【注釈】
■王権と神殿
  ヨハネ福音書のエルサレム入城の語り方は、共観福音書とは異なっています。イエスのエルサレム入場について、マルコ福音書には「王」という言葉がでてきません。ゼカリヤ書からの引用もありません。マルコ福音書では、イエスの「王」としての入城は控えめに隠されています。入城の記事は「いちじくの木への呪い」を伴いますが、このいちじくは、やがて崩壊するエルサレム神殿の象徴でしょう。マタイ福音書では、ヨハネ福音書と同じくゼカリヤ書からの引用があり、「お前の王」がでてきます。しかし、マタイ福音書では、入城がそのまま神殿で商人たちを追い出す神殿の浄化へ直結します。マタイ福音書の「王」は、再び来臨する終末的な「天の王国の王」が、エルサレムへ迎えられるイエスの姿に反映しています。ルカ福音書には、マルコ福音書同様、ゼカリヤ書からの引用がありません。ただし「王」に向けられている弟子たちの賛美がはっきり表わされています。イエスの入城は、これに先立つ「ムナ」のたとえと結びついて(ルカ19章11節以下)、「わたしが王になることを望まなかったあの敵どもをわたしの目の前で打ち殺せ」とあり、マタイ福音書同様に、入城が神殿浄化につながります。ルカ福音書の入城でのイエスは、すでに数々の力ある業を成し遂げた「王」であり、全世界を支配する神の王国の王としてエルサレムで「即位する」姿です。
 ヨハネ福音書では、マタイ福音書と同じで、ゼカリヤ書からの引用はありますが、ヨハネ福音書の場合、ゼファニヤ書の言葉とも重ねられています。共観福音書と異なり、イエスは、子ろばに乗って入城するのではなく、入城してから民衆の歓呼に応えて子ろばを見つけ、それに乗ります。しかも、その前にホサナ賛歌が来て「イスラエルの王」とありますから、イエスは、この呼びかけに応じて子ろばに乗ったようにも見えます。ゼカリヤ書の引用がその後に続いて、この「イスラエルの王」が「ろばの子」に乗った平和の王であることがはっきりと描かれています。共観福音書とのさらに大きな違いは、人々がなつめやしの枝を手に持ってイエスを迎えることです。共観福音書では、服や木の枝をイエスの通る道に敷いたとありますから、これは、明らかに王の即位を祝う絨毯を表わします。ところが、ヨハネ福音書で、人々は、神殿へ詣(もうで)る巡礼たちが手にするなつめやしで、あるいは祭りの際に用いる葉枝の束でイエスを迎えるのです。だから、この「イスラエルの王」は、まるで詣でるための神殿のように描かれています。
 ヨハネ福音書の入城は、その前後関係においても共観福音書と大きく異なっています。入城の後には、神殿の浄化やいちじくの呪いのような劇的なものは何もありません。反対する者たちとの問答もありません。実は、ヨハネ福音書では、ほんらいの入城は12節~16節だけでした。これに、後からの編集によって17節~19節が加えられた結果、入城が、その前に置かれた9節~11節と、後からの付加とに挟まれる形になったのです。付加部分では、どちらもラザロのことが言及されています。特に17節~19節の付加は重要です。イエスの入城が、ラザロの死と復活に重ねられているからです。ここでのイエスは、すでに「死に打ち勝った」王であり(凱旋の入城はすで戦いに勝利した王が行なうものです)、同時に、これから死と復活へ向かう王でもあるのです。マタイ福音書やルカ福音書の描く凱旋風景に比べると、ヨハネ福音書の描き方には、より霊的(神学的)な意義がこめられています。
  このように見ると、ラザロの「復活」が入城の前に置かれている意味がよく分かります。共観福音書では、入城が「これから起こる」神殿の浄化と直結します。ところがヨハネ福音書では、入城は「すでに起こった」ラザロの復活と重ねられるのです。入城との関連で「すでに起こった出来事」としては、ヨハネ2章の神殿の浄化があります。この出来事もここでの入城と切り離すことができません。2章の神殿浄化も過越祭と結びついています。そこでも、共観福音書と同様に神殿の崩壊が語られますが、ヨハネ福音書は、これの崩壊をイエスの「からだ」の死と復活に重ね合わせるのです。弟子たちは、ここでも、イエスの語ったことをイエスの復活の後になって「想い出す」のです。だから、ラザロの復活と並んで、神殿の浄化もエルサレム入城と対応しているのです。
 ヨハネ福音書の言う「イスラエルの王」は、王国“kingdom”という領土的な支配者であるよりも、王権それ自体“kingship”を表わしていると言えましょう。言い換えると、イスラエルの王権は、エルサレムの神殿とひとつです。だから彼は、ちょうどソロモン王のように、政(まつりごと)を行なう祭司王です。ソロモンと同じく、イエスもまた「ダビデの子」です。「神殿の浄化は、キリストのからだの崩壊と復活の象徴として理解できる。そのように、ここ(エルサレム入場)でも、死んでよみがえったキリストが、王として民衆の歓呼を受けつつろばに乗る方として象徴されているのである」〔C・H・ドッド『第四福音書の解釈』〕。ちなみに、ヨハネ福音書が描くこのエルサレム入城は、後の教会に大きな影響を与えて、6世紀頃のヨーロッパ中世では、受難週に先立つシュロの日曜に行なわれた「シュロの行列」では、エルサレム入城は、罪と死を克服したイエス・キリストの勝利の入城として祝われ、シュロの枝は、死に勝利したイエスの君臨を表すものとされました〔ルツ『マタイ福音書』(3)〕。
■現臨する霊の王権
 ヨハネ福音書は、もともと、ユダヤ人キリスト教徒たちのためのしるし福音書からスタートしました。これは、イスラエルのメシアが、イエスによってすでに到来したことを証しするための「しるし」として書かれたものです。だから、イエスの到来によって、メシアの到来が「完了した」という信仰に基づいていました。しるし福音書(「しるし資料」とも言います)を生み出したユダヤ人キリスト教徒たちは、イエスによってメシアの王国が「ついに実現した」。こう信じたのです。実は、この実現した神の王国こそ、ユダヤ人ほんらいの「メシアの到来」が意味したことです。
 しかし、ここがヨハネ福音書の不思議なところですが、ヨハネ共同体は、この「実現したメシアの国」をきわめて高度に霊的な次元へと高めたのです。だから、ここで言う王国は、むしろ神からの霊的な王権そのものと観るほうが適切でしょう。ヨハネ福音書で語られるイエスのエルサレム入場は、<今この時に>霊的に現臨する王権としてのメシア像です。イエスの頃のエルサレム神殿は、宗教的な権威を象徴するだけでなく、政治的な支配権力の象徴でもありました。ダビデ王が志して、ソロモン王が実現させた神殿は、宗教的な権威と王の支配が密接に結びついていたからです。ソロモンの神殿は王宮に隣接して建てられていました。ただし、その王権神殿も、イエスの時代にはローマ帝国の支配の下に置かれていましたから、神殿は、現実に機能する政治権力を表わすよりは、宗教的な権威と政治的な権力が合体した王権を「象徴する」ものだったと言えましょう。
■ヨハネ福音書の祭儀性
 ヨハネ福音書では、紀元70年のエルサレム神殿の崩壊は、もはや過去のことです。だから、神殿は、イエスの体という「新しく復活した」神殿によってすでに置き換えられています。イエスの体とイエスの御霊の臨在によって、神殿は、霊の神殿として「すでに復活している」のです(2章)。イエスの御霊こそが、現臨する神殿なのです。
 ただし、エルサレム神殿の崩壊が、直ちにイスラエルの祭儀そのものの崩壊や滅亡を意味しません。イスラエルの祭儀は、イエスによって「霊的な復活」を遂げたからです。イエスの御霊の働きは、本質的に「祭儀的な」意義を帯びているのです。御霊の世界では、過去と現在と未来の時間が一つになり、同時に、それが「空間としても」表われます。これが祭りの時間であり、祭儀化された時空概念です。ちょうどイエスの体と血をいただく聖餐のように、過去の十字架と現在の贖いと未来の救いとが、これをいただく者の「その時に」凝縮するのです。ヨハネ福音書が祭儀的に解釈されるのは、このためです(最近ではG・S・スローヤン著、鈴木脩平訳『ヨハネ福音書』日本基督教団出版局。/「『ヨハネ福音書』における祭りの構造とその8日目の次元」宮本久雄著『福音書の言語宇宙』岩波書店などがあります)。
  このように観ると、ヨハネ福音書では、イエスのエルサレム入城は、受難への入り口であるだけでなく、それは「すでに復活した」イエスの入城です。イエスが十字架の上で最後に「(すべては)成し遂げられた」(19章30節)と言う時、それは祭儀的な意味を帯びています。すなわち贖いの祭儀が、これによって成就したのです。だから、ヨハネ福音書が<語っているこの時>に、事態はすでに成就し終わっているのです。今はただ、贖いの御霊の働きが進行しつつあるだけです。これに続くのは、異邦人世界に広がる福音の進展だけです。ヨハネ福音書のエルサレム入城の本質的な意味がこれです。ヨハネ福音書の視点は、むしろパウロのそれに近いと言えましょう。キリストはすでに復活して、今現に異邦人の世界へと広がっているからです。第二コリント15章の蒔かれた種の復活の比喩がヨハネ12章にも現われるのは偶然でありません。
 エルサレム陥落以後、ユダヤ教は非常な危機状態に陥りました。しかしそのような危機の中にあっても、律法を重視したファリサイ派が、ほとんど唯一生き残って、ユダヤ教の再編成に努めていました。彼らの唯一のより所は、旧約以来の律法でしたから、ユダヤ教は、この律法によって、神殿の喪失を埋め合わせようとしたのです。神殿の崩壊で打撃を受けたのは、キリスト教ではなくユダヤ教のほうだったからです。このためにユダヤの会堂は、それまで比較的寛容であったキリスト教徒を含む異端者たちを烈しく攻撃し迫害するようになりました。ところが、キリスト教では、ヨハネ福音書に見るように、エルサレム神殿は、キリストのからだとして「祭儀的に」復興していたのです。だからこそ、かつての神殿で行なわれていた贖罪の祭儀、「罪の赦し」が、復活した御霊のキリストにあって可能だったのです。ヨハネ共同体とファリサイ派の間に厳しい対立が生じたのはこのためでしょう。ユダヤ教が、イエス・メシア主義に対して厳しい弾圧を行なったその背後には、律法と祭儀の問題が潜んでいたのです。
■12章
[9]【ユダヤ人の大群衆】冒頭に「大群衆」がでてくるのはヨハネ福音書だけです。しかし、ヨハネ福音書には、共観福音書にでているイエスの一行に付き添ってきた人々(マルコ10章46節)がでてきません。今回の12~16節がもとの伝承だとすれば、そこにでてくるのは、祭りに来ていてイエスを迎えた群衆だけです。9~11節と17~19節を併せると、この人たちには、さらに、ラザロの復活の場に居合わせてイエスを信じるようになった人たちが加わります(12章17節)。その上、ラザロの復活を聞いて、イエスだけでなくラザロをも見ようと集まってきた群衆がいます(12章9節)。また、大勢のユダヤ人が、エルサレムの指導者たちから「離れて行って」イエスを信じるようになったとありますから(12章11節)、これらの人たちが一緒になった大群衆がイエスを迎えたことになります。このために、ファリサイ派は、「世をあげて」イエスに従ったと嘆いています(12章19節)。注意してほしいのは、イエスを殺そうとしているのは、「祭司長たち」(12章10節)と「ファリサイ派」であって、彼らは、民衆の「ユダヤ人」から区別されていることです。ヨハネ福音書が書かれた時には、ユダヤの国は滅ぼされ、エルサレム神殿はすでに存在しませんでした。だから「祭司長たち」は、イエスの在世当時、神殿制度のもとにいた祭司長たちを指していますが、「ファリサイ派」のほうには、ヨハネ共同体の頃のユダヤ教の指導者たちも重ねられています。ヨハネ福音書には、「ユダヤ人」がイエスを殺そうとしたとありますが(例えば5章18節)、「イエスを殺そうとした」のは、この人たちのことで、一般のユダヤ人のことではありません。
【ラザロを見るため】もとの伝承(12節~15節)を挟むようにして、編集の付加部分が前後に置かれています。付加部分は、どちらもラザロが中心になっています。もとの伝承は、共観福音書とほぼ同じで、イエスが、王としてエルサレムへ入城する姿が描かれていました。ところが、ラザロを中心にしたこの付加によって、エルサレムへの入城が、単なる勝利の入城ではなく、それが「死と復活」を表わす12章全体の主題と一体となるように変貌しているのです。ラザロは、イエス自身の「死と復活」を表わすしるしであり、「死から抜け出す命の真理を証しする人」〔CH・ドッド〕だからです。ヨハネ福音書は、ラザロを通して、「死と復活」の主題という共観福音書にない編集を行なっています。
[10]【ラザロをも殺そうと】原文は11章53節と全く同じ言葉で、イエスとラザロを重ねています。「ラザロの復活が、イエスの復活を予兆すると示唆しているのです」〔フォートナ〕。死からよみがえったラザロと、死へ向かうことでラザロを生き返らせたイエスが、ここで交錯します。人々がイエスを迎えたのは、ラザロのよみがえりを見たからで、イエスは、人々から「死に打ち勝つ王」として迎えられているのです。ラザロは、イエスがすでに「死に勝った」王であることのしるしですから、祭司長たちは、二人とも殺そうと謀ったのです。過去と現在、死と復活、殺そうとする者と進んで殺される道を歩む者、死に勝つ者と負ける者、これらを重ね合わせるヨハネ福音書の多重な語り方に注意してください。このような編集によって、もとの出来事が、多重な象徴性を帯びてきます。
[11]【離れていって】原文は「多くの者たちがユダヤ人から離れ去った」と読むこともできますが、ここは「多くのユダヤ人たちが〔祭司長たちから〕離れ去って」イエスの側に付いたという意味です。おそらく、ヨハネ福音書が書かれている当時、ファリサイ派からヨハネ共同体へと「離れて行った」人たちがいたことをも反映しているのでしょう。
[12]【その翌日】前回の12章1節の注釈「過越祭の六日前に」を参照してください。
[13]【なつめやしの枝】棕櫚(しゅろ)は、アジアにもあり、日本にも「和棕櫚」(わじゅろ)があります。この木は、古代エジプトの時代から「勝利」の象徴で、競技の勝者には棕櫚の葉枝が与えられました。棕櫚は、また豊穣をも表わし、不死鳥(フェニックス)は、棕櫚の木の上で生まれ再生すると言われる鳥です。しかし、パレスチナでは、棕櫚と同科で、棕櫚よりも背が高く、椰子のように上部に葉が茂る棗椰子(なつめやし)が多く、このため、なつめやしの木のことを「棕櫚」と呼びました。したがって、ヘブライ語の「ターマール」は、棕櫚の木“palm tree”というより、棗椰子(なつめやし)の木“date palm”を意味します(詩編92篇13節など)。なつめやしは命の木とされ、ヘレニズム世界では、パレスチナ全土のことを「フェニキア」(棕櫚の地/棗椰子の地)と呼んでいました。このためヨハネ福音書のここのギリシア語も「なつめやしの木(フォイニクス)の棕櫚の枝(バイオン)の複数形」というややおかしな言い方になっています。
 イエスの当時、エルサレム近辺にほんものの「棕櫚」はなかったと思われます。人々は、祭りの際に用いるために採っておいた棗椰子の葉枝と柳と銀梅花(ぎんばいか。英語“myrtle”)などを一緒にして束ねたものを手にしてイエスを歓迎したのでしょう。この束はヘブライ語で「ルーラブ」と呼ばれるもので、仮庵の祭りなどの祝いの時に用いられました(レビ記23章40節)。ルーラブには、祈祷書を手に持って祈りながら、片手で手にできる小さなものもあります。
 ソロモンの神殿でも、「神殿の周囲の壁面はすべて、内側の部屋も外側の部屋も、ケルビムとなつめやしと花模様の浮き彫りが施されていた」(列王記上6章29節)とあるように、棗椰子は大事な表象として用いられました。イスラエルの人々は、祭りで神殿に巡礼する時(特に仮庵の祭り)には、なつめやしの葉枝やこれに類する枝などの「棕櫚の枝」を手にして「ホーシァーナー」(どうかお救いください)と唱えながら神殿に詣でました(レビ記23章40節/詩編118篇25節)。また銀梅花は、その香りと薄緑の美しい葉と白色の花(ピンク色のもある?)のために、愛や生命を象徴していて、オリエントからギリシア・ローマでも(後にはヨーロッパでも)祝いの際に用いられました。銀梅花の花はユダヤでは初婚の花嫁の頭を飾り、仮庵祭の小枝で編んだ小屋を飾ったりしました。このルーラブは、仮庵祭だけでなく、民の祝い事や祈願のためにも用いられました(第二マカバイ記1章9節)。だから、祭りの時だけでなく、英雄の勝利の凱旋の時にもこのような祝い方が行なわれました(第一マカバイ記13章51節)。
 共観福音書では、イエスの入城に際して、服や小枝をイエスの通る道に敷いたとあります。これは明らかに、王の即位を祝う絨毯を象徴する行為ですから、イエスは、政治的な意味をもこめたメシアであり、「王」として迎えられたのです。ルカ福音書も、イエスの十字架を予兆してはいますが、イエスのことを様々な力ある業を行なって勝利した「王」として描き、ここを「勝利の入城」としています(ルカ19章37~38節)。ところがヨハネ福音書では、「イスラエルの王」を迎えるのに、人々は、祭りの際に神殿に巡礼するための棗椰子の束を手に持って出迎えるのです。だからこの人々は、この「イスラエルの王」を終末に顕現するメシアとして、いわば「新しい神殿」として出迎えたことになります(ヨハネ黙示録7章9節を参照)。ヨハネ福音書が書かれた頃には、ユダヤの国はすでになく、エルサレム神殿は壊されていました。だからヨハネ福音書はここで、イエスをエルサレムの神殿に代わる「生きた神殿」として描こうとしていて、なつめやしの束は、このための祭儀を象徴しているのです。
【ホサナ】「ホサナ/祝福あれ、主のみ名によって来たる者」とあるのは、詩編118篇25~26節のハレル賛歌からです。ヘブライ語では「どうか主よ、ホーシァーナー(我らに救いを)。/どうか主よ、ハツリーアーナー(我らに繁栄を)。/祝福あれ。主のみ名によって来る方。/祝福しよう。あなたがたを。主の家から」となります。七十人訳ギリシア語もヘブライ語原典と同じ内容ですが、「ホサナ」は、現在の「ハレルヤ」と同じように?、人々は、もとの意味を理解することなく、ただ神を賛美する言葉として唱えたり叫んだりしたと思われます。この言葉は、以後のキリスト教徒たちの間でも、賛美の言葉として用いられていて、1世紀末に成立した「十二使徒の教訓」(10章6節)にも「ダビデの神にホサナ」と引用されています。ちなみに「ホーシァーナー」は、イエスのアラム語の名前「イェシューア」と同じ語源で「救い」を意味します。
【主のみ名によって来る方】引用の歌の原文は「祝福あれ、主のみ名によって来たる者」(単数)で、これは四福音書共に、七十人訳ギリシア語と全く同じです。この歌はユダヤの祭りで巡礼の人たちに歌われました。「主のみ名によって来る者」は、単数ですが、ほんらいは、仮庵の祭りなどの巡礼で神殿を訪れる人たちのことを指しています。だから、もとの意味は、「〔神殿に〕来る者に、主のみ名によって祝福あれ」の意味です。このことから、イエスの入城は、秋の仮庵の祭りの時に行なわれたのではないかという説さえあるほどです〔これは誤りです〕。しかし、これが「主のみ名によって来るべき者に祝福あれ」の意味になり、王の即位を祝う言葉ともなりました。マタイ福音書は、ほかの共観福音書の記者たちと同じように、この言い方をイスラエルに来たるべきメシアとして、イエスを指す意味で用いています(マタイ23章39節)。ヨハネ福音書では、「祝福あれ、主のみ名によって来たる者、<すなわち>イスラエルの王に」とあって、「来たる者」が「イスラエルの王」であることを明確にしています。
【イスラエルの王】ヨハネ福音書では、イエスが「王」であることに関連した箇所が幾つかあります。ナタナエルは、イエスを「イスラエルの王」(1章49節)と呼び、パンを食べた人々は、イエスをむりやり王にしようとします(6章15節)。この入城の場面では、大勢の民衆が、まるで神殿に詣(もう)でるように、イエスを迎えて「イスラエルの王」と歓呼します。さらに、ピラトとイエスとの間で「ユダヤ人の王」についての問答があり(18章33節以下)、これに続く裁判でも、ピラトはイエスを「ユダヤ人の王」と呼びます。最後にイエスは、「ユダヤ人の王」という罪状書きと共に十字架されます。ただし、ピラトが、外国人の視点から、「ユダヤ人の王」と言うのに対して、ナタナエルのほうは、イエスを「イスラエルの王」と呼んでいます。共観福音書では、十字架上のイエスを嘲って、祭司長たちがイエスを「イスラエルの王」と呼んでいます(マタイ27章42節/マルコ15章32節)。ちなみにイエスの生まれ育ったガリラヤは、ほんらい北<イスラエル>王国の地域でした。ガリラヤには、南のユダヤに対して、北イスラエル王国の時代からの宗教的伝統が存続していたと言われています。「イスラエルの王」は、引用された詩編118篇(25~26節)にはありませんから、イエスをたたえる用法としては、ここヨハネ福音書だけの言い方です。次の15節の引用で述べるように、これはゼファニヤ書3章15節を反映しているのかもしれません。
 共観福音書では、この受難週にいたるまでに、イエスの誕生に際して、東方の博士たちが「ユダヤ人の王」を探しに訪れたとある以外に(マタイ2章2節)、イエスが「王」と呼ばれるところはありません。ところがヨハネ福音書では、今回までに、二度「王」がでてきます。共観福音書には、ピラトの裁判の場面でも「王」についての問答はありません。ヨハネ福音書は、王としてのイエスをそれだけ強く意識しているようです。ただし、イエスが「王」であるというのは、人々やピラトの言う意味とは全く異なること、イエスが「王」の称号を拒否していることもヨハネ福音書ははっきり語っています。イエスは、ナタナエルに向かって、神と人とが交わる道を開くことこそが「イスラエルの王」の意味だと教えるのです。共観福音書に比べるとこれだけ王権を重視するヨハネ福音書が、それにもかかわらず、現世の王権への野心をイエスがはっきりと拒否していること、この不思議な逆説こそ、ヨハネ福音書の王権を理解する鍵だと言えましょう。
[14]共観福音書では、始めにイエスが弟子たちを遣わして、ろばの子に乗って入城しますが、ヨハネ福音書では、人々が集まって「ホサナ」を叫んで迎えてから、あたかもその声に応えるかのように、イエスは、たまたま(?)ろばの子を「見つけて」、これに乗るのです。ここの「ろばの子」の原語は「子ろば」(オナリオン)で、これは「ろば」(オノス)の愛称です。次の節のゼカリヤ書からの引用に「ろばである動物の子」とあるのに合わせたのです。
[15]この節の引用は、ゼカリヤ書9章9節からで、ゼカリヤ書からの引用はマタイ福音書とヨハネ福音書だけです。両方の言葉遣いが少し違いますから、おそらく、両者に共通する伝承が伝えられていたと思われます。ゼカリヤ書の七十人訳は、「シオンの娘よ、喜び踊れ。エルサレムの娘よ、このことを伝えよ。見よ、お前のところへ王が来る。正しくて救い主である方、彼は柔和でろばに乗って来る。若い子ろばに乗って」です。ヨハネ福音書でもマタイ福音書でも「喜び踊れ」と「正しくて」は省かれています。マタイ福音書には「柔和で」がありますが、ヨハネ福音書にはありません。ヨハネ福音書では「恐れるな」となっていますが、これはおそらくゼファニヤ書3章16節「シオンよ、恐れるな」から来ているのでしょう。ゼファニヤ書3章14~20節は、エルサレムの罪が贖われて、敵の支配から護られ、「イスラエルの王」であるヤハウェの御臨在がエルサレムに満ちる日が来ることを預言しています。ヨハネ福音書は、ここでゼカリヤ書にゼファニヤ書の預言を重ねているのでしょう。
 王が馬に乗って来る時は、その市を攻撃する時であり、これに勝利した時には、馬に乗って城門から入ります。しかし、王がろばに乗って来る時には、平和な目的で来ることであり、市に迎え入れられます。ゼカリヤ書で預言された王は、ろばに乗った柔和な王です。馬に乗った戦(いくさ)の王ではありません。イエスは、民衆の歓呼を見て、ゼカリヤ書の預言が成就したことをその人々に現わそうとしたのでしょう。いずれにせよ、平和な目的で来たことを証ししています。しかし、民衆のほうには、イエスを現世の王となるメシアとして担ぎ出そうとする傾向が見られます。ヨハネ6章14~15節では、イエスは彼らの要求を拒否しました。彼らはイエスの真意を見誤っているからです。パレスチナでは、ユダヤ戦争の前だけでなく神殿崩壊以後にも、過激なゼロータイ(熱心党)の運動や反ローマ的な反乱が起こりました。とりわけ、バル・コクバをメシアとする反乱が有名です。しかし、ヨハネ共同体もキリスト教の諸教会も、このような反乱には加わりませんでした。それは、キリスト教徒が、すでにイエスがメシアであると信じていたからです。彼らは、イエスのみ名による以外の者たちの声には従わなかったのです。
【ろばの子】マタイ福音書のほうは、ゼカリヤ書の引用文が「ろばと荷を負う子である動物の子」というややこしい言い方になっています。七十人訳の原文を直訳すれば「荷を負う動物、すなわち若い動物の子」です。「荷を負う動物」という言い方は通常ろばを指しています。「動物の子」も子ろば(あるいは子馬)を意味しますから、七十人訳は、ヘブライ語の並行法に従って、同じことを言い換えて繰り返しています。ところが、マタイ福音書には「ろば」と「荷を負う子である動物の子」とあって、ろばと子ろばの2頭がいたことになっています。これはおそらく並行法を理解せずに、2頭のろばだと誤解したために生じた誤りであろうと言われています。しかし、子ろばを使用する場合は、通常親ろばから離さずに、親も一緒に連れていく習わしがあったことから、パレスチナの事情に通じていたマタイは、意図的に2頭のろばとした、あるいは実際に親子のろばがいた可能性があるという指摘もなされています。ヨハネ福音書の引用文では、「ろばである動物の子」となっています。ちなみに「動物の子」は子馬を指すこともありました。
[16]【弟子たちは思い出した】イエスが、預言者の言葉通りにろばに乗ることで、どのような意味で「王」であるのかを証ししたのに、このことを弟子たちは悟ることができなかった。イエスが「栄光を受けて」、十字架と復活の後になって初めて、これを悟ることができた。ヨハネ福音書はこう言っているようにも聞こえます。どうして彼らは悟ることができなかったのでしょう? それは、イエスの御霊がまだ降っていなかったからでしょう(7章39節)。彼らは御霊によって初めて、このことを「想起させられた」のです(16章12~14節)。しかし、民衆は、ゼカリヤ書あるいはゼファニヤ書の預言の言葉でイエスを迎えているのですから、弟子たちがその事に気づかなかったというのは、おかしなことです。ですからここは、弟子たちが民衆の賛美を聞いても、イエスがろばに乗った意味が分からなかったという意味ではありません(弟子たちも一緒に賛美しています)。そうではなく、十字架と復活によってイエスの御霊が弟子たちに降った時に初めて、イエスがどのような意味でイスラエルの王であるのか、「このこと」がほんとうに意味していることを「想起させられた」と言っているのです。ヨハネ福音書が言う「想起する」はこの意味です(2章22節)。だから、これは、福音書の作者が、この福音書を書いている時点において、すでに悟っていることをエルサレム入城の出来事に反映させています。
[17]16節で弟子たちが想起したことと照らし合わせると、ここで繰り返されている「墓の中から呼び出され」、「死者の中から復活した」ラザロは、エルサレム入城のイエスの姿と重ねられています。エルサレム入城のイエスは、すでに復活して死に勝ったイエスです。
[19]【世をあげて】ここでも、かつてのイエスの状況と現在のヨハネ共同体の状況とが重ね合わされています。ここには、復活したイエスの福音によって、大勢のユダヤ人が、ファリサイ派たちのユダヤ教を離れてイエスを信じるようになったこと、またイエスの福音が、異邦人世界へ広がった結果、「世をあげて」イエスを信じるようになったことが背景にあります。「ファリサイ派」には、イエス在世当時のファリサイ派と、ヨハネ共同体当時のファリサイ派とが二重写しになっています。ここでのファリサイ派の嘆きもヨハネ福音書の皮肉でしょう。イエスへの信仰が、ユダヤ人だけでなく異邦人に、そして全世界に広がるという出来事が、彼らがイエスを処刑した結果として起こったからです。
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