8章 初めのみ言
             
1章1〜5節
■1章
1初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2この言は、初めに神と共にあった。
3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
               【講話】
             【注釈】
■神のみ言(ことば) 
 ヨハネ福音書の序の言葉は、万物に先立って存在していた神の「初め」のみ言(ことば)で始まり、17節でこの「み言」がイエス・キリストであることが分かります。み言と父の神はひとつですが、このみ言を通じて、わたしたちは、自分たちを造ってくださった創り主に出会うことになります。イエス様が父の神とひとつであるとは、イエス様が父の神ご自身だという意味ではありません。あるいは、旧約の神ヤハウェが、イエス様と同一だというのでもありません。そうではなく、父の神と御子イエスが、同じ神の性質を有しながら、互いに人格的な交わりにあってひとつだという意味です。その交わりの中からすべてのものが創造されるのです。
 「すべてのものはこれによって出来た」とありますから、み言は「出来事」を生起させます。出来事は哲学や教訓や論理ではありませんから、神のみ言は、わたしたちの理解を超えるところがあります。なぜなら、み言が行なうことは、わたしたちが生まれたり死んだりする「出来事」と同類だからです。聖書が伝える信仰は、「キリスト教」という宗教だと思う人がいるかもしれません。けれども、聖書がわたしたちに伝えるのは、創世記にある「神の霊」の働きであり、それは「創造する御霊」(ラテン語で"Spiritus Creator"。英語で"The Creating Spirit")のお働きです。
■働くみ言
 共観福音書は、イエス様のことを、旧約聖書でイスラエルに約束された「メシア」(ギリシア語で「クリストス」)だと証ししています。ところがヨハネ福音書では、初めから、宇宙の創造にかかわるお方として現われます。イエス様のこの地上での歩みは、永遠の神のみ言が、人類の歴史の中に啓示される「出来事」だからです。ヨハネ福音書は、「この」出来事を伝えるのです。この出来事は、そこに啓示されているみ言の永遠性のゆえに、人類の歴史を通じて働き続けます。だから、人類の歴史と自然と宇宙は、神が、そのみ言を通じて、これを導き、完成へいたらせようと働かれる「創造の場」にほかなりません。
 人間をも含む宇宙や自然は、機械仕掛けの時計のように、それ自体独立して動いているのではありません。宇宙は、まだ完成してもいないし、出来上がってもいません。わたしたち人間も全宇宙も流動しています。宇宙は、創世記の「混沌の深淵」から出発しているけれども、まだその混沌を抜けきってはいないのです。
 だからヨハネ福音書は、「コスモス」(宇宙・この世)が、それ自体で神と人間から自立して存在しているとは見ていません。また、「この世」を単に空間的な広がりとしても見ていません。宇宙を「この時代」(アイオーン)として、時間においても見ているからです。宇宙は、時々刻々神のみ手に動かされ、造られ続けています。ちょうどわたしたちの心臓の鼓動のように、神のみ手は休まず働いておられるのです。神のみ言も、このように絶えずわたしたちに働きかけ、語りかけます。だから、わたしたち一人一人を成り立たせている事象もまた、宇宙の一切の事象とひとつながりになって、神の言葉であるロゴスの働きによって生起しているのです。
■命の光
 み言であるイエス様の命は「人間の光」だとあります。光が人間を照らすのは、人間を「方向づける」ためです。この光は、それに「導かれ」「従う」ためのものですから、ほんらい、理解したり考察したりするための対象ではありません。人は、イエス様の光に照らされることによって、光に従い始めます。すると「闇に勝つ」という不思議が生じるのです。光は闇を光に変えるからです。闇と光はこのように、ヨハネ福音書にあって不思議な関係を持っています。「光」の働きについて、エフェソの信徒への手紙に次のようにあります。
   人間の誤りはすべて光にさらされ、明らかにされます。
   明らかにされるものはみな、光となります。
   それで、こう言われています。
   眠りについている者、起きよ。
   死者の中から立ち上がれ。
   そうすれば、キリストはあなたを照らす。
        (エフェソ5章13〜14節)
 同じエフェソ5章8節に「光の子として歩みなさい」とありますが、これは、闇に目をとらわれることなく、み言の光にあって人に接するうちに、相手の人を光りに変じてしまう、そういう性質を宿す者になりなさいという意味です。「闇は光を覆わなかった」とあるのはこのことです。この命の光は、全宇宙に満ちていますから、これを特定の民族や宗教だけに限定することはできません。ユダヤ教では、「主の言葉」は律法と同じて、これはとりわけイスラエルの民のための「光」であり「命」でした。しかし、ヨハネ福音書は、そのような人種的な制限をつけずに、「この命は人の光であった」と言い切るのです。
■光と闇
 「闇/暗闇」は、「光」と並んで、ヨハネ福音書に一貫して現われる表象です。これには、霊的な闇、死の闇の意味もこめられていて、しかもこの「闇」がだんだんと深くなって、イエス様を十字架の受難へと向かわせます。しかしこの闇が「どこから」来たのか? その起源は、創世記の楽園に現われた蛇の起源と同じで、語られていません。
 ユダヤ黙示思想では、この世は神によって造られているけれども、人間を含む「被造物の堕落」によって、時代が下がると共に闇に覆われていきます。「世は闇の中に置かれ、そこに住む者には光がない」のです〔第四エズラ記/ラテン語エズラ記14章20節〕。この闇は、メシアの到来によって初めて、その光によって打ち負かされます。新約聖書はユダヤ黙示思想の影響を受けていますが、「闇」の起源について、2世紀のグノーシス思想のような複雑な神話体系を通じて、暗闇の起源を解明したり、その原理を説明したりしません。ただ、光が現実にもたらす出来事を通じて、闇と光とのかかわりを解決していく道を指し示すのです。
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