9章 み言の証人
1章6〜8節
■1章
6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
7彼は証しするために来た。光について証しするため、また、すべての人が彼によって信じるためである。
8彼は光ではなく、光について証しするために来た。
■洗礼者とヨハネ共同体
洗礼者は「バプテスマのヨハネ」とも呼ばれていて、イエス様に洗礼を授けた人です。だから、言わばイエス様の先駆者とも言うべき人です。洗礼者が授けていた水の洗礼が、彼の大事な使命であったのは確かですが、その洗礼は、イエス様に降る聖霊を証しするためであったと証しされています(1章33節)。洗礼者は、当時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに捕らえられて殉教します(マタイ14章1〜12節)。その結果、イエス様の復活以後にイエス様をメシアと信じる教会が成立すると、洗礼者の弟子たちからキリストの教会へ加わる人たちがでるようになり、ヨハネ共同体にも洗礼者の弟子たちがかなり加わったと思われます(1章35〜37節参照)。ヨハネ福音書には、洗礼者宗団とヨハネ共同体とのこのような関係が反映しているのです。
共観福音書では、イエス様の福音活動に先だって洗礼者の働きが語られますから、ヨハネ福音書も(おそらくマルコ福音書にならって)洗礼者をここ6節に登場させています。共観福音書では、洗礼者とイエス様とは「知恵の正しさ」(マタイ11章18〜19節)で結ばれていますが、同時に、洗礼者の浄めの洗礼とイエス様の聖霊にある神の国は、内容的にも時期的にもはっきり区別されています(マタイ11章13節/ルカ7章28節)。
ところが、ヨハネ福音書では、洗礼者の活動とイエス様のそれとが重なり合うのです(3章22〜30節/4章1〜3節)。洗礼者とイエス様だけでなく、両者の弟子たちも絡んできます。ヨハネ共同体は、後に当時のアジア州のエフェソに移住したと推定されますが、エフェソを中心とするアジアにも洗礼者の弟子たちがかなりいたと思われます(使徒言行録19章1〜7節)。
■み言の証人
神からのロゴスは、それがなんであるかを知ると同時に、それがどのようにして人々に到達するのかを知ることも大切です。み言の出来事が「人に向かって」語られる時、それは特定の人間が発する「声」となります。わたしたちはこの声を、まず「荒れ野で叫ぶ者の声」(1章23節)として洗礼者から聞くのです。
み言は「人間の言葉で」伝えられますが、伝える人は「神から遣わされた人」(1章6節)です。「神から遣わされる」とは、宇宙の創り主からの働きかけによって初めてできることですから、人の想いを超える役目です。このような役目は、不完全な人間の言葉には堪えられません。ところが、この不完全さにこそ「神の恵み」が潜んでいる。わたしたちはこのことに気づかされます。雷が発する稲妻の電光は、強すぎてわたしたちには役立ちません。けれども、それが「適度に弱められた」電力となるときに、初めて人間が用いることのできる「恩恵」に変じます。このように、神の啓示は、人間を通して人間の言葉で語られるときに初めて、人間にとって「恵み」となって伝わります。だから「恵み」とは不完全なこと、人間の「身の丈にあっている」ことなのです。
■光の証人
光の証人とは、直(じか)に光を見る人のことではありません。彼は光に「ついて」証しする人ですから、その光の「周りを巡る」人のことです。だから、「光を証しする」とは、「光」と自分を一体化することではありません。人は太陽を指し示すことはできますが、太陽を「直に目で見る」よう教えることはできないのです。神の霊言が心に燃えると、その人は、旧約の預言者たちのように、あるいはパウロのように、み言を証しせずにいられなくなります(第一コリント9章16節)。洗礼者もこのような証人です。
洗礼者の声と言葉を通じて「すべての人がみ言を信じる」ためですから、聴いている一人一人に神のみ言が働いて、「救いの出来事」が起こること、これが光の証人の業です。そういう人は「神から遣わされなければ」決して生じませんから、彼の出現それ自体もまた神による「出来事」なのです。6節に「一人の人が生起/出現した」とあるのはこのことです。
洗礼者はみ言であるイエス様を証しします。その証しを聞いた福音書の作者もまた、み言であるイエス様から啓示を受けるという不思議が生じるのです〔バルト『ヨハネ福音書』〕。ヨハネ福音書の記者が、地上のイエス様を栄光のキリストとして描くことができたのは、彼自身にもみ言の働きかけが生起したからです。こう考えると、ここでヨハネ福音書の作者が証言したいことは、洗礼者のことだけでなく、第二、第三の洗礼者が現れて、洗礼者のように「光の証人」になることでしょう。
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