53章 一粒の麦
12章20〜36節
■12章
20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
29そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
30イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
31今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
32わたしは地上から上げられるときすべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
33イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
34すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」
35イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。
36光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。
エルサレムへの入城のすぐ後で、「何人かのギリシア人たち」が、イエス様に面会するために訪れます。彼らは異邦人ですから、はたして面会を許されるかどうか確信が持てなかったのでしょう。面会の仲介をフィリポに依頼したのです。フィリポの出身地であるベトサイダも、ヘレニズム化していたので、異邦人との付き合いが多く、フィリポもギリシア語を話せたからです。「先生、ぜひ」とフィリポに頼み込んでいるところを見れば、彼らもイエス様を信じたいと願っていたと思われます。
ところが、イエス様は、二人の仲介に直接お答えにならず、その代わりに、一粒(ひとつぶ)の麦のたとえをお語りになります。あまりにも有名なこのたとえは、とても分かりやすく、その上、深い意味がこめられています。この「一粒」は、あなたでも、わたしでも、だれでもがなることのできる「ひとつぶ」ですが、イエス様という「初めの」一粒には、特別の意味がこめられています。それは、死ぬことによって再生して多くの実を結ぶ自然界の命の法則が、イエス様の死と復活に重ねられているからです。ここでの一粒の復活は、自然の中で生じる再生のことではありませんが、このたとえは、ギリシア人たちがイエス様に会いに来た時に語られていますから、おそらく、ギリシア人にもよく分かるたとえだったのでしょう。
この異邦人たちは、ユダヤ教に最高の神の姿を見いだして、そのような神を体現しておられるイエス様に出会いたい。そしてイエス様を信じたい。こういう思いで面会に来たのだと思います。けれども、イエス様は、直接彼らにお答えになりませんでした。なぜなら、イエス様の神の国の到来は、先ず(旧約)聖書で救いを約束されていたイスラエルの民に告げ知らされるべきものだったからです。このために、イエス様は、2年3ヶ月ほどのごく短い伝道活動のほとんどをパレスチナのユダヤ人たちの間で行なわれて、それ以外の「異邦人の地」では、ガリラヤ周辺の限られた地域にしか伝道なさいませんでした。
本格的な異邦人への伝道は、イエス様が十字架におかかりになり、復活して彼を信じる人たちに聖霊が降ることによって初めて可能になりました。イエス様の聖霊降臨以前には、ユダヤ人は、律法によって異邦人との食事やその他の交わりを原則として禁じられていました。ところが、イエス様の聖霊が降ることによって、聖書の神が、単にイスラエル民族のための神だけでなく、全世界の「諸民族(=異邦人)」の神でもあることが、はっきりと啓示されたのです(聖霊降臨と異邦人伝道との関係は使徒言行録10章に詳しく出ています)。生前のイエス様を通じて働いておられた「主の御霊」が、全世界の人たちを招き寄せることが、これによって実現しました(注釈32節「すべての人を引き寄せよう」を参照)。しかし、このことがユダヤ人と異邦人との両方に理解されるためには、パウロのガラテヤ人への手紙にあるように、多くの誤解や偏見や変革を伴いました。
こうして、イエス様の十字架・復活・聖霊降臨以後になって初めて、聖書の神が、「異邦人の神」でもあることが、人々にはっきり知らされることになったのです。それまでは、異邦人が聖書の神を信じたいと思う場合は、律法に従って割礼を受けて「ユダヤ人の神」を信じてユダヤ教徒になるか、あるいは、限られた範囲で、ユダヤ教の神を礼拝することしか許されなかったのです。だから、イエス様の十字架の御業(みわざ)が成就するまでは、聖書の神は、異邦人にとって、まだ本当の意味で「彼らの神」ではなかったのです。異邦の人たちが、本当の意味で「自分たちの」神として、自分たちのあるがままの姿で、呼び求めることができる神ではなかったのです。イエス様が死んで復活し、多くの実を結ぶことによって初めて、異邦人にとって全く新しい「わたしたちの」神に出会うことができるようになったのです。パウロが、アテネの人たちに、彼らがすでに聞き知っている「ユダヤ教の神」ではなく、彼らの「いまだ知らない」神を伝えようとしたのもこの理由からです(使徒言行録17章23節)。だから、今回の異邦人たちがイエス様に面会を求めてきた時に、イエス様は、このような意味を込めて、一粒の麦のたとえをお語りになっています。
イエス様が死んで復活されることで、今までなかった新たな福音の世界が啓示されました。「新たな」とは、復活が、ただの再生ではないからです。「新たな」とは、創造の神によって、福音が全世界の民に命を育むという「新たな段階」に入ることであり、より広い視野が開かれることです。だから「多くの実」とは、より多様な実をより多様な土地で実らせることを指します。イエス様が、ここで一粒の麦のたとえを語られたのは、このためですから、ギリシア人たちの要請にすぐには応えませんでしたが、彼らの祈りにお応えになったのです。
■産みの苦しみの始まり
ところが、このたとえの直後に、イエス様は、異常な苦しみの祈りを体験なさいます。ここでの苦しみは、共観福音書のゲツセマネの祈りの苦しみにあたるとも言われています。共観福音書で、イエス様は、伝道開始に先立って、悪魔の試みに遭われました。悪魔はそれ以後、「その時が来るまで」イエス様から離れます(ルカ4章13節)。しかし、イエス様が十字架におかかりになる直前に、「その時が来ると」サタンが再びイエス様のところへ戻って来ます(ルカ22章3節)。物事が成就するには、その初めとその終わりの二つの「時」が、最も大事です。神の御心が成就する場合も同じです。ここで語られるイエス様の苦しみの祈りは、ゲツセマネでの祈りに通じています。ゲツセマネの祈りは、イエス様が、悪魔からの最後の試みに勝利されたことを表わします。御自分の命よりも父の御心に従う道をお選びになったその時に、父が御子を「この世」の救いのためにお与えになる出来事が決まりました(3章16節)。一粒の麦が地に蒔かれて死ぬことが決まったのです。ここで自然界に働く法則とイエス様に働く神の法則とが重ね合わされます。一粒の麦のたとえは、宇宙を創造し、大自然に働いておられる神が、イエス・キリストの内に御霊となって働いておられることを証しするからです。このことは、イエス様を信じるわたしたちの内にも、同じ法則が、御霊のお働きとして働いてくださることを教えてくれます。聖書が神の御言葉なら、自然は「第二の聖書」です。
■裁きと救い
今やこの世に裁きが来る
今やこの世の支配者が追い出される。
わたしが地から上げられる時に
万人をわたしのもとへ引き寄せよう。
(12章31〜32節)
イエス様は、十字架と復活と昇天と、これに伴う聖霊の降臨によって、全世界の人たちを「引き寄せる」と言われます。しかし、「引き寄せる」のはイエス様の父が行なうことです(6章44節)。だから「引き寄せる」のは、父の御心を行なうイエス様ご自身を通じて父がなさるのです。主語は父子一体です。人は、自らの力でイエス様のところへ「来る」ことができません。父が「引き寄せて」くださらなければ、イエス様のもとへはだれも来ることができないのです。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしが、あなたがたを選んだ」からです(15章16節)。父は、お選びになった人たちに、イエス様のみ名によって聖霊を遣わし、その人を「イエス様のもの」としてくださるのです(17章6節)。人は、どのように選ばれるのでしょうか? 光を愛し真理を行なう者は、イエス様のもとに「引き寄せられ」、闇を愛し悪を行なう者は、イエス様から離れ去ります(3章19〜21節)。「引き寄せられる」ことと「離れる」こと、ヨハネ福音書では、人々の間に生じるこの分かれ目が、イエス様の御言葉が発せられる、しるしが行なわれる度に繰り返されています。
12章31節では、この世を支配する悪魔が敗北し、人々が裁かれます。その結果、人々は、光に属する者と闇に属する者とに分けられます。ところが、32節でイエス様は、世界の「すべての人」を御自分のもとへ「引き寄せる」と言われます。「分ける」と「集める」は、いったいどのように関係するのでしょうか? 救いが人の力によらないのであれば、人は、救いか裁きかのどちらかに予め定められているのでしょうか? 人それぞれには、イエス様を信じる可能性と、イエス様を拒む可能性とを秘めています。言い換えると、父によって御子のもとへ引き寄せられることも、その御力に逆らうこともありえます。では、その違いはどこから生じるのでしょうか? 人が信仰を持つことは、その人の自由な意志に基づく「決意」から生じるものです。だとすれば、「信じる」決意をする、そのこと自体の内に、すでに選びが行なわれていることになります。言い換えると、その人が自分で行なう「判断/裁き」の<その中で>、その人自身が裁かれる(=判断される)ことになります。人は、自らが裁く(判断する)ことによって裁かれるのです。このことを悟るのが、「引き寄せられる」第一歩です。このことを深く知ること、これが御霊の働きです(6章63節)。
信仰とは、イエス様が成し遂げられた十字架の贖いから生起する「創造の御業」です。イエス様は「上げられる」ことですべての人を「引き寄せる」のです。ヨハネ福音書に、父が御子を遣わしたのは「この世を」救うためだとあります。イエス様が「この世の」罪を取り除く神の小羊であるとも証言しています(1章29節)。ヨハネ福音書を生み出した共同体は、父と御子と聖霊を信じる共同体です。この共同体は、御霊にある深い交わりによって結ばれています。しかし、交わりが深ければ、それだけ交わりの「内」と「外」との分離も深まります。人々は、先ず「イエス様が証しする父を」信じるか否かによって分けられます(4章23節)。次に、その父を「イエス様を通じて」信じるか否かによっても分けられます(14章6節)。さらにそこから、イエス様の御霊の真理に「留まり」、イエス様をどこまでも「信じ続ける」か否かによっても分けられます(8章31節)。御霊にある創造は「分離」によって始まるのです。
分離は一般に差別を生む。あるいは対立を引き起こす。宗教的に言えば、宗派的な対立を生じます。ところが、ヨハネ福音書は、ある意味で、人々を「分離する」書です。なぜでしょうか? ヨハネ福音書の言う「分離」には、一般の差別的な分離とは異なる意味がこめられているからです。それどころか、ヨハネ福音書の「分離」には、差別や区別を克服する働きがあると言えば、皆さんは驚くかもしれません。しかし、イエス様を信じるか信じないかを基準にして分離が行なわれることは、逆に言えば、「それ以外の」一切の基準が持ち込まれ<ない>ことを意味します。この場合、イエス様を信じるという基準を徹底させればさせるほど、そのほかのどのような差別も区別も「許されない」、すなわち「入り込まない」ことになります。一つの基準に徹底することで、それ以外の基準から自由になるからです。イエス様を通じて父の神を信じる。これ以外は、いっさい問われないのです。
父と子と聖霊の三位一体(さんみいったい)の基準による分離は、確かにそれなりの「裁き」の厳しさを伴います。ところが、この基準に従う分離こそが、性別、身分、人種、宗教的伝統など、これまで人々を「分け隔て」したり差別してきた様々な基準を克服するのです。その結果、父とイエス様の前に立つ人は、だれであろうと「父と子と聖霊」の基準以外のいかなる条件によっても分け隔てされることがありません。このようにして、人は、イエス様を通して父を信じること以外のいっさいの人間的な違いから解放されます。一つの束縛に徹することで、他のさまざまな束縛から自由にされるのです。ここに「自由」と「束縛」との不思議な関係があります。こうして、ユダヤ人もサマリア人も異邦人もなく、旧約聖書の律法の民も律法を持たない民もなく、人々は「自由に」ヨハネ共同体に参入することができたのです。そこでは社会的な身分も性別も問われることがありません。このために、他のキリスト教の諸教会に比べて、ヨハネ共同体ほど女性が自由に活動できた共同体はなかったと言えましょう。このように、ヨハネ共同体では、裁かれることによって分けられ、分けられることによって、「ほかの基準」による「裁き」や支配や差別から解放されて、ただイエス様のみ名による「交わり」(コイノニア)の一致が可能になったのです。父と子と聖霊による「裁き」は、このように観るならば、神様以外のいっさいの人間的でこの世的な区別を克服する「聖なる裁き」だと言えましょう。
■分離から一致へ
しかし、ここで、さらに大事な点があります。それは、ヨハネ共同体が、このようにきわめて高度な「霊と真の礼拝」(4章24節)に到達した段階において、ほかの宗教や宗団によく見られるように、自分たちだけをほかの宗教や宗団から、あるいは一般の人たちから、切り離して、隠遁的な「引きこもり」に陥ることを「しなかった」点です。ヨハネ共同体は、イエス様のみ名によって、イエス様の父へと向かい、イエス様の聖霊による「交わり」を、先に分離「された」はずの人たちに向かって、さらに証(あか)しし続けることを止めなかったのです。この共同体は、自らを「この世」から隔離して、秘義的な隠遁にはまりこむ宗団ではありませんでした。神によって分離されることで霊的な高さに到達し、到達した段階で分離の「外の」人たちに、<さらに新しい>啓示の光を及ぼすために語り続けたのです。このようにして、分離は分裂ではなく一致を呼び、一致はさらに新しい光を発し続けることで、「外の人たちに」語りかけたのです。このようにして、三位一体の神から降る聖霊は、常に新たに、今まで来なかった人々、あるいは来ることができなかった人々に向かって、福音の門を開き続け、御霊の光を発し続けていくことができたのです。ヨハネ共同体が、一見グノーシス的な様相を帯びていながら、グノーシス的な秘義宗団と決定的に異なるのはこのためです。これはかつて、クムラン宗団から抜け出した洗礼者ヨハネが選んだ道であり、洗礼者の働きを継いで、これを徹底させたイエス様が行なったことです。
一見して閉鎖的とも思える共同体によるこの「点灯する」御業は、このようにして、高度に霊的な礼拝をこの世に向かって啓示し続け、そうすることによって、この世の人たちを絶えず「引き寄せる」のです。光が啓示されるところでは、周辺を闇が囲むのを避けることができません。この共同体は、このようにして、繰り返し、繰り返し、この世の人々に向って新たな啓示の光を創造し、発し、人々を「引き寄せ」続けるのです。そして、引き寄せることによって新たな裁きを招き、裁かれた人たちに向かって、さらに新たな啓示の光を発し続けるのです。
このようにして、裁きは常に新たな救いをもたらし、このようにして、光は、一歩一歩と闇に打ち勝つのです。主によって裁かれる者は、主によって赦されるからです。御霊が証しするペルソナのキリストは、常に「上げられる」ことによって「引き寄せる」からです。これこそが、イエス様の父の御心であり、父はこのようにして、何時の時代でも、イエス様を通して、新たな啓示をこの世に発し続けるのです。この福音書の閉鎖的とも思える信仰が、万人救済の思想へとつながるのはこのためです。
イエス様の御霊は、いかなる時代でも、裁きを救いに変えるために働きます。父なる神は、イエス様の御霊を通じて、常に新たな啓示をこの世に与え、創造的に働きかけます。ヨハネ福音書のこのような創造論は、共観福音書にはいまだ明確に表わされていないものです。世の初めから神とともにおられる宇宙的な先在のロゴス・キリスト、このようなロゴスは、箴言8章22〜31節に表われる「世の初め」より存在した「知恵」にその源を発すると言えましょう。
■父なる神
イエス様は「わたしに仕える者を父は大切にしてくださる」(12章26節)と言われています。「イエス様に仕える」者は、まずイエス様のところへ来なければなりません。イエス様のところへ来る者は、イエス様に従う者になります。イエス様に従うその人を「父は大切にしてくださる」のです。父はそのようなわたしたちを「愛してくださる」のです(14章23節)。なぜなら、父とは「イエス様の父」だからです。わたしたちが信じているのは、「イエス・キリストの」父なる神です。ところが、イエス・キリストの父なる神をまだだれも見たことがありません(1章18節)。だれも、そのような神を知らないからです。だから人は、「イエス様を通じて」父なる神を求めて歩むことによって、真理と命の神にいたる道を見いだすことになります。なぜなら、イエス・キリストを通して初めて、「イエス様の父なる神」にいたる道を見いだすことができるからです。それ以外に、父のみもとへ行く道はないのです(14章6節)。そのような道を歩ませてくださるお方こそ、わたしたちの内に日々働いてくださる主の御霊です。
もしも、イエス・キリストの父なる神をわたしたちが「すでに知っている」唯一の神のことだと誤解し錯覚して、そのような神から遣わされたのがイエス・キリストであると考えるならば、これは「父へいたる道」を逆さにすることにもなりかねません。なぜなら、そのような神は、人間の知力で考え出された神にすぎないことがありえるからです。このような「神」は、得体の知れない「カミ」となり、自分以外の価値観をいっさい認めない恐ろしい「唯一神」に変容するおそれがあります。人間の理性が創出するこのような神は、人を束縛し人間の霊的な自由を奪う神へ変身する危険性があるのです。
わたしたち人間は、赦すことを知りません。愛することも知りません。赦すこと、愛することを知っているのは、イエス様とその父なる神から降る恩寵の御霊のみです。わたしたちに求められているのは、寛(ひろ)い心で、過去の罪を赦(ゆる)すこと、今なお犯されている罪を恕(ゆる)すこと、そうすることで、罪の力を決して許(ゆる)さないことです。しかし、そのようなことは、わたしたちにはできません。父がイエス様を通して遣わしてくださる聖霊の働きだけが、赦しと愛を可能にしてくださるのです。
キュリエ エレイソン。
クリストス エレイソン。
主よ、憐れみたまえ。
キリストよ、憐れみたまえ。
聖書は、わたしたちにイエス様とイエス様の父なる神を伝えてくれます。しかし聖書は、一般に考えられているように、いわゆる「唯一の」神を直ちに顕す書ではありません。「唯一」とは、ほかに神は存在しない「ただひとりの」神という意味です。現在の段階では、全世界の人たちが一致して礼拝する「ただ独りの神」は、まだ人類に「現実には」啓示されていません。ここで言うのは「唯一神教」のことであって、それぞれの人たちが、自分なりの「一人の神」を信じるといういわゆる「一神教」のことではありませんから注意してください。誤解を恐れずに言うならば、もしも現在の世界に、ほんとうの意味での「唯一の」神が現実に顕現しているのならば、世界はこのような神のもとでひとつにされているはずです。ところが、現在では、自分たちの神だけが唯一だと「主張する」人たちやこのように信じる民が現実に存在するだけです。このような状態にあっては、「唯一神」を互いが主張し合うことこそ、国と国、民と民、宗教と宗教との間に争いをもたらし、紛争をもたらすというのが、残念ながら現実です。したがって、預言者イザヤが抱いたヴィジョン、ほんとうの唯一の神が、全世界に平和を実現するという事態は、まだ生まれていません。世界のどこにも「そのような神」は見あたりません。あるのは、軍事的、政治的、経済的、宗教的な競い合いばかりです。
このように見ると、現在の世界で、聖書は「唯一の」神を人々に提示していると必ずしも言えません。そうではなく、聖書は、ただひとりの神を「祈り求めて」いるのです。その祈りの中で、唯一の神を啓示し、啓示することによって「創り出して」いく。このように言うほうがより正しいでしょう。聖書は、本当の意味での唯一の神を「主張する」のでもなく、「教え込む」のでもなく、まして「強制する」のではなく、御霊の愛によって「創り出し」「生み出していく」神の御言葉の書です。聖書を通じて働くのはイエス様を通じて働くこの創造の御霊です。「わたしの父は、今にいたるまで働いておられる。だからわたしも、今にいたるまで働く」(5章17節)のです。
啓示はまだ終わっていません。神様からの啓示の歴史を「聖歴史」(the Holy History)と呼びますが、聖歴史こそ人類の歴史の根低に流れる歴史の本質です。これなしに歴史はそもそも歴史ではなく、ただ争いとつかの間の快楽の時期が交互に連続する年代記にすぎなくなります。人類の歴史の終わるときが「終末の時」です。と言うより、終末こそが、人類の歴史が目指している目標であると言うほうが正しいでしょう。それが何時どのような姿で啓示されるのかは、誰にも分かりません。ただ、「その日」その時には、イエス様の神だけが御臨在されて、祭壇はもはや存在しなくなる。すなわち「宗教それ自体」が存在しなくなる。こうヨハネ黙示録は預言しています(ヨハネ黙示録21章22節)。聖書の神は、わたしたち一人一人の内に宿り、そこから生まれる交わりによって、全人類が祈り求める神を<わたしたちを通じて>創り出していかれる神です。だから聖書は、唯一の神へと導く祈りの書であり、これを創り出す御霊の書であり、このような父なる神を指し示す光の書です。
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