【注釈】
■ペトロへの弟子復権
 今回の箇所で最も目につくのは、「わたしの羊を飼いなさい」とあって、イエスの伝えた御国の共同体を「指導する」ようペトロに司牧命令が出されていることです。このような司牧命令は、マタイ16章16~19節でイエスがペトロに「天国の鍵を授ける」場面にもでてきます。そこは、フィリポ・カイサリアで、ペトロがイエスを「メシア」だと告白する重要な場面ですが、今回の21章の司牧命令も、ほんらいは、イエス在世当時の「この出来事」から由来していると見ることができます。だから、伝承的に見れば、今回の場面もマタイ福音書の同じ場所へさかのぼるという見方があります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。ただし、ヨハネ福音書では、この命令が、イエスの復活以後に行なわれている点がマタイ福音書との大きな違いです。イエス復活以後に出された命令では、マタイ28章18~20節/ルカ24章45~48節/使徒言行録1章8節がありますが、これらは教会を「指導する」よりも、福音を宣べ伝えるための宣教命令です。これに対して、ヨハネ福音書では、ペトロへの司牧命令が、イエス復活以後に出されているのがその特徴です。
 今回の箇所で、イエスが、「わたしを愛するか?」と三度尋ねていることから、これをペトロの三度の否認と関連づける解釈が古くから行なわれてきました。ヨハネ福音書の読者は、否認の出来事を熟知していたと思われますから、今回の箇所を読む者が、これをペトロの否認と結びつけるのはごく自然でしょう。ペトロの否認をそれほど意識して書かれているとは思えないという見方もありますが〔ブルトマン前掲書〕、ここでイエスが、かつてイエスの弟子であることを否認したペトロを再度「弟子として」復権させているのは確かです。13章36~38節の否認予告の場面で、イエスはペトロに「<今は>あなたはわたしについてくることができないが、<後には>ついてくる」と告げているのも、今回の弟子への復権を指しています。「ついてくる」は、その人の弟子になることを意味するからです(1章39節)。なお、否認の場で、ペトロが「あなたのためなら命をも捨てます」と言い切っていることも、今回の箇所でのペトロへの殉教予告(21章18節)を予知させます。ペトロの決意は、結局その通りに成就することになります。このように、ここでは、ペトロの弟子復権が同時に彼への司牧命令と重ね合わされていることに注意してください。
 注目されるのは、ルカ5章4~10節の大漁の奇跡で、ペトロが、イエスに「わたしは罪深い者です」と告白していることです。そこでのペトロは、イエスの使徒にされますが、この告白は、ヨハネ21章の大漁の奇跡に続く今回の場面で、「悔い改めた」彼が、再びイエスの弟子と認められることに通じるものでしょう。なお、これにちなんで、18章18節の「カヤファの庭」での炭火と21章9節の炭火とを、裏切りと復権の「炭火」として対照させる見方もあります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
 ここでの作者の意図は、ペトロの弟子復権と、続く彼への使徒職の授与と、彼の殉教とを重視するというより、むしろ、ペトロを続く愛弟子の記事(21章20~23節)と関連させるほうにあるのではないでしょうか。21章の作者は、明らかに、ペトロの殉教と、それ以後もなお生き延びたイエスの愛弟子と、しかもその愛弟子も、今は召されていることを念頭に置きながら、二人を比較しっつ両者の関係を明らかにしようとしています。
ペトロへの司牧命令
 イエスは、ペトロに「自分の羊を飼う」ように命じています。「羊の牧者」は、伝統的にイスラエルの指導者を象徴します。イスラエルでは、ダビデ王が民を導く牧者の模範とされていますが(サムエル記下5章2節)、主自身こそ、イスラエルを導く牧者であり(イザヤ書40章11節)、したがって「主の遣わす牧者」は、イスラエルの主なる神の代理と見なされます(エレミヤ書1章17~19節)。ところが、民を養うはずの牧者たちが、民を顧みることをせず、己を養う強欲な「牧者」に転じたために、預言者たちから厳しい批判を受けることになります。民を護らず民を食い物にする牧者に対して、主なる神御自身が、その民を護り導くという預言がここから生じるのです(エゼキエル書34章11~16節)。
 強欲な「牧者たち」に向けられる批判は、イエスに受け継がれて、当時のイスラエルの指導者たちに厳しい批判が向けられます(マタイ23章1~36節)。今回のペトロへの司牧命令には、マルコ8章34節のイエスの言葉が背後にあります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。主に従うペトロは、ヨハネ10章10~14節の「羊のために自分の命を捨てる」牧者として、強欲な狼(偽の羊飼い)と対照されます。ところがで、今回のペトロへの司牧命令は、彼が「真の牧者」になるために、三度「わたしの羊を飼う」よう命じられます。注意してほしいのは、ペトロへの司牧命令が、彼がその資質を具えているとか、彼がその地位に「ふさわしい」からではなく、むしろ、彼が自らの否認を赦されることによって、弟子として認められたこと、すなわち、「己の弱さへの自覚」が、その司牧命令の根拠になっているとさえ思えることです。主の牧者には、このペトロのように、己の弱さを知る者こそふさわしい、ということでしょう。主に己の罪を赦されたことが、イエスを愛し、イエスが愛する羊を養う使命へつながり、ペトロをして殉教へ歩ませる力の源になったと言えます。
 したがって、今回の箇所をペトロが「ほかの弟子(使徒たち)よりも優位にある」と解釈するのは問題があります。ここでペトロに求められているのは、どこまでも「イエスを愛して、その羊を養う」ことであって、そのことが、直ちに、ペトロが他の弟子に優る権威を具えることだと受け取ることはできません。ペトロには他の弟子に優る権威が授与されていて、その権威は、ペトロの後継者によって受け継がれるという解釈がカトリック教会にあるようですが、今回の箇所は、このような解釈を正当化する根拠にはなりません〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。このようなローマ教皇への特権的な見方は、後の教会の歴史から生じたものですから、ここのペトロへの司牧命令をその直接のよりどころとすることはできません。
■21章
[15]【食事が終わると】原文は「彼らが食事を終えた時」。「彼ら」とある弟子たちのことは、ここから以後でてきません。12~13節の食事と15節以下とをつなぐための編集です。
【シモン・ペトロ】ペトロのヘブライ名は「シメオン」です。彼の父の名前は「ヨハネ」ですが、マタイ16章17節では「シモン・バルヨナ」(ヨナの息子〔バル〕であるシモン)ですから、父の名は「ヨナ」になります。今回の15節でも「ヨナの子シモン」という異読がありますが、これは後からマタイ福音書に合わせたものでしょう。
 シモンは、イエスによってアラム語の「ケファ」(ギリシア語「ペトロ」)と呼ばれました(マルコ3章16節)。「シモン・ペトロ」という呼び方は、共観福音書ではマタイ16章16節とルカ5章8節にでてくるだけです(ヨハネ福音書の呼び方と同じく古い伝承から来ている)。これに対して、ヨハネ福音書では、1章40節/42節に始まり16回と圧倒的に多数です。ペトロの以前のヘブライ名と併記することで、他の弟子たち、特に愛弟子と彼とを対等に見ようとしているのでしょう〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
【この人たち以上に】原文は「これら以上に」です。「これら」をペトロの職業や家族のことだと見て「それらのこと以上にイエスを愛するか」という解釈や、「これら」を他の弟子たちのことだと見て、「彼らを愛する以上にイエスを愛するか」という解釈もありますが、ここでは、「他の弟子たちがイエスを愛する以上に、あなたはイエスを愛するか?」の意味に採るのが自然でしょう。
 この問いかけは、ペトロの否認が予告された時に、彼が「たとえほかの者が躓いても自分は躓かない」(マルコ14章29節)と自信のほどを見せたことに対する皮肉をこめた問いかけだという見方もあります。しかし、イエスの問いは、ペトロとほかの弟子たちとを比べる意図から出ているのではないでしょう。イエスのここの問いかけは、ペトロ一人だけでなく、間接的に他の弟子たちをも視野に入れた上で、「人一倍イエスを愛するか」と彼の覚悟を促していると見るほうが適切です〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
【あなたを愛する】「愛する」のギリシア語には「フィロー」と「アガポー」のふたとおりの動詞があります。「フィロー」は父子や友情のように人間的な愛を表わし、「アガポー」は、特に神と御子イエスが人間を愛することを指すというのが一般的な解釈です。しかし今回の箇所では、イエスの問いとペトロの答えが「あなたはアガポーするか?」「あなたをフィローします」(15節/16節)と「あなたはフィローするか?」「あなたをフィローします」(17節)となっているので、ここでの二つの動詞は、同じ内容を表わすというのが教父たち以来の解釈です。
【小羊を飼う】「小羊」の原語は「アルニオン」の複数形で、「飼う」の原語は「ボスコー」(家畜を食べさせる/飼う)です。「アルニオン」は小さな羊のことです(この語はヨハネ福音書でここだけですが、ヨハネ黙示録には27回もでてきます)。だから、15節は「アルニオンをボスコーする」ことです。これに対して16節では「プロバトン」(羊)の複数形を「ポイマイノー」(牧養する)とあり、17節では「プロバトン」を「ボスコー」するです。「アルニオン」(小羊)と「プロバトン」(羊)とは違っていますが、ここ16節の「プロバトン」の複数形には、「プロバティオン」の複数形の異読があります。「プロバティオン」は「アルニオン」に近く、比較的小さな羊を指しますから、結局「アルニオン(小羊)/プロバティオン(小さな羊)/プロバトン(羊)」の間にそれほど違いはないでしょう。また「ボスコー」(飼う)と「ポイマイノー」(牧養する)では、「ポイマイノー」のほうがより広い意味で羊の群れを牧すること養うこと(したがって指導すること)を指しますが、今回の箇所では、両者の間に大きな違いがないと考えられます。
[16]【二度目に】原文は「再び二度目に」です。「再び」と「二度目」は同じことの繰り返しのようですが、特に強めるための言い方です。「繰り返すように二度」と言うくらいの意味でしょう。これに対するペトロの答え「あなたはご存知です」は、イエスが人の心を見抜くことをペトロが知っているからです。だから、ペトロが言うのは、「ほかの弟子たちに比べて」自分のほうがイエスをより愛しているという意味ではありません。
[17]【三度目も】先の二度目には冠詞がありませんが「三度目」には冠詞が付いています。「三度までも」"this third time"の意味でしょう。しかも、今度はイエスもペトロと同じ「フィロー」を用いて「愛するか?」と尋ねていますから、ペトロにとって相当にショックであったと思われます。答えるペトロも「あなたのほうこそ(ご存知です)」と「あなた」を強めています。これは、ペトロへの司牧権が、彼の人間的な徳によるものではなく、どこまでも、主イエスからの「弱い」ペトロへの恵みから出ていることを明らかにするためです。ただし、このようなイエスの洞察は、復活以後のことに限られるのではなく、すでに在世中でも、イエスは人の心を見抜いています(2章25節/4章39節)。なお「わたしの羊たち」(「プロバトン」の複数形)とあるのを「わたしの小さな羊たち」(「プロバティオン」の複数形)とする異読があります。
[18]15~17節は、18~19節と20節以下を引き立てるための演出的な効果をねらうものだという見方があります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。これは、ペトロの殉教と、続く愛弟子の指導的な権威とを強調することこそ作者の意図だと見なすからです。しかしこの見方は、15~17節のペトロへの司牧命令の重要性を軽く見過ぎています。
【若いときは】この節の前半の「若いとき・・・・・」は、ほんらい諺であって、「若者は自分で帯を締めて行きたい所へ行くが、体の自由がきかない年寄りは、人に帯を締めてもらって連れて行かれる」という意味だったようです。しかし、今回は、この諺が、「アーメン、アーメン」で始まるペトロに対する預言へ変容しています。この預言では、「若い」と「老いる」/「自分で締める」と「人に締められる(縛られる)」/「自分で行く」と「人に連れて行かれる」/「行きたい所」と「行きたくない所」/これら四つが対照されていて、明らかに、ペトロの死、しかも殉教の死について語られています。復活したイエスの口を通じて告げられるヨハネ共同体の事後預言(出来事が生じた後に預言として語られること)です。
【両手を伸ばして】「両手を伸ばす」がほんらいどのような意味なのかはっきりしませんが、ペトロの殉教と関連づけるなら、十字架される状態を指すと見ることができます。殉教者ユスティノス、エイレナイオス、キプリアヌスなどの教父たちは、「両手を伸ばす」を十字架刑と関連づけています〔Bernard. St. John. (2). ICC. 709.〕。19節に「ペトロがどのような死に方をする」とあるのもこのことを裏付けます。そうだとすれば、共観福音書にはペトロの殉教に関する記事がありませんから、ヨハネ福音書のこの箇所は、彼の殉教に触れた最初の記事になります。ペトロの殉教については、ローマのクレメンス(30年頃~101年頃)が『クレメンスの第一の手紙』で証言し、テルトゥリアヌス(160年頃~220年以後)も証言しています〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。しかし、彼が逆さまに十字架にかけられたことを最初に伝えているのは『ペトロ行伝』(2世紀末)で、その38章に、ペトロは処刑の役人に「頭を下にして、それ以外の仕方で(処刑を)しないように頼んだ」とあります〔『聖書外典偽典』(7)新約外典Ⅱ〕。なおエウセビオスの『教会史』(第三巻)(4世紀初頭)の冒頭にも「ペトロスは・・・・・最後にはローマに来て、十字架にさかさまにかけられた。彼がそのような仕方で受難を要求したからである」とあります〔エウセビオス『教会史』(1)秦剛平訳。山本書店〕。
[19]【どのような死に方】「どのような死で神を崇める(栄光を現わす)か指し示す」という言い方は、イエスの十字架の死を現わす言い方です(12章33節/18章32節)。ここは、ペトロの死をイエスの死と重ねているのです。イエスは、ペトロの裏切りを予告したように(13章38節)、ここでペトロの殉教を予告するのです。
【わたしに従う】続く20節から判断すると、イエスがペトロと共に歩いていて、愛弟子がその後をついていく様子がうかがえます。だとすれば、「ついてくる/従う」は、辞義通りに「ついていく」ことですが、言うまでもなく、ここに「(イエスの)弟子になる」「(イエスを)信じる」という意味がこめられています。なお、1章37~38節と比較してください。
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