【注釈】
 エルサレム入城の締めくくりとして、ファリサイ派が「世をあげてイエスに従った」とあるその言葉を受けて、ギリシア人がイエスに会いに来ます。彼らはキリストのもとに来る全世界の人たちの先駆けです。しかし、この出会いは、すぐその後で、イエスの受難と結びつけられます。ユダヤ人と異邦人がキリストにあってひとつになることが成就するのは、イエスの十字架と復活以後のことだからです。その時に初めて、キリストによる救いの普遍性が実現するのです。だから、ギリシア人とイエスの出会いが、一粒の麦のたとえにつながり、そこからイエスが、全世界の人たちを「みもとに引き寄せる」ことになります。
■12章
[20]【何人かのギリシア人】この「ギリシア人」は、必ずしも人種的なギリシア人を指すのではなく、ユダヤ人から見た異邦人一般のことです。過越の祭りに来ていたのですから、おそらくユダヤ教の親派の人たちか、あるいは「改宗者」と呼ばれる異邦人のユダヤ教徒だったのかもしれません。ヨハネ福音書は、イエスの福音が世界全体に広まる「しるし」として、彼らをここに登場させています。
[21]【イエスにお目にかかりたい】イエスの伝道活動は、主としてイスラエルの民に向けられていましたから(マタイ10章5~6節参照)、異邦人である彼らは、面会が許されるかどうか確信がなかったので、フィリポに紹介を依頼したのでしょう。フィリポもアンデレもギリシア名の弟子で、彼らの出身地であるベトサイダは、ヘレニズム化した町でしたから、異邦人との交際も多く、ふたりともギリシア語を話すことが出来たのです。「お願いです」とある原語は「主よ」となっていますが、これはフィリポがイエスの弟子であることを尊敬して「先生」と呼びかけているのです。ここで「お会いしたい」とある動詞は、ヨハネ福音書では、イエスを「信じる」と同じ意味を帯びています。なお「ガリラヤのベトサイダ」とありますが、厳密に言えば、イエスの頃、(ガリラヤ湖北東にある)ベトサイダは、ヘロデ・アンティパスの領土ではありませんから、ガリラヤ領に属していませんでした。しかし、ヨハネ福音書は、そのような区分を無視して、全体を「ガリラヤ」と総称しています。
[22]フィリポがアンデレに相談したのは、イエスが異邦人に会うかどうか確信が持てなかったからでしょうか? これに対するイエスの答えは、彼ら二人に向けられているのか、ギリシア人への答えなのかはっきりしません。おそらく、人を特定せず、広く人々に語っているのです。
[23]
人の子が栄光を受ける時が来た。
アーメン、アーメン、わたしは言っておく。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、
一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
自分の命を愛する者は、それを失う。
この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
わたしに仕えようとする者がいれば、わたしに従いなさい。
そうすれば、わたしのいるところに、
   わたしに仕える者もいることになる。
わたしに仕える者がいれば、
  父はその人を大切にしてくださる。
【人の子が栄光を受ける時】「人の子」は、救い主としてのイエス自身を指すとともに(3章15節/6章27節)、終末の審判者(5章27~28節)をも意味します。特にこの福音書では、「人の子があげられる」(3章14節/8章28節/12章34節)、あるいは「人の子が栄光を受ける」(12章23節/13章31~32節)という言い方をします。「上げられる」あるいは「栄光を受ける」は、受難を通じて復活し父のもとへ昇天することです。「栄光を受ける時」とは、十字架の受難から復活して昇天するまでの一連の時を指します。ここ23節では、全人類の贖いのために死を受け入れる「人の子」という広い意味で用いられています。なお「時が来た」は、これまで繰り返されてきた「イエスの時はまだ来ていない」(2章4節/7章30節/8章20節)に対応するものです。いよいよ「その時」が来たのです。
[24]【一粒の麦】「麦」とあるのは、小麦のことですが、原語では穀物一般をも意味します(マタイ13章25節と同じ)。また「一粒のまま」とある原語は、「ひとつのまま」、人間で言えば「一人のまま」です。原語の「一粒」は単数で冠詞がついていますから、特にイエス・キリストご自身を指しています。これは、直前に出てきた「イスラエルの王」が、どのような意味で「王」なのかを示すものです。ヨハネ福音書では、ここが、共観福音書に出てくる種まきのたとえに当たるところでしょう(マタイ13章18~30節/マルコ4章3~20節)。ただし、共観福音書では、神の御言葉が種にたとえられていて、しかもその種が実を結ぶのを地上で妨げる働きをするものについて語られています。ところが、今回は、種がどのようにして実を結ぶのかという、実を結ぶ「神の国の法則」が語られます。「実を結ぶ」は、復活とそこから結果する多くの人の救いを指しますから、このたとえは、パウロの種のたとえに通じると言えましょう(第一コリント15章35~38節)。地上の自然の法則と神の国の法則は、このように「命を創造する」働きにおいて類似しているのに注意してください。ヨハネ福音書が、はたして、共観福音書やパウロのたとえを踏まえているのか確かでありませんが、何らかのつながりを思わせます。
[25]この節にはマルコ8章35節が反映していると見られています。マルコ福音書もヨハネ福音書も、この節をイエスに従う弟子たちと結びつけているからです。
【自分の命を愛する者】「命」のギリシア語には「魂」の意味もありますが、この言葉は、ヘブライ語で肉体の命をも指し、さらに「その人自身」の意味になります。「愛する」の原語は、人間の情愛を表わす言葉ですから、「好む」「執着する」の意味に近いでしょう。「失う」とある原語は現在形で「滅ぼす」ことです(マルコ福音書では未来形)。
【自分の命を憎む者】「この世」という言い方は、ヘブライ語では「この世で生きている間」のことで、「はかない」「しばらくの間」「一時的な」という意味も帯びています。また「憎む」とあるのは、二つの事柄のうちで、一方を他方「ほどには愛さない」というヘブライ独特の比較法から来ています。「愛する」と「~ほどには愛さない」のこのような比較用法は、一方だけに徹底的に執着することによって、他方を決定的に「憎む」「嫌う」という「あれか・これか」の論理的な結論とは異なる意味合いを帯びますから、これは、「自己嫌悪」のことではありません(申命記21章15節/マタイ6章24節/ルカ14章26節を参照)。
【永遠の命に至る】原文を直訳すると「いつまでも続く生命に達するように自分の命を大事に守ることになるであろう」です(「守る」は未来形)。「永遠の命」は、マタイ福音書(4回)、マルコ福音書(2回)、ルカ福音書(3回)に対して、ヨハネ福音書では17回ほどでてきます〔新共同訳〕。ヨハネ福音書では、永遠の命は、「イエスの父なる神とイエスを知る」ことによって与えられます(17章3節)。それは、「生きている間に」すでに与えられるもので(5章24節)、しかもイエスとつながることによって絶えず与え続けられるものです(6章27節)。この命は、決して失われることがありません(10章28節)。
[26]この節もマルコ10章42~45節やルカ22章26節とつながりがあると見られています。マルコ福音書にある「民を支配し、権力を振るう人たち」のことと、ヨハネ福音書が言う「イスラエルの王」との違いがここでも明らかにされます。しかし、ヨハネ福音書が直接に共観福音書を下敷きにしているとは思えません。四福音書に共通する伝承が背景にあると考えられます。マルコ8章34~35節では、イエスに「従う」弟子の覚悟が先に語られ、これに続いて「福音のために命を失う」ことが語られます。ところがヨハネ福音書では、先に「自分の命を憎む」ことが語られてから、「わたしに従う」ように求められています。
【わたしに仕えようとする者】原文は「このわたしに仕えようとする人はだれでも、わたしに従いなさい。そうすれば、このわたしのいるそのところに、わたしに従うその人もいるようになるだろう」です。マルコ10章45節では、イエスのほうが先に人々に「仕える」ことと、これにならって弟子たちも人々に仕えるように教えています。ところが、ヨハネ福音書では、先に人が「イエスに仕える」ことで始まります。これは、先のギリシア人たちの求めとも関連します。イエスに「仕える」とは、人のほうがイエスのほうへ来ることですが、イエスに「従う」とは、人がイエスの「後からついていく」ことです。イエスのところへ来ることと、イエスの後から従うこと、イエスとの出会いで、この二つの関係が、マルコ福音書とヨハネ福音書では逆になっています。
【わたしのいるところ】この言い方は、イエスの父がおられるところ(天国)に、イエスを信じる者も共にいるようになる、という意味に理解できるかもしれません(14章3節)。しかし、「わたしのいるところ」は、必ずしも地上から離れた場所だけを想定しているわけではありません。「わたしのいるところ」とは、「わたしはある」(エゴー・エイミ)の臨在する場のことです。それは父が「御子の栄光を顕す」ところであり、弟子たちがこれを「観るため」です(17章24節)。それはまた、父がイエスを愛しておられるように、イエスに従う人たちをも愛しておられることを「この世の人々が知る」ことでもあります(17章23節)。なお、ここに「父はその人を大切にする」とありますが、「神が人を尊ぶ」というこのような言い方は四福音書でも希で、ヨハネ福音書ではここだけです。「父はイエスに従う人を愛してくださる」のです(14章23節)。
[27]この節は、もともと23節からつながっていると言われ、「時が来た」(マルコ14章41節)、「わたしは心騒ぐ」など、マルコ14章33節以下のゲツセマネでのイエスの祈りと共通するところが多いと指摘されています。物語の構成から見れば、共観福音書でのゲツセマネの祈りにあたるところは、ヨハネ福音書では17章のイエスの祈りでしょう。しかし、17章の祈りは、イエスご自身の苦しみではなく、この世に残る弟子たちのための「執り成しの祈り」ですから、十字架を前にしてイエス自身が苦しみのうちに祈る心は、ここ12章27節に表われています。
【わたしは心騒ぐ】原文は「わたしの魂は思い乱れる」です。「魂/心」はその人自身と同じです。詩編42篇6節の七十人訳(41篇5節)に「なぜわたしの魂は<悲しむ>のか? なぜ<思い乱れる>のか?」とあります。マルコ14章34節には「わたしの魂は<悲しむ>」とあり、ヨハネ福音書のここも「わたしの魂は<思い乱れる>」とありますから、マルコ福音書もヨハネ福音書も同じ七十人訳の詩を踏まえているのが分かります。この詩は、同じ信仰の仲間から迫害され、追放された人の悲しみと嘆きの歌だと言われています。
【この時から救ってください】原文は疑問と祈りの両方に読むことが出来ます。直前に「なんと言おうか?」とあるので、通常ここは「~と言おうか?」〔新共同訳〕のように疑問として訳されています。しかし、「この時(の苦しみ)から救ってください!」のように切実な祈りとして読むこともできましょう。祈りとするほうが、これに続いて、「しかし、この時のためにここまで来たのです」と自らに問い返して、その上で「父よ!あなたのみ名に御栄光を!」と決心する気持ちがよく伝わり、「自分の命を憎む」ことの真意がより鮮明に出てくるようにも思います。
[28]これまでは「父が御子に栄光を授ける」ことについて語られることが多かったのですが(8章50節/8章54節)、ここからは「父が御子によって栄光を受ける」ことが語られます(13章31節/14章13節/15章8節/17章1節)。
【天から声が】共観福音書では、イエスが洗礼を受ける時に「わたしの愛する子」と天からの声があります。しかしヨハネ福音書では、洗礼者が「(イエスに)聖霊が鳩のように降った」と証ししていますが、天からの声はありません。その代わり、ヨハネ福音書では、共観福音書のゲツセマネの祈りに当たる今回のところで、「わたし(神)は栄光を顕す」という声が響きます。ヨハネ福音書では、イエスの祈りの苦しみが、天からの栄光と重ねられるのです。ルカ福音書にも「天使がイエスを力づけた」(22章43節)とありますが、ルカ福音書のこの部分は、多くの写本では省かれています。最も古いと考えられるこの伝承が省かれているのは、あまりに人間的な苦悩を表わす描写が、「神の子」としてのイエスにふさわしくないと考えられたからです。このことは、ルカ福音書とヨハネ福音書に共通する古い伝承があったことをうかがわせます。なおマルコ福音書で、イエスの受難について天からの声があるのは、マルコ9章7~10節の山上の変貌の時です。
【再び栄光を現わそう】「すでに栄光を顕した」とあるのは、イエスによって行なわれた数々のしるしを指していて、「<再び>栄光を顕そう」とあるのは、これから起こる受難と復活を指します。ただしヨハネ福音書で「これから起こる」というのは、この天の声があった今の時にすでに完了したという意味をも帯びています。未来が現在とひとつになるこのような語り方は13章31節にも見ることができます。
[29~30]「天からの声」は、側にいる人たちには雷の響きか、あるいは天使の語りかけと思われました。どちらにせよ、人々には、その声は、「言葉」としてではなく「響き」として受け取られたのです。ただし「響き」はただの「音」とは異なります。「響き」は、それ自体に深い意味を帯びているからです。だから彼らは、天の声を「音声として聞き分ける」ことまではできませんでしたが、その「響き」を聴き取ることができたのです。イエスが、この「雷鳴」は、御自分への助けのためというよりも、人々がこれを聞いてイエスと父とがひとつであることを知るためであると言うのはこの意味です(この点ではマルコ9章6~8節参照)。「雷鳴」が祈りに応えて天の声を「響かせる」ことについては、詩編18篇7~8節と14節、さらにヨハネ黙示録11章19節を参照してください。
■12章31~36節
[31]31~32節は、並行関係に置かれていて、イエスの口から重要な証言が語られます。
「今こそ、この世が裁かれる時。
今こそ、この世の支配者が追放される時。
このわたしが地上から上げられる時には
わたしのもとへすべての人を引き寄せよう。」
 このように前半と後半が、2行ずつペアになっていて、しかも二組のペアも並行しています。前半ではこの世とこれを支配する悪の頭(かしら)が裁かれます。後半では、イエスの十字架から昇天までが、この世の人たちすべてをイエスのもとへ導くことが語られます。この世におけるサタンの呪いが、イエスの十字架の贖いによって、最終的に砕かれるのです。その結果、人類がイエスによって救いに導かれると語られます。ヨハネ福音書が、「人の子が栄光を受ける」(12章23節)と言うのは、この出来事全体を指します。だから、31~32節は、内容的に見れば23節からつながります。この出来事が生起するその過程において、一粒の麦に見られる死と復活が現象するのです。
【この世が裁かれる時】ここで「今のこの世」に対する裁きが語られます。冒頭に「今こそ」とあるのは、人の子が栄光を受けること、すなわちイエスの十字架と復活が、この時点で「すでに完了した」ことを意味します。「裁き」とあるのは、「人の子」を殺すことによって「この世の罪」が暴露されることです。しかも、ここが大切ですが、「このこと」が同時に、父が御子を一粒の麦として「この世に与える」出来事と重なるのです。「この世を裁く」というのは、世の人々が「命に生きる」のか「死に留まる」のかが、イエスとその人たちとの関係によって二つに分けられることです。この「裁き/判断/判定」は、この世において繰り返し続き、終末においてその結果が露わになります。このような裁きは、御子がこの世に対して行なうのですが、その権能は父から授与されていて、御子は「父の御心のままに」行なうのです(5章19節)。ですから、イエスが自分の意志で行なうのではなく、「父との交わり」にあって起こる裁きです(8章16~18節)。その「裁き」とは、「光が来る」ことによって、人々が、「光を愛する者」と「闇を愛する者」とに分けられることです。しかし、父と御子のほんとうの意志は、この世の人々が「裁かれる」ことではなく、逆に救われることです(3章17~18節)。
【世の支配者が追放される】ここで「悪魔の敗北」が語られます。ヨハネ福音書の言う「この世」は、教会や聖なる世界と区別された「世俗の世界」のことではありませんから注意してください。世俗の世界も宗教の世界も、聖なる世界も俗なる世界も、すべてをまとめて「この世」と呼ぶのです。だから、イエスを十字架につけたピラトだけではなく、彼をそのように仕向けた「ユダヤの宗教的指導者たち」こそ「この世」です。「支配者」の原語は単数で冠詞のある「王侯」です(“the Prince of this world”)。ヨハネ福音書では、この言葉は「悪魔/サタン」を指します(14章30節/16章11節)。パウロでは、「人の目をくらまして、キリストから遠ざけるこの世の神」として出てきます(第二コリント4章4節)。またエフェソ2章2節にも「不従順な人々に働く霊」として「この世の支配者」が出ています。
 ?ユダヤ教でも「代々の支配者」という言い方をしましたが、これは、ほんらい神のことです。この「代々/世界の支配者」は、善と悪とが戦う「代々の世界」も神のみが一元的に支配しておられるという世界観から出ています。しかし、クムラン宗団などでは、この世界が、不義の子らを支配する「暗闇の天使」と光の子らを支配する「光の君」とが互いに戦う場であるという二元論的な世界観として現われます〔『宗規要覧』Ⅲ20~21〕。こういう「暗闇の天使」は「死の天使」とも呼ばれて、ギリシア語で「コスモクラトール」(世の支配者/権力者)と言い表わされました。おそらくこの言い方が、ここの「この世の支配者」の背景にあると思われます。これは、この世を支配する悪魔あるいはサタンのことです。
  このように、「神」と「死の天使」とが、どちらも「この世の支配者」と言い表わされることになり、「この世の支配者」は、二重の意味を帯びるようになったようです。ここ31節では、「追い出される」のは「この世の支配者」である悪魔です。しかし、これに代わってイエスが「イスラエルの王」として世界を支配するのですから、「サタンはこの世の王座を追放され、イスラエルの王が代わって即位する」ことになります。ここで語られるキリストとサタンとの戦いとサタンの追放は、ヨハネ黙示録の12章(7~12節)と同書20章(1~10節)で語られる両者の戦いへつながります。
 ちなみに、小羊キリストとサタンとの戦いについては、人類の太古から語り継がれている「神と悪魔との戦い」の神話がその背景にあると言われています。悪の竜を退治する英雄の物語は、古代メソポタミアの神話からカナンの神話にいたるまで続いていて、これがヘブライの黙示思想に与えた影響は、イエスの時代に近いクムラン宗団の文書にも見ることができます。新約聖書では、これが「竜と闘う天使ミカエル」として、ヨハネ黙示録(12章7節以下)に出てきますが、この竜は、最終的に「小羊の血と兄弟たちの証し」によって敗北します。
  古代のオリエントで竜が悪の表象とされたのは、これが「混沌」を表象する海の中に住むと考えられたことから来ていると思われます。近代では、この竜と英雄との戦いは、アメリカの有名なメルヴィルの小説『白鯨』(1851年)に出てくる海の怪物モゥビー・ディック(Moby Dick)という鯨と、これと死闘するエイハブ船長の物語に象徴されています。ただし、世界的な視野から見ると、古来「竜」は、必ずしも悪の表象ではありません。ギリシアでは、竜は「物事をごまかしなく見る」爛々とした眼(まなこ)を持つものですから、楽園の黄金の実を守護する竜が出てきます。またインドと中国では、竜は雨をもたらす龍神として崇められ、日本にもこの伝承が伝えられています。ですからアジアでの竜は、必ずしも「悪霊」や「悪魔」ではなく、逆に法を守る守護龍神ともなりますから誤解しないでください。なお、ここで「追放される/追い出される」とありますが、ルカ10章18節では、サタンが「天から墜落する/落ちる」となっています。ヨハネ黙示録12章10節でも「投げ落とされた」とあって、サタンが天からこの地上へ「落とされた」ことになっています。しかし、ヨハネ福音書では、この地上にあって、「外の暗闇に追放される」(英語では“cast out”)のです。共観福音書でもイエスが悪霊を「追い出す」出来事がしばしば出てきます(マルコ1章23節以下など)。
[32]【地上から上げられる時】これは「イエスの死と復活」のことです。「上げられる」は、七十人訳(ギリシア語)のイザヤ書52章13節に、受難の僕についてのメシア預言があり、そこに「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く<上げられ>、<栄光を受ける>」とあって、ヨハネ福音書はここを踏まえていると思われます。なお3章13~14節をも参照してください。
【すべての人を引き寄せよう】「すべての人」の原語は「すべてのもの」です。これはユダヤ人だけではなく、ギリシア人を含む世界の諸民族のことを指しています。ここで初めて、先に出てきたフィリポたちの仲介への答えが与えられます。イエスは、十字架と復活と昇天、これに伴う聖霊の降下によって、全世界の人たちを「引き寄せる」のです。しかし、6章44節では、「引き寄せる」のはイエスの父が行なうことです。だから「引き寄せる」のは、イエスの父でありイエスご自身でもあり、父子一体の働きになります。6章44節にあるように、人は自らの力でイエスのところへ「来る」ことができません。父が「引き寄せて」くださらなければ、イエスのもとへ来ることができないのです。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしが、あなたがたを選んだ」からです(15章16節)。父は、お選びになった人たちに、イエスのみ名によって、聖霊を遣わし、その人を「イエスのもの」となさるのです(17章6節)。
 では、どのような人が選ばれるのでしょうか? ここ12章32節は3章13~14節と対応していて、12章35~36節は3章19~21節と対応しています。そこには「光と闇」が出てきて、光を愛し真理を行なう者は、イエスのもとに「引き寄せられ」、逆に闇を愛し、悪を行なう者は、イエスから離れ去ります。「引き寄せられる」ことと「離れる」こと、ヨハネ福音書では、人々の間に生じるこの分裂が、イエスの発言やしるしが行なわれる度に繰り返されてきました。これが「この世に対する裁き」です。ヨハネ共同体は、このようにして、繰り返し、繰り返し、この世の人々に向って光を発して、これを「引き寄せ」、引き寄せることによって新たな裁きをこの世に招き、このようにして裁かれた人たちに向かって、さらに新たな啓示の光を発し続けるのです。こうして、すべての人が引き寄せられる時に、ヨハネ黙示録21章22節の「神殿のない都」が小羊とその父によって完成することになります。なお、ここの「引き寄せる」は、21章で、153匹の魚を捕らえる網を「引き寄せる」ことへとつながると見ることもできます(「153」はあらゆる種類を象徴する数字です)。この項目は次の論文を参考にしました。
〔R. Alan Culpepper;“Inclusivism and Exclusivism in the  Fourth Gospel.”John Painter, et.als.
Word, Theology, and Community in John. Missouri: Chalice Press(2002).〕。
[33]【どのような死を】「どのような死を」とあるのは、18章32節から判断すると、ローマの極刑である十字架によって死ぬことを指していますが、「どのような」には、十字架刑だけではなく、「上げられる」ことで栄光を受ける結果になることも含まれるのでしょう。「示す」の原語は「しるしを与える」ことですから、十字架で両手を広げる姿が、人々を「引き寄せる」<しるし>であると見る説もあります。21章18~19節で、ペトロについて言われた死に方を参照。
[34]【メシアは永遠に】「律法」とは、(旧約)聖書のことです。ただし、旧約聖書に「メシアは永遠にとどまる」と述べた箇所は見あたりません。詩編89篇37節には「彼(ダビデ)の子孫はとこしえに続き、彼の王座はとこしえに立つ」とあり、その他の箇所(イザヤ書9章6節)などから、人々は、一般にメシアについて信じられていることを尋ねたのでしょう。
【「人の子」とはだれか】人々は、イエスが「上げられる」と言うのは、「死ぬ」ことだとは分かりますが、それ以上のことを悟ることができません。だから彼らは、「人の子は、どうしても上げられなければならないとあなたは言うが、それはなぜなのか? その『人の子』というのは、いったいだれのことか?」と尋ねます。「油注がれたメシア」については、例えば『第一エノク書』( エチオピア語エノク書)49章2節に、「彼の栄えは永遠に、その力は代々に及ぶ」とありますから、彼らの多くは、メシアの到来とともに訪れる神の国はとこしえに続くと信じていたからです。ただし、エルサレム陥落(紀元70年)以後の時代になると、「メシアの王国も一時的で、メシアの死と共に終わる」(続編ラテン語のエズラ記7章28~29節)という見方が表われます。イエスは、ここで「メシア」とも「人の子」とも言っていませんが、エルサレム入城に際して人々がイエスをメシアとして迎えたことから、またイエスが自分のことを「人の子」と呼んだことから、このように尋ねているでしょう。
[35~36a]イエスは、人々のこの質問には直接答えません。ヨハネ福音書は、事実上これがユダヤ人に対する最後のメッセージであることを意識して、ユダヤ人全体に対して語るのです。ここのイエスの答えも並行法になっています。
 
   光は、今しばらく、あなたたちの間にある。
  光がある間に歩みなさい
  闇があなたがたを支配しないためである
  闇の中を歩む者は、どこへ向かうのか分からないのだから。
  光がある間に、光を信じ受け容れなさい
  光の子たちとなるためである。

  この並行法だと、光の4行が、真ん中の闇の2行を両方から囲んでいるのが分かります。「今しばらく」とあるのは、イエスの地上での働きのことです(16章16~20節参照)。ヨハネ福音書は、光を「持つ」「見る」「信じる」とも言いますが、光と闇に共通して「歩(あゆ)む」という言い方をしています(8章12節/11章9節/12章35節)。光を「歩む」ことで光を「宿す」ようになることを「光の子となる」と言います(エフェソ5章8節参照)。「子」は、そのものの性質を宿すのです。
 「光の子」と「闇の子」は、クムラン宗団の文書に多く用いられています(『宗規要覧』1章9節/2章16節/3章13節など)。この宗団は、エルサレムの神殿制度と対立して、「光」と「闇」とを厳しく分離する信仰に立っていました。しかし、彼らの信仰によれば、「光の子らは光の君(きみ)に支配され、不義の子らは闇の天使に支配されて」いましたから、闇の子らは「呪われた」存在であり、彼らは「憎むべき」者たちだったのです。ところがイエスは、「闇に支配されないために光を歩む」ことを「闇の中を歩む人たちに」向けて語るのです。しかも、光のこのような働きを「闇が支配することはできない」のです(1章5節)。ここには、民を贖うために「苦難の僕」として遣わされる主の僕を預言したイザヤの言葉が反映しています。
ヤコブをみもとに立ち帰らせ、
イスラエルを集めるために
母の胎にあったものを
ご自分の僕として形づくられた主は
こう言われる。
「わたしはあなたを僕として
ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、
イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。
だがそれにもまして
わたしはあなたを国々の光とし
わたしの救いを地の果てにまで、もたらす者とする。」
            (イザヤ書49章5~6節)
  なお12章35節に、闇はあなたたちを「支配しないためである」とありますが、この「支配しない」は、1章5節の「支配しない」と同じで、「暗闇は光を支配しない/理解できない/勝つことがない」のように訳すことができます。
【彼らから身を隠す】36節の後半は、新共同訳と新改訂標準英訳〔NRSV〕などでは、次の37節へ続けています。したがって、36節前半のイエスの御言葉で段落を区切ります。このような区切り方は、37節以下が、イエスを信じなかった人たちについて語られているからで、この段落をイエスが「立ち去って身を隠す」ことで始めるほうが、内容的に合うと考えるからでしょう。しかし、イエスが「これらのことを話してから」とある「これらのこと」とは、その前のイエスの言葉を指していますから、36節全体をここでのイエスの御言葉の終わりにおく方が適切だと思われます。「身を隠された」の原文は「隠れた」の受動態アオリスト形です。イエスが人々に「公然と語る」(7章26節)時は、ここで終わります。「闇に追いつかれないように光を受け容れなさい」という警告の後で、ちょうど光が「隠れる」ように、イエスは人々の前から姿を隠したのです(8章59節参照)。
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