【注釈】
■1章
1初めにみ言(ことば)があった。
み言は神との交わりにあった。
み言は神であった。
2彼は初めに神との交わりにあった。
3すべては彼によって生じた。
彼によらず生じたものは何一つなかった。
4彼にあって生じたものは命であった。
この命は人間を照らす光であった。
5光は闇の中に輝いている。
闇は光をとらえることができなかった。
     (私訳)
  1~2節はみ言の神性について、3~5節はみ言による創造について語っています。私訳でも分かるように、最初の3行に「み言」が、次の3行に「彼」が、次の2行に「命」、次の2行には「光」と「闇」がそれぞれ繰り返され、各行が緊密に結び合って構成されています。訳文では出てきませんが、原文では、前行の終わりの言葉が次の行の始めにきています。
[1]【初めに】この「初め」は、時間的な「始まり」の意味だけでなく、万物が生起する創造の起源を意味します。だから、創造の「初起動」であるみ言の働きを指します。ヨハネ福音書のみ言は、神と共に存在するだけでなく、「語られる」み言であり、語られることによって「働きかける」み言です。ここからすべてが「始まる」のです。
【言】原語は「ロゴス」です。創世記1章1~3節では、神と神の霊が、創造に先立って存在していて、神が言葉を「発する」ことでみ言が働いて創造の業がはじまります。けれども、言葉を発する前の「み言」はどうなっているのか定かでありません。ただ、神の霊が、深淵に働きかけようとしていたとだけあります。ヨハネ福音書では、ロゴスが、創造の御業がはじまる「前に」すでに存在していたことが、はっきりと語られていますから、これを「ロゴスの先在」と言います。
【神と共に】「初めに・・・・・」とあるので、だれでも次に来る主語は「神」であろうと予想します。ところが、ヨハネ福音書は「み言」を主語として提示するのです。このために読者あるいは聴き手は、「み言」と神と、どちらがほんとうの主語だろうと戸惑います。この疑問に答えて、「み言は神と共にあった」と来るのです。「ロゴス」が「神と共にあった」の原文は「神に向いていた」という意味ですが、これは、人格的に神と対面している状態、すなわち神との「交わり」のうちにあることを指します。ヨハネ福音書は、創世記の冒頭で神が「語られた」とあるのをこの「み言」と結びつけるのです。「共に」とあるのは神の「御臨在の内に」の意味ですから、これを神との「交わりの内に」と言い換えてもいいでしょう(第一ヨハネ1章3節を参照)。だから、神とみ言の「交わり」こそが、創造の働きの根源であることが分かります。
【言は神であった】「向いていた/共にいた」とあれば、神とロゴスは別個の存在であるようにも思われますから、両者はどのような関係にあるのかが問われます。だから、3行目に、「言は神であった」とあって、み言は、それが語られたお方と一体であることを表わします。語られる言葉は、それを語るお方自身をその内に宿しているからです。ここの「神」には冠詞がありません。したがって「み言は神性を有していた」“The Word was divine.”と訳すこともできます。もしも神に冠詞をつけると“The Word was the God.”となりますから、み言以外に神は一切存在しなくなります。しかしここでは、み言と神が、相互に存在し合いながらも、ひとつであると言いたいのです。ここで言う「ひとつ」は、ただ存在するだけでなく、その「創造の働き」において、父とみ言とが一体となることです。この信仰は、後に三位一体の神観の基礎となります。このように、ヨハネ福音書は、創世記と違って、神を創造の前面には出さず、神の「み言」が万物より先に存在していて、その「み言」が働いて万物が生起するにいたったことを伝えています。
[2]2節は、1節をまとめてもう一度繰り返しています。ヨハネ福音書の繰り返しは、単なる繰り返しでなく、大事なことを読者に印象づけ、それをさらに発展させるためです。ここでも、前に述べたことを受け、さらに次の行へつなぐ役目をしています。1節では「言」と「神」が交わりにおいてひとつになっています。3節では、この交わりが創造の働きをします。このように見ると、2節は、1節を3節以下へつなぐロゴスの働きそのものです。ロゴスであるお方が、神と創造されたものとの間にあって、「成ったもの/生起したこと」をそれを成らせたお方(神)へ結ぶのです。ヘブライ語の「ことば」(ダーヴァール)は、神の口から「発せられる」こと、すなわち、働きかけることで、出来事を生起させ、造り出す言葉です。3節からは「創造」が語られますから、創造と「み言」のかかわりを2節が語るのです。
 新共同訳では、2節の始めを「この言は」と訳していますが、ここは代名詞です。この代名詞は「彼は」と人格化して訳すこともできます。言葉は通常「それ」とか「これ」で受けますが、「彼」で受けることはしません。しかし、続く3節では、「み言」を「彼」という人格を表わす別の代名詞で受けていますから、「彼」のほうがいいでしょう(“he”〔NRSV〕〔REB〕)。「み言」を「彼」と訳すのは、それが人格的な存在であることをはっきりさせるためです。
[3]【言によって成った】3節から創造のみ業が始まります。新共同訳で万「物」と訳してあるのは誤解を生じます。直訳すれば「すべては彼によって生起した」です。ここで「成った・生起した」と訳されているギリシア語は、七十人訳聖書(旧約のギリシア語訳)の創世記1章3節で、神が「光あれ」と言われると「光があった/できた/生起した」とあるのを踏まえています。ヘブライ語原典でも、「ハイヤー」という動詞は、この場合「ある」と訳すよりも「事が生じる/生起する」という意味です。ですから「生じた/成った」のは「物」ばかりではありません。「物」も「者」も目に見えない「もの」もすべてです。宇宙のあらゆる事象・現象が神の「み言」によって生起するのです。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたのです」(コロサイ1章16節)。
 ギリシア語の「ロゴス」(ことば)には「理性」という意味がありますから、「ロゴス」は、物事を成り立たせている「理」という意味にも理解できます。神のロゴスは、「造る」だけでなく、「生起」させ「成らせる」のですから、出来たものの内にはロゴスの「理」が宿っているとも言えます。しかし、ヨハネ福音書の「ロゴス」は<人格>ですから、これを「理」とは言わず「命」と呼ぶのです。万象は、このロゴスの働きによって絶えず生起しています。だから、神のロゴスから独立して、それ自体で絶対的な「固有性」を有するものは存在しません。すべての事象に具わる固有の性質は、神のロゴスの働きから見るなら、相対的で非本質的です。
[4]4節の私訳は、新共同訳と訳し方を変えて、「彼にあって生じたものは命であった」となっています。新共同訳は、3節を「<成ったもので>、言によらず成ったものは何一つなかった」と訳しています。新共同訳にある「成ったもので」は、実は3節の原文の最後に置かれています。しかも、これをはずしても、文として十分意味が成り立つのが分かります。だから、3節の原文の「成ったもので」の<前に>終止符を打って、この句を次の4節に回すこともできるわけです。写本の原文に句読点はついていません。これを4節へ回すと「彼にあって<成ったもの>は命であった」となります。これが私訳のほうです。
 問題は、終止符を原文の「成ったもので」の前に打つのか、後に打つのかです。実は、4世紀の半ば頃までの古代教会は、終止符を「成ったもので」の前に入れて、私訳のように、この句を4節に入れる読み方をとっていました。先に述べたように、1節から5節までは、韻律的な形をとっています。訳文でもいくらか分かると思いますが、「成ったもので」を4節に置くと、韻律の上で、3節の後半と4節の前半とがほぼ同じ長さになります。先の行の言葉を次の行で繰り返すというヨハネ福音書の文体にもこの読み方が合います。したがって、この読みが、言語的にはほんらいの読みであったと考えられます。
 ちなみに英訳聖書のNRSV("What has come into being in him was life,")は、本文に私訳のほうをあげ、欄外に新共同訳のほうをあげています。REBでは本文のほうが新共同訳通りで、欄外に「すべて生じたものは、彼の命にあって生きていた」("All that came to be was alive with his life.")と私訳に近い訳をあげています。3節の私訳の読み方を採れば、「すべては彼によって生じた」のですから、これを4節の私訳へつなぐと、ロゴスであるお方が、宇宙のすべての現象に「命」を与えている、という意味になります。「唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在している」(第一コリント8章6節)とパウロが言うのもこのことでしょう。
 おそらく、私訳のほうが本来の読み方でしょう。では、どうして、ここの読み方が、現行のように変えられたのでしょう? 4世紀頃になると、いわゆるアリウス/アレイオス主義と呼ばれる異端運動が生じてきました。これはアリウス/アレイオスという人の唱えた説を受け継ぐ神学で、一言で言えば、父なる神と子なるキリストとは同じではない。神とその子とは異なる存在であるという神学です。さらに、これに類似したマケドニウス派と呼ばれる異端が出て、聖霊は神に「造られた」被造物であり、神とは別の存在であると主張したのです。どちらも現在正統とされている三位一体の教義を否定するものです。この人たちが、自分たちの信仰を証明するために、ヨハネ福音書のこの部分を引用しました。よくは分かりませんが、おそらく「成ったもの」に聖霊をも含めたのだと思います。また正統キリスト教から異端とされた「グノーシス主義」の人たちも、2世紀の半ば頃から、4節を曲解して、生起するすべての物/者には、「それ自体のうちに命があって」その命こそ「人の光」だと「誤読」したようです。
 このために、東方教会の中心地コンスタンティノポリスの主教であったクリュソストモス(347年?~407年)という人が、現行の新共同訳のように終止符の位置を変えて、「成ったもの」を3節に入れたのです。これが現行の訳で、新共同訳もこれに従っています。ですから、これは「言語的」な立場に対して「教義的」な立場の読み方だと言えましょう。確かに、「造られたものすべてにロゴスの命があった」と読むなら、ロゴスは人間<全体を>照らす光になります。だとすれば、5節に来る「闇」は存在しないことにもなりかねません。もっとも、「すべては彼に<よって>成った」のではあるけれども、「彼に<あって>成ったもの<だけ>に命があった」(この二つの前置詞は異なっています)と理解すれば、続く「闇」の存在と矛盾しなくなります。ともあれ、クリュソストモスの読み方のほうが、ヨハネのほんらいの教えに適切だという理由で、この伝統的な読みが、今なお受け継がれています。
【人間を照らす光】「彼にあって生じたものは生きる」とあるところから、「万物」から「人間」に移行します。万物は彼<によって/を通じて>生起したのですが、その中で彼(神のロゴス)<にあって>生まれた者は万物に優る霊的な命に活かされるという意味です。だから、この光が「人を照らす光」です。「光」は、創世記で神が最初に造られたものですが、その「光」は、まだ天も地も太陽も月も造られる前ですから、これは神が「ご自身を啓示する」ための最初の創造の業です。創世記のこの啓示の光は、人間が「善悪」を決める根本になりますから、この「光」は価値観の創造を表わすものです。
 ヨハネ福音書では、「光」と「命」はイエスの霊性を表わします。創世記と同じく、ここでも「光」は「啓示の光」です。イエスは「わたしは世の光である」(8章12節)と言われ、9章では、盲人の目が開かれて光が与えられます。ここ4節では、その「光」が「命」と結びついています。「光を見る」ことは、命の誕生を表す人類共通の表象で、旧約聖書にも、「わたしの足を救い、命の光の中に神のみ前を歩かせてくださる」(詩編56篇14節)とあり、旧約続編の知恵の書(7章26節)にも「知恵(ソフィア)は永遠の光の反映、神の働きを映す曇りのない鏡、神の善の姿である」とあり、さらに「光の後には夜がくる。しかし、知恵が悪に打ち負かされることはない」(知恵の書7章30節)とあって、この「知恵の光」が、ヨハネ福音書1章の4節と5節に反映しているのが分かります。ヨハネ福音書のロゴスにもソフィアの性質が受け継がれているのです。
[5]【暗闇の中で】先に「万物は彼によって成った。彼によらずに成ったものは何一つなかった」とあり、「この命は人間を照らす光であった」とありますから、ロゴスによって成ったものすべてには、命と光が宿っています。特にここだけ「輝いている」と現在形になっているのが注目されます。「暗闇の中で」とある闇は、ロゴスによる創造以前に存在していた闇、あるいは、ロゴスであるイエス・キリストの啓示の「外側に」広がる闇という意味でしょうか。5節の「暗闇」は、先に述べたように、創世記の「闇が深淵の面にあった」を踏まえています。創世記の暗闇は、創造が始まる以前の状態ですから、必ずしも神の創造の働きと「対立する」闇ではありません。そこに神の光が差し込むことで、昼と夜の秩序が生まれます。ところが、昼と夜、大空の上の水と下の水(海は混沌の象徴)とを分けたときには、神は「良い」とは言わないのです。だから「夜」は祝福されないと解釈する説もありますが、どうやら、この二つの場合は、善悪の価値判断が行われないようです。創世記の「闇」には、善と悪とにはっきりと分離できない混沌状態があるのでしょう。ちなみに、このような物事の始まりを表わす「闇」は、日本では「玄黒」と呼ばれる黒色で表わされます。
【理解しなかった】新共同訳で「理解」と訳されている原語は「把握する・打ち勝つ・優る」という意味にもなります。だから、闇の中にいる者は、光を「理解できなかった」と解釈することもできますが、闇が光より優勢になって、光を「覆い尽くすことは決してない」という意味にもなります。NRSVでは「打ち負かす・圧倒する」("overcome")という意味に、REBは「支配する」("master")の意味にとっています。イエスは「世の光」ですから、このイエスに従う者は、闇に「追いつかれる」ことは決してないのです(12章35節)。私訳の「とらえる」は、「理解する」と「覆う/勝つ」の両方を含みます。
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