、したがって十字架で処刑されたのは、肉体を具えた人間のほうであって、イエス様の霊は無傷で天へ昇ったという誤った信仰があったからです。神のロゴスが処女マリアの胎内に宿ったのは、マリアをただの「借り腹」としたのではありません。そうではなく、神のロゴスが、マリアの胎内において初めて、人格(ペルソナ)を具えた<からだ>として、身体を持つ人間となられたのです。ところが、イエス様の霊的な面を重視するあまり、イエス様の人間としての身体的な性質を否定する人たちが、ヨハネ福音書の頃からすでにいたのです(第一ヨハネ4章2〜3節)。だから埋葬は、イエス様の身体的なからだの存在を確認する大事な意味を帯びています。これがあって初めて、わたしたち身体を具えた人間の贖いが、イエス様の受難と復活によって十全に成就されるからです。
■髪の毛でぬぐう
  香油が、香りという女性の特徴を示唆すると言いましたが、ここでは、香油が、イエス様への「献げ物」であることにも注目したいのです。香油の献げ物とは、いかにも女性的だと思います。ヨハネ福音書で、マリアが、イエス様の足に香油を塗って髪の毛でこれをぬぐいますが、これは、ルカ福音書の「罪深い女性」の物語と共通します。ルカ7章の「罪深い女」は、香油の入った石膏の壺を携えて、ファリサイ派シモンの家に突然入ってきて、食事をしているイエス様の足を涙で濡らし、髪の毛でその涙をぬぐい、イエス様の足に接吻して香油を塗ったとあります。
 ユダヤ教の当時の慣習からすると、女性がここまでするのは、相当に大胆な振舞いで、人をつまずかせる行為だったことでしょう。イエス様は、意図的に律法違反を犯すことはしませんでしたが、「徴税人と罪人」の友になることは、それ自体、当時の慣習から見れば異常なことでした。けれども、この異常な<ありそうもない>ことこそ、イエス様が伝えられた「神の国」の特長だったのです。彼女の行為は、新しい御国のこういう有り様を証しする「しるし」として実際に起こった出来事です。
  イエス様は、罪赦された喜びとイエス様への愛を現わす彼女の行為を受け容れて、逆にほめておられます。香油が、イエス様へのひたむきな愛を表わす献げ物だったからです。イエス様のほめ言葉は、シモンに向けるよりも、その場の全員に向けられたものですから、わたしたちにも向けられています。もしもその場に居合わせた人で、イエス様の御言葉の真意を理解できた人がいたとすれば、その人には、おそらく目の前の情景が、この世のこととは思えない出来事に映ったでしょう。イエス様の福音的な霊性が、今までどこにも存在しなかった世界を実現させているからです。この御国の場では、イエス様への彼女のひたむきな愛が、彼女の「すべての罪を覆い尽くした」のです(第一ペトロ4章8節)。
 わたしたちの行なうすべての業は、父なる神とイエス様への礼拝も含めて、この女性と同じ「罪深い者」の行為にすぎません。わたしたちがイエス様に何かを「してあげる」ことができるとすれば、そうすることが「赦されている」からにすぎないからです。だから、行為の動機が何かは、あまり詮索しないほうがいいです。する当人も、自分の動機など、まして人の評判など、気にする必要がないのです。
  キリスト教では、「愛」の有り様を神の愛(アガペー)と人間的な情愛(エロース)とに分けて見る伝統があります。しかし、人間のする行為のどこまでがエロースで、どこからがアガペーなのか? この区別はそれほどはっきりしているわけではありません。そもそも「エロース」というギリシア語は、異性の間の愛情のことだけではありません。パウロ流に言えば、人間がする行為は、ことごとく「肉の業(わざ)」ですから、ほんらいエロース的な行為でしょう。たとえそれが、どんなに宗教的に動機づけられていても、人の意欲から出ている限り、それはエロースであって、神様からの愛(アガペー)、すなわちイエス様にある罪の赦しの愛とは言えません。人が知識を追求する行為でも、楽園の知恵の樹からその実を取って食べたアダムとエヴァのように、自分が神のようになろうとして、知恵や知識をむさぼり食べるエロースに突き動かされていると言えます。
  だから、どこまでがエロースで、どこからがアガペーか? ではなく、わたしたちのする行為は、これすべてエロース的であり、このエロースがアガペーによって「導かれる」、すなわち「方向づけられる」ことが大事なのです。この「罪深い女性」のように、彼女の愛とこれから発する行為が、「イエス様に向けられている」ことが大事なのです。それ以外のことは、あまり詮索しないほうがいいです。ルカ福音書で、シモンやその場にいた弟子たちにイエス様が言われたのはこのことです。
 ヨハネ福音書は、マリアさんから「罪深い」性質を除いていますが、伝承というものは、たとえそれが編集され、その過程で変容しても、その伝承がほんらい具えていた根元的な意義は失われることがなく、どこまでもその意義を伝え続けるものです。ちょうど幾重にも塗り重ねられた絵の具のように、たとえ下地の色が表面には出てこなくても、それなしには、絵の深みそのものが成り立たない、そういう大事なところを根源で支えているのです。
■香りが部屋に満ちる
  さらに女性的な特徴は、マリアさんが、言葉ではなく、自分のからだを通じて、具体的な姿で愛を現わしている点です。わたしは、罪深い女性のしたことが「この世離れ」していると言いました。「この世離れ」しているとすれば、それは、彼女が、イエス様の御霊の世界に住んでいるからです。イエス様の御霊の世界がこの世離れしているように見えるのは、御霊が働くと、日常の世界とは「異なる時」が入り込むからです。「死後の世界」などは「この世離れ」のいい例だろうと思います。しかし、「あの世」は「今」ではありませんから、死後の「この世離れ」は現実味がありません。ところが、マリアさんの行為は、イエス様の「この世離れ」した御霊の世界を「今のこの時に」現実させています。言い換えると、マリアさんは、イエス様の御霊の世界に入ることで、ユダとは違った世界に<現に生きている>のです。
 居合わせたユダも含めて、わたしたちは、日常の慣れ親しんだ世界にいます。朝起きてから夜寝るまで、わたしたちの日常は「からだ」を通じて行なわれます。だから、わたしたちの「からだ」こそ、わたしたちの「日常」です。通勤、職場、台所、どこであろうとも、自分の「からだ」が今存在するその場が、自分の「今の時」です。わたしたちは、自分の日常を「からだが居る時」として生きています
 ところが、イエス様の御霊の世界は、日常とは「違う世界/時」に属するのです。そこに日常とは「違う時」が入り込むからです。だから、これは「非日常」の世界です。主を信じる人たちが、パンとぶどう酒の聖餐をいただく時には、過去のイエス様の十字架の贖いの「とき」が現在のわたしたちに<入り込む>のです。それだけでなく、聖餐は、やがてわたしたちもまた、イエス様のお姿に<変貌する>未来をも顕します。聖餐は、過去と未来を現在の中に「持ち込む」からです。これを「終末的な現在」と呼びます。実は、聖書の伝える世界だけでなく、人間の宗教的な営みは、例えば祭りのように、日常を非日常化する働きをします。祭りは、普段とは違う時間を持ち込むのですが、今はそのことに触れません。御霊の世界は霊的な世界ですから、なにがしか非日常的なものを含んでいます。
 そして、ここが大事なところですが、御霊は、わたしたちの「からだ」を通じて働くのです。逆に言えば、わたしたちのからだによって、イエス様の御霊が初めて「行為として」の出来事になるのです。よく信仰は精神であって肉体ではないと言う人がいますが、それは違います。霊的な宗教体験を多少とも知っている人なら、このことがよくわかります。霊とからだを切り離すことはできません。
 イエス様の御霊にある愛も、からだを通して働くのでなければ、日常のどこにも御霊は働いたことになりません。目に見えない御霊の働きが、「からだ」を通じて見える姿となるのですから。すなわち、からだの行為は、そのうちに宿る霊的なものを「顕す」のです。だから、からだの行為は、御霊の働きを「象徴する」のです。イエス様の御霊を信じて生きる人にとっては、そのからだの働きが、イエス様の御霊の働きの「しるし」なのです。見えるからだは見えない霊を「現わす」からです。
 注意してほしいのは、霊的なものを象徴するからだの働きは、日常のどんなに小さな行為でも、外に見える部分だけでは済まない深い霊的な意味を内に秘めていることです。そこに、霊的な意味が隠されているからです。人の目から見れば日常の些細な行為、一見なんの意味もないように見えることが、実は、その背後に、大きな意味を秘めている。こういうことを知ってください。この場合、他人の目には、なんの意味もないと映るかもしれません。しかし、それを行なう本人には、大きな意味があるのです。日本語の「奥ゆかしい」は、物事の意味を悟るために「もっと奥へ行ってみたい」というのが、もとの原義だと聞いたことがあります。禅宗のお坊さんの修行の場合でも、掃除をする、ご飯を食べる、こういう日常の些細な行為までが大切な意味を帯びている、これが禅の世界ではないかと思います。福音的に言えば、日常の小さな行為が、御霊の働きの「しるし」なのです。
 ここまで来ると、わたしたちの「日常」が、全く新しい意味を帯びることになります。少なくとも、そういう「霊的な日常」が存在することを知っていただきたいのです。マリアさんは、貴重な香油を持ってきて、それをイエス様の足に塗りました。香油の香りが部屋いっぱいに広がりました。ところが、側にいたユダは、これを見て批判しました。ここで問われるのは、施しの正義か、埋葬のためか、どちらが大事か? ということではありません。なぜなら、ユダは、そもそも貧しい人のことなど気にもかけていないからです。彼の言う「施し」は、マリアさんの行為に対する批判の口実にすぎません。彼は「何のためにこんな無駄なことをするのか?」と非難します。「なんのために?」と言うユダには、マリアさんのしたことが全く理解できません。「そんな貴重な香油なら、300デナリオンには売れただろう。そうすれば、どれだけ沢山の貧しい人を助けてやれたか分からないのに。もったいない。」
 ユダがマリアさんを非難するこの口実には、彼の考え方がよく表われています。1デナリオンは、その頃の労働者一日分の給料ですから、300デナリオンは、平均的な労働者の一年分の賃金です。ユダの考え方は、ある意味できわめて合理的です。何よりも効率的です。それを売ればいくらに売れるか。300デナリオンでどれだけの数の人を養えるか。どうすれば、もっと効率的にそのお金を運用できるか。彼の視点からすれば、これが重要なのです。行為の質は問題になりません。そこに、どんなに深い想いがこめられているのか、その行為がどんな霊的な意味を帯びているのかなどは、彼の目に入りません。人間の数とお金の額、これの計算から割り出した、最も効率的で、人々によくわかる「数量的な」価値観です。これはきわめて現代的です。効果と効率第一の今の世の中にぴったりです。  一人の人間のする些細な行為。そんなものは、今の世の中ではなんの意味も持ちません。マスコミも取り上げないし、人の注目も集めません。現在わたしたちは、そういう世の中に住んでいます。何かやろうと思えば、できるだけ大勢の人を集めて、大きな「イベント」にする。テレビで騒がれ、雑誌に写真が載らなければ意味がない、こういう考え方のまかりとおっている世の中です。
 確かにわたしたちは、肉体的で物理的な存在です。物理的な存在は、数の世界で数量的に処理できます。何万人中の一人として。しかし、わたしたちは、同時に「霊的な」存在です。霊的とは人格的ということです。だから、わたしたちは量や数ではないのです。わたしたちひとりひとりの小さな営みが、人に評価されてもされなくても、それだけで絶対的な価値を持つ、そういう生き方ができるのかできないのか? このことが問われているのです。
 わたしは今、かつて小諸で病の人たちの世話をした石垣会の川口愛子先生と川口真理子さんのことを想い出しています。人の目にとまらない些細な行為、人の耳には聞こえない無言の語りかけ、そういう営みが意味を持つためには、どうしても、このような霊的な人間存在の有り様に出合わなければならないのです。マリアさんのしたことによって、部屋に香油の香りが満ちたとあります。イエス様の御霊にある生き方、それが持つほんとうの意味をヨハネ福音書はこのように伝えているのです。
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