24章 ガリラヤでの伝道開始
マタイ4章12〜17節/マルコ1章14〜15節/
ルカ4章14〜15節
【聖句】
マタイ4章
12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
15「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
16暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
マルコ1章
14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
ルカ4章
14イエスは”霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。
その評判が周りの地方一帯に広まった。
15イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
【講話】
■異邦人のガリラヤ
今回のマタイ福音書の中に、イザヤ書からの引用があり、そこに「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」とあります。イエス様がガリラヤに現われたので、ガリラヤに住む人たち全体に「光が射し込む」という意味です。「異邦人」とある原語は「諸民族」です。ガリラヤのことは【注釈】に譲りますが、ガリラヤには、ユダヤ人のほかにもいろいろな民族がいました。宗教的に見ると、エルサレムのユダヤ教を信じる人たちもいましたが、大多数は、これとは少し異なるガリラヤ的なユダヤ教によって生活するユダヤ人でした。また彼ら以外の異教の民も住んでいました。だからマタイが引用したイザヤの「光が昇った」は、これらの人たちそれぞれに、違う響きを帯びて聞こえたと思います。「とうとうメシアがお出でになったのか」と思うユダヤ人(イエスをキリスト信じる人たち)もいたでしょう。ユダヤ人だけでなく異邦人にも救いが与えられる時が来たと思う人たちもいたでしょう。しかしユダヤ人の中には、このイザヤ預言の成就を聞いて、素直に喜べない人たちもいたと思います。自分たちこそ神の民であり、自分たちには神の言葉という神様からの光がすでに与えられていると思い込んでいたからです。自分たちは、異教の諸民族に優る民であると信じていたからです。だからイエス様が、ユダヤ人たちに「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われると、ユダヤ教の指導者たちは、イエス様に対して批判的になり反発したのです。「われわれこそ異邦人への光ではないか。」こう彼らは思い込んでいたのです。ガリラヤにはユダヤ人と異邦人とが混じりあって住んでいました。だからマタイは、様々な意味をこめて、これらの人たちに聖書の預言を語ったのです。
このように見ますと、「異邦人のガリラヤに光が射した」という御言葉は、今まで神も聖書も知らなかった異教の人たちのためにイエス様がガリラヤへ来られたと解釈することもできたのです。聖書の御言葉を解釈するのは、こういうところが難しいです。イエス・キリストは、ユダヤ人を救うためではなく、ユダヤ人以外の世界の民を救うためにお出でになった。こう信じている人たちが現在でも大勢います。これにユダヤ教の律法の問題が絡んでくるといっそう難しくなります。ユダヤ人は「律法の民」だけれども、イエス様は、律法ではなく福音を伝えるためにお出でになったのだから、律法の民は、神の恵みから落ちこぼれたのだ。このように考える人たちがいるかもしれません。おそらくこういう見方は、パウロやルカの文書の解釈から出ているのでしょう。しかし、パウロは決して反ユダヤ的ではありません。だから、この見方は、パウロを誤解しているところがあります。さらにこの誤解に、ユダヤ人はイエス様を十字架に付けた悪い民族だという偏見が重なりますと、ナチスのユダヤ人迫害と虐殺につながります。
イエス様が来られたのは、世界中の人のためであることは、ここにおられる方々はよく分かっていますから、今更言う必要がありません。けれども、イエス様の福音はユダヤ人のためでもあると言われると、皆さんはどう思うでしょうか? 実は、マタイの立場はこれに近いのです。インターネットで見ると、ユダヤ人でユダヤ教の律法を守りながら、イエス様をメシアだと信じている人たちがいるのが分かります。逆にイギリスのクリスチャンたちで、「ヘブライのルーツに戻る運動」をしている人たちは、キリスト教の福音をもう一度ヘブライの律法から見直そうとしています。わたしたちは旧約聖書の律法を軽んじてはいけないのです。モーセの十戒は、イエス様の福音と関係がないなどと思うのは、とんでもない誤解です。ユダヤ人の律法か? それともキリスト教の恵みか? こういう二者択一を克服しなければならない時が来ているのです。これこそ、ここでマタイが引用しているイザヤ書の御言葉が、現在のわたしたちに問いかけている問題です。
■神の国は近づいた
イエス様の伝道は「神の国は近づいた」で始まります。ここで「国」というのは「王国」という意味で、英語の“kingdom”です。「王国」は王様の支配する領域のことですから、この世の国に対して、外から神様の王国が「侵入」してきたという意味になるでしょうか。でもこれは「侵略」ではありません。この王国は、人間の側から始めたのではなくて、神様のほうで始められたという意味です。神様が始められた御業ですから、「神の国」あるいは「御国」なのです。では、神様はどのように神の国を開始されたのでしょう? イエス・キリストをお遣わしになることによってです。ヨハネ福音書には、人々がイエス様を王様にしようとしたとあります。しかし、神様は、イエス・キリストを地上の権力者にして支配させるのではありません。イエス・キリストを通じて、神様の御霊が働くのです。この御霊の働きによってこの地上を支配しようとしておられるのです。ですから神の「御国」とは神の御霊の国、「霊の国」です。聖霊によってイエス様がマリアさんに宿られてから、御霊によって始まり、御霊の力によって広がり、御霊によって導かれていく。これが神の国なのです。
ここでは、神の国が「近づいた」とあります。この「近づいた」という言い方は、少し分かりにくいのですが、ギリシア語よりもヘブライ語の考え方で読むと、「すでに始まっている」、あるいは「すでに来ている」という意味になります。近づいているのに、すでに始まっているというのは、どういうことだろう? 皆さんはこう思うかもしれませんが、御霊にあっては、すでに始まっているのです。ただしこの御国は、まだ完成してはいません。すでに始まっていながら、まだ完成していない。これが地上における神様の御霊の特長です。こういう状態のことを「終末的」と言います。だから「終末」というのは、未来に訪れる終わりのこととは少し意味が違います。現在すでに始まっているけれども未完成である、今もなお御霊は働き続けている、こういう意味です。これはとても大事です。なぜなら、神様が始められた御国の働きは、終末を目指すからです。マルコとルカが「神の王国」と言っているのに、マタイだけが「天の王国」という言い方をしていますから、マタイは、神様の国はまだ成就していない、それはまだ天にあると言おうしているように聞こえます。このことは、神様の御霊の働きは、常に将来に向かって「開かれている」状態を指すのです。これがとても大事なのです。
なぜかと言いますと、将来に開かれている状態の反対は、現在の状態に満足すること、今の状態だけを守ろうとする生き方につながるからです。たとえどんなに立派な信仰の人でも、自分はもうこれでいいんだ。こう思ったら、そこで神の国はストップするのです。これ以上変わることを拒否するなら、御霊の働きは要らなくなります。ルカ福音書でイエス様は、「今」笑っている人、「今」飽き足りている人、こういう人たちは災いだとあるのはこの意味です。なぜこういう人たちが「災い」なのでしょう? 彼らは、今自分たちが置かれている状態を脅かすものをとても恐れるからです。世の中を変えようとする新しい動きをことごとく嫌うからです。
こういう人たちは、自分の現在の地位を脅かす力が働くと、その働きを押さえつけようとします。弾圧しようとします。その結果、神様の御霊の働きに与る人たちを虐げたり迫害したりするのです。個人の場合も、社会の場合も、国家の場合も、現在でも、このようなことが行なわれています。過去にしがみつくこと、これを「守旧」と言います。ただし、過去の伝統を活かしながら、そこから新しいものを生み出していくことは「守旧」ではありません。そういう「保守」はいいです。しかし守旧する人は、御霊の働きを妨げようとするのです。神様の御霊を通して働いている御国は、近づいてはいるけれども、まだ終わってはいません。完成してはいません。だから、たとえキリスト教という名前のもとであろうとも、あるいは御霊の働きという名前のもとであろうとも、将来に向かって創造していく働きを妨げることは、御霊の働きに逆らうことなのです。このことを「神の国は近づいている」という御言葉からしっかりと読み取ってください。