52章 エルサレム入城
12章9〜19節
■12章
9イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。
10祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。
11多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。
12その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、
13なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」
14イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
15「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」
16弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。
17イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。
18群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。
19そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」
共観福音書を読んだ後でヨハネ福音書を読みますと、あまりにも出来事の順序が違うので驚く人が多いと思います。例えば、共観福音書には、イエス様が十字架にかかる「最後の」過越祭しかでてきません。ところが、ヨハネ福音書には、過越祭だけで3度でてきます。ですから、ヨハネ福音書によれば、イエス様は、祭りのためにエルサレムとガリラヤの間を少なくとも二度往復しています。ところが共観福音書では、ガリラヤからエルサレムへ向かう1回だけの旅しかでてきません。さらに共観福音書だけを見ても、マルコ福音書は、イエス様の伝道活動を洗礼者ヨハネの伝道から始めていますが、マタイ福音書はイエス様の誕生から、ルカ福音書は洗礼者ヨハネが母の胎内に宿った時からイエス様の話を始めています。皆さんは、どうしてこんなに違うのだろうといぶかるかもしれません。
マルコ福音書は、洗礼者の伝道開始から始めて、イエス様の十字架(と復活)へまっすぐに進んでいきます。短い期間にすごく大きなことを体験した場合には、こういう描き方をするのが最も分かりやすく伝わりやすいのですが、今はこのことに触れません。ただ、ヨハネ福音書と共観福音書の違いは、共観福音書同士とは比較にならないくらい大きいので、このことに触れてみたいと思います。なぜ今回、このことに触れるのかと言いますと、共観福音書では、エルサレム入城の後で、イエス様は、神殿から商人を追い出すいわゆる神殿の浄化を行なっています。これは、イエス様のエルサレム入城が、神殿の浄化と密接につながっているからです。ところが、ヨハネ福音書では、神殿の浄化は、イエス様の伝道活動の始めの頃(2章)にでてきます。その代わり、入城の直前にラザロのよみがえりがでてきます。共観福音書には、ラザロのよみがえりは、出来事としては一度もでてきません(ルカ福音書には、死んだラザロが生き返ることが、イエス様の話しの中で語られますが)。ヨハネ福音書はでたらめを書いているのではないか? こういう疑念を抱く人もいるかと思います。実際、ヨハネ福音書は、史実に基づかないこしらえごとを書いていると考えられた時期がありました。しかし現在では、ヨハネ福音書には、共観福音書に書かれていない実際の出来事が含まれているという見方のほうが強いのです。
例えばここで、ピカソの絵を考えてみましょう。彼は、人間の顔をすっかり変形(デフォルメ)させて描いています。なぜピカソは、あのような描き方をしたのでしょう。絵とは平面ですから、縦と横の二次元の世界で表現するものです。絵は、写真のように、見えるままの姿を平面のカンバスに写し取る手法です。ですから、人間の顔も平面、すなわち二次元で映し出されます。ところが、わたしたちは二次元の世界に住んでいるのではありません。実際のわたしたちの世界では、顔は、平面ではなく立体です。これは、縦と横と高さの三次元の世界です。
そこでピカソは、人間の顔を実際にわたしたちが見ている三次元の世界で描こうとしたのです。言わば、二次元の世界の絵の中で、三次元の表現を試みたのです。前からだけでなく、上からも横からも、場合によっては後ろからも、空間の中に存在する立体として描き出そうとしたのです。顔だけでなく、人物そのものをも立体的に観た姿を描いたのです。このために、彼の絵では、二次元で見える姿が完全に分解されて、目をあっちに付けたり、手をこっちに付けたり、鼻を曲がって付けたり、すっかり変形させて描かれています。彼は、二次元の描写を組み替えて再構成しなければなりませんでした。二次元の世界に三次元を持ち込んだからです。
私の頭を白い立方体の印画紙ですっぽり包んで、外から何かの光線を当てて、立方体のそれぞれの面にわたしの頭を写し取ります。次に写し取った立方体の印画紙のそれぞれの面の間にハサミを入れて、全体を平らに広げますと、わたしの頭が三次元で写し取られています。しかしそれは、わたしたちが実際に見る姿とは全く別です。どうしてこんなに違うのか? それは、二次元に「違った次元の」世界を持ち込んでいるからです。でたらめどころか、写真はありのままの現実を写し撮ったのです。ところが、広げてみると、現実とは全く異なります。実は、ヨハネ福音書の描き方もこれに通じるところがあります。もしも、この三次元の立方体が、動いているところを写真に撮ったら、どんな風に映るでしょうか? 今度は時間が入りますから、これは四次元です。
古代教父の時代から、ヨハネ福音書は「霊的な」福音書だと言われてきました。ここで「霊的」というのは、物事の起こった出来事の順序をたどる時に、わたしたちに見えるそのままの姿ではなく、そこに違った次元が入り込んでいるという意味です。わたしたちの世界は、動いている時間を加えると四次元です。わたしたちは、この中に住んで、出来事もこの次元で見ています。ところが、ヨハネ福音書の筆者や編者たちは、わたしたちの住む時間・空間の中にいながら、出来事に「さらに別の」次元を持ち込んで描いているのです。だからと言って、事実に基づかないのではありません。ヨハネ福音書には、共観福音書にはない史実が含まれています。
ではその「別の次元」とは、いったいなんでしょうか? それはイエス様の復活の出来事です。この意味では、共観福音書もヨハネ福音書も同じです。福音書は、ナザレのイエス様の復活を証しする書です。だからこれは通常の次元、すなわち、わたしたちの日常の次元とは異なります。福音書は「史実」を語っていないとよく言われますが、それは当然です。けれども、福音書は、わたしたちが通常考える「史実」としては、伝えることのできない次元の「出来事」を語っているのです。新聞は日々の出来事を「事実」として伝えます。しかしその「事実」は、1日経ったら古くなります。ところが「福音書が伝える」イエス様の出来事は、2000年経っても古くならない。福音書は、イエス様という一人のお方が、地上で語り業を行ない、死んで復活したことを新聞記事のように伝えるのではありません。そうではなく、「イエス様という出来事そのもの」が、その全体として、終わることなく復活している。こう証ししているのです。そこには、イエス様の行なったこと、語ったことのいっさいが含まれています。かつて地上で現実に起こった「イエス様現象」が復活したこと、これが福音(よい知らせ)の意味だからです。
イエス様が復活したのは「ただ1度だけ」です。「1度だけ」復活したとは、2度と死なないことです。復活したものは、「そのまま持続」します。だから、イエス様現象は、そのまま現在にいたるまで、「時間の中を動きつつ」持続しているのです。先ほど、わたしは、三次元の立方体が動く時に、時間が加わって四次元になると言いました。人間の体が、時間の中を運動する姿を「そのまま」写真に撮っただけで、はたしてわたしたちの目で判別できるでしょうか? ぼやけてなんだか分からないのではないでしょうか? わたしたちの目で見てこれを認識できるためには、どんな姿形で描かれることになるのでしょうか?
イエス様現象が復活現象に変容した時に、それは「時間の中を動き始め」て、現在でも動き続けています。こういう「事象」を伝えるために福音書は書かれたのです。しかも、わたしたち人間に分かるように、人間の言葉で語られているのです。だから四福音書の語り方には、それぞれに不思議なデフォルメが行なわれています。では、そのデフォルメで、ヨハネ福音書は何を伝えようとしているのでしょうか? これがヨハネ福音書を読む時の大事なところです。
■イエス様と神殿
ヨハネ福音書は、イエス様が十字架にかかったのが、過越の犠牲の小羊が屠られるのと同じ時であったと証言しています。イエス様は、人々の罪を背負って、犠牲として屠られる小羊となられたのです。動物の犠牲は、もはや人間の罪とその暴力を防ぐ力を失っていました。そこで神は、御子をお遣わしになって、人間の罪をその根源において罰するために、御子を犠牲の小羊として十字架にかけて屠ったのです(ローマ8章3節)。御子の流す犠牲の血によって、わたしたちの罪が赦され、再び罪の暴力に支配されないためです。イエス様の流された貴い血潮が、わたしたち自身の罪の赦しとなって働くのです。これは神が為されたことで、人間の考え出したことではありません。かつてイスラエルの神殿で行なわれていた罪の赦しの祭儀が、このようにして、神の御霊が宿るイエス様のおからだにおいて成就されたのです。
神は、このイエス様を復活させて、わたしたちが罪の赦しを授与されるための場、すなわち、かつてのイスラエルの「神殿の場」としてくださった。「神の御霊が宿るイエス様」の復活は、目に見える建物の場で行なわれる見える形の犠牲ではなく、イエス様を信じるわたしたちという「場」において、霊的に執り行なわれる贖罪の祭儀が実現することを意味するのです。「イエス様のおからだにおいて」と言ったのは、イエス様が、わたしたちと全く同じ肉体を具えた人として、わたしたちの存在に宿る罪を御自分が引き受けてくださったという意味です。神はこのようにして、イエス様を通して全人類の罪の赦しを達成し、救いの御業を成し遂げてくださいました(3章16節)。
イエス様が「霊の神殿」となられたのは、かつてエルサレムで行なわれていた贖罪の祭儀が、イエス様において、全人類が参与できる新たな霊的な祭儀の場となるためです。神は、このようにして、この神殿に詣でるすべての人が、形だけではなく、その霊的な内面において罪赦されることで己に働く罪の暴力に勝つことができるようにしてくださったのです。
■「イエス様の神殿」と贖いの力
このように、イエス・キリストが十字架において流された血を自分の罪の犠牲の血として受け容れることで初めて、わたしたちは罪の働きから救われます。注意してほしいのは、自分で自分の罪を責めることが、罪の暴力に勝つ力にはならないことです。罪を自覚して悔いるのは大事です。しかし、そのことが、罪に勝ち罪の再発を防ぐ力にはならないのです。犠牲の小羊が流す血は、神の祭壇に注がれるものです。だから、赦しと罪に克つ力は「神の祭壇から」来るのです。犠牲として御自身をお献げになったイエス様から来るのです。だから、わたしたちは、己の罪にひるむことなく、十字架を通して降るイエス様の力を信じて、これに頼ることができます。自分自身の状態に関わりなく、「力は神から来る」のです。神の御霊を宿したイエス様のお働きから来るのです。暴力は、有形無形の姿でわたしたちを襲うかもしれません。そんな時わたしたちは、つい自分の力で何とかしようと、もがいたり動き回ったりしますが、それでは事態をいっそう悪くするだけです。そんな時には、とにかく「イエス様という神殿」にお参りしてください。そして、イエス様に自分の罪を委ねて祈ってください。自分の力で罪の暴力と闘おうとしないでください。犠牲の上に手を置くのは、自分ではなく、ただ神だけが、罪を赦し、罪の再発を防ぐ力をお与えくださることを表わすためです。
神は、イエス様の十字架と復活と、これに伴う御霊の注ぎによって、一人一人にイエス様の神殿の扉を開いてくださいます。ヨハネ福音書は、イエス様の復活によって、エルサレム神殿が、イエス様の神殿と「置き換えられた」ことを証しするのです。かつてイスラエルの宗教を象徴していた神殿とその機能が、イエス様の御臨在によって「新たに再興」されていること、このことをヨハネ福音書は語っています。神は、イエス様という新しい神殿を全人類にお与えになりました。預言者たちが、エルサレムの神殿に世界中の民が集うと預言したことが、イエス様の神殿によって成就したのです。ヨハネ福音書がユダヤの祭りとイエス様の活動を重ねているのはこのためです。このような「置き換え」は、ヨハネ福音書全体を通じて見ることができます。
ヨハネ福音書では、イエス様による神殿の浄化が、イエス様の伝道活動の始めに置かれています。これは、イエス様の伝道が、そもそもの始めから、「すでに復活している」イエス様の伝道として語られているからです。だから、エルサレムに入城したイスラエルの王は、霊的な意味では、「すでに勝利した」神の神殿です。ヨハネ福音書で、イエス様のエルサレム入城に先立って、ラザロのよみがえりの出来事が語られ、入城の歓呼の前後に、ラザロの死とよみがえりが置かれているのは、イエス様が「すでに死に勝って」復活した王であることを表わすためです。ヨハネ福音書では、入城に続く神殿の浄化もいちじくの木への呪いも終末予告もありません。それらはすでに終わっているからです。このようにデフォルメした象徴的な語り方こそ、ヨハネ福音書の特長です。
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