【注釈】
 1章6~8節は、み言を証しするために遣わされた洗礼者について語っていますが、6節は内容的に15節へつながります。その上で、序の言葉全体の洗礼者の部分(6~8節/15節)は、1章19節以下へつながります。先に触れたように、ロゴス賛歌と洗礼者の部分と、どちらが先か意見が分かれますが、現在では、ロゴス賛歌のほうが先にあって、洗礼者に関する部分は、これに後から挿入されたという見方のほうに傾いています(7章の「洗礼者に関する部分」を参照)。マルコ福音書は洗礼者の言葉で始まりますから、今回の6節は、ヨハネ共同体が、マルコ福音書を生みだした教会と何らかの接触があったことを示すものでしょう。ヨハネ共同体は、マルコ福音書の「歴史的な語りの枠」を採り入れることで、永遠的なロゴスを歴史化させるのです。
■1章
[6]【一人の人がいた】「一人の人がいた」とある「いた」は、1章初めの「(彼によって)成った」と同じ原語で「出現した」ことです。だから、洗礼者の出現もひとつの「出来事」です。1~5節までは、「み言があった」「彼は神と共にいた」のように、永続する状態が語られ、「光は闇の中に輝いている」のように現在形でも語られます。これに対して6節では、歴史のある一点に「現われた」特定の人物として洗礼者が登場します。創造の初めから存在し、創造の初起動となり、今も働き続けるロゴスが、永遠の存在であるだけでなく、具体的な歴史の場へ入り込んできたこと、これが、ここでの洗礼者の登場によって初めて、明確に証しされるのです。
【神から遣わされた】「神から遣わされた」は、洗礼者自身の言葉に基づいています。洗礼者は、マラキ書3章1節の預言と自分とを結びつけて、みずからを「神から遣わされた」者だと自覚したのです。「遣わされる」のは人間の意欲や信念から出たことではなく、神の働きかけがあって初めて、その出来事が生じたという意味です。モーセの場合も(出エジプト3章)イザヤの場合も(イザヤ6章)も同じです。
【その名はヨハネ】ここで福音書の記者は、イエスに洗礼を授けた特定の証人として、洗礼者を「ヨハネ」と名指しします。この人とイエスとの関係については、まだ分からないことが多いのですが、二人が霊的にも実際の活動においてもつながりがあったのは確かです。ヨハネ共同体は、洗礼者宗団とかかわりがあったと考えられますから、洗礼者とイエスとの関係をめぐって、洗礼者宗団の内部でも、ヨハネ共同体の中でも、いろいろな議論が出たと思われます。
 ヨハネ福音書の作者が、他の福音書記者のように「バプテスマのヨハネ」とは言わず、ただ「その名はヨハネ」とだけ告げるのは、福音書の著者ヨハネ、あるいはその同名の弟子が、自分の名とこの証人の名とをここで重ねているからだという説があります。ヨハネ福音書の作者は、自分も洗礼者と同じ証人として書いているのでしょうか。だとすれば、ここで言う「一人の人」は、洗礼者であると同時に、彼と共に証しを書いている「自分」をも示唆するのです。
[7]【証しをするために】洗礼者は洗礼のためでなく「証しする」ために来たのです。「証し(する)」(動詞と名詞)は、ヨハネ福音書では重要な意味を持ちます(1章15節/同19節/同32節/3章26節)。この言い方は共観福音書ではまれですが(2~3回ずつ)、ヨハネ福音書では30回ほどでてきます〔新共同訳〕。「地上のイエス」が同時に「栄光のキリスト」として描かれますから、洗礼者の登場は、永遠の命である神のロゴスを地上の特定の人と結びつけ、そうすることで、栄光のイエス・キリストを地上の出来事として理解する、「そのため」の証人だからです。洗礼者の証しがあって初めて、イエスが栄光のキリストであることを「すべての人が信じる」ことが可能になるのです。ここで、「すべて」が、今までの「万物」から「万人」に移行します。ヨハネ福音書の作者が「証しする」と言うのは、このように、自分を洗礼者に重ねることで、自分も彼と共に証しすることで、「すべての人が信じる」ためでしょう。
【光について証しを】洗礼者自身は「光」、すなわち「啓示のみ言」ではありません。彼はどこまでもみ言を人々に証しする存在にすぎません。み言が永遠の光であるのなら、洗礼者は「燃えて輝くともし火」(5章35節)です。「ついて」とあるギリシア語の前置詞「ペリ」は、「周囲を巡る/歩きまわる」の意味です(英語の?"about"「ついて/まわり/およそ」に近い)。だから、人間である洗礼者が「光そのもの」を直接知ることはできませんが、これを「周辺的に」知ることで証しするのです〔バルト『ヨハネによる福音書』〕。ただし「この段階」では、洗礼者は、共観福音書のように直接ナザレのイエスについてではなく、ロゴスの啓示の光を証しすることになります。共観福音書とのこの違いは、ここでの洗礼者が、ヨハネ福音書の作者自身(ヨハネ)とも重なり合うところから生じているのでしょう。
【すべての人が信じるため】この「~ため」は、直前の「光について証しするため」にかかりますから、これが証しの目的です。「信じる」という動詞は、共観福音書では、それぞれ10~15回ほどですが、ヨハネ福音書には80回ほどでてきます〔新共同訳〕。ところが「信仰」という名詞は、共観福音書では用いられますが、ヨハネ系の文書では、第一ヨハネの手紙5章4節のみです。「すべての人が信じるため」とありますから、み言は「すべての人」に開かれています。歴史的に一回限りの出来事として啓示されたみ言の光は「すべての人」を照らします。この「すべて」は、この出来事にかかわる同時代の人たちだけではなく、その出来事の前の時代もその後のわたしたちの時代をも含むのです。洗礼者の時代に起こったことが、ヨハネ福音書の読者たちにも起こり、彼らに起こった事は「すべての人に起こる!」これが6~9節の意味です。
[8]【彼は光ではなく】み言は、光となって「世に来てすべての人を照らす」(9節)のですから、照らすためには、み言がこの世に「入り込んで来る」ことが必要です。確かに、神のみ言がこの世に入り込むという出来事は、洗礼者の時代に起こったことですが、そこに啓示された光は、あらゆる時代のあらゆる人々を照らすと証言するのです。「彼(洗礼者)は光それ自体ではない」とあるのは、ヨハネ共同体の説くイエス・キリストのほうが、洗礼者に優ることを指します。おそらくヨハネ共同体と洗礼者宗団との間で、イエスと洗礼者との優劣をめぐって論争が生じていたのでしょう。この問題への答えが、初めてここに出てきます。
 ところで、歴史的な出来事としての洗礼者の出現が、同時に、人類全体に向けられた神のみ言の証人と重なることで、洗礼者が、言わば彼以後に現われるみ言の証人すべての先駆けになること、ここに、ヨハネ福音書に表われる「時の二重性」という独特の語り方を見ることができます。文献的な視点から見るならば、この二重性は、ほんらいはロゴスの普遍的な存在を賛美する歌が、洗礼者という特定の人物と重ね合わされることによって生じていることになります。
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