26章 四人の召命
マルコ1章16〜20節/マタイ4章18〜22節
ルカ5章1〜11節
【聖句】
マルコ1章
16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
18二人はすぐに網を捨てて従った。
19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

マタイ4章
18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
20二人はすぐに網を捨てて従った。
21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。
22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

ルカ5章
1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
10シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

【注釈】

【講話】

■イエス様現象の復活
 今回は、召命物語です。これを最も詳しく語っているのがルカ福音書です。ルカ福音書は、マルコ福音書やマタイ福音書にはない奇跡の大漁の話を織り込んでいます。でも、ルカ福音書の復活物語には、マルコ福音書もマタイ福音書も含まれていますから、この問題をルカ福音書を中心にしてお話します。マタイ=マルコ福音書には今回の召命の場面に大漁の話はでてきません。それがでてくるのは、ヨハネ21章です。ヨハネ福音書ではそこが、復活のイエス様がペトロやほかの弟子たちに姿を顕される場面になっています。ですから、今回ルカ福音書にでてくる魚ではち切れそうな網は、ヨハネ20章8節の網とつながります。この大漁の物語は、本来イエス様の復活物語として語られていたのです。ですから、ここでルカは、復活したイエス様の姿を舟の上のイエス様に重ねていると言ってもいいでしょう。
 皆さんは、イエス様の福音は、イエス様が十字架の死後に復活されて御霊となって降られた。こう思っているかもしれません。それで間違いありません。でも、復活したのは、十字架につけられた時のイエス様のお体だけではありません。復活したのは、イエス様がパレスチナで行なわれたすべての御業、そこで語られたすべての御言葉、<イエス様の出来事全体>です、これが復活したのです。これが「イエス様現象」です。だから、このイエス様現象は今でも続いています。これが御霊にあるイエス様の福音です。ルカはこの召命の前に、イエス様がナザレで説教をした記事を置いています。そこでは、「主の御霊が注がれた」とあります。神の御霊がイエス様に注がれ、イエス様の御霊が弟子たちに注がれるのです。だから、わたしたちも、弟子たちと一緒になって、イエス様と共に旅をするのです。
 でもわたしたちより先に、今回でてくる4人が先ずイエス様に従いました。この4人が最初の弟子たちです。それからずーっと2000年間続いて、とうとうわたしたちの番になったわけです。マタイ福音書やルカ福音書は、ペトロやその他の使徒たちのことを教会の始祖として大事に描いています。だから、カトリックでもプロテスタントでも、ロシア正教でも無教会でも、イエス様の福音を語る信仰なら、わたしはどれも大切に考えています。キリスト教の教会の伝統を無視してはなりません。わたしの注釈を読んでいただければ、このことが分かっていただけると思います。長いキリスト教の歴史には、失敗もあり、誤りもあり、堕落もあります。でもそれらの経験を含めて、キリスト教会の歴史をわたしは大事にしています。
■神の御言葉への召命
 次に舟を浮かべて岸辺にいる群衆に説教しているイエス様の姿は、なにを思い出させるでしょうか? この情景はマルコ4章1節以下にあります。マルコ福音書のイエス様は、群衆に種蒔きのたとえを語っています。ルカはその情景を借りてきて、マルコ福音書のその場面をここに置いたのです。ですから、ここでもイエス様が、神の御言葉の種を人々に蒔いているのが分かります。ルカ5章1節には、人々が「神の御言葉」を聞こうとしてイエス様の所に集まったとあります。イエス様は「神の御言葉」を伝えるために来られたのです。後には、この役目を使徒たちが引き継ぎます(使徒言行録4章31節)。「神の御言葉」とは聖書のことです。同時に「神の御言葉」とは、イエス様その方のことです。御言葉を伝えるとは、<イエス様を伝える>ことです。これが「宣べ伝える」こと、すなわち「伝道する」ことです。これをするのが「召命」の目的です。
 では弟子たちの召命は、どのようにして始まったでしょうか? 先ずイエス様が弟子たちに目をお留めになった。それからイエス様が歩み寄って来られて、「後からついておいで」とひと言だけ言われた。だから召命とは、<イエス様の後についていく>ことです。始めから終わりまでイエス様に導かれることです。マタイに言わせるとイエス様に「従う」ことです。だから召命は、特別の人にだけ与えられるものではありません。信仰を持ったクリスチャンならだれにでも当てはまります。学識や経験は関係ありません。これが大事な点です。
■網を降ろす
 ガリラヤでの漁は、通常昼ではなく夜に行ないます。ところがイエス様は「網を降ろしなさい」と言われた。このイエス様の命令は常識はずれです。でも彼らはイエス様の言うとおりにしました。皆さんは召命を受けたらどうしますか? 「自分にはできません」「自分はダメです」「まだ早いです」「もう遅いです」「しんどいです」などと、いろんな言い訳をしませんか? モーセも同じことをしました。でもペトロはここでそうはしませんでした。「しない」言い訳は100ありますが、「する」決心はひとつです。彼は「お言葉ですから」やりましょうと言ったのです。自分の判断ではなく、「お言葉ですから」始めたのです。どうか皆さん、「お言葉ですが」とは言わないでください。「お言葉ですから」と言ってください。召命とはこういうものです。考えたり迷ったりしていると時を逃します。決心はすぐすることです。
 「先ず決心、道はそれから」です。この決心は、その人の生活を変えます。家庭でも仕事場でも、生活態度に変化をもたらします。どのように変わるのでしょうか? 「すべてを捨てて、従った」とあるようにです。そうです。「すべてを捨てた」のです。すべてを捨てるのは、ひとつを選ぶためです。それまでは、家庭がうまくいかないと、悩んだり苦しんだりしました。仕事のことで、仲間や同僚を比べ合ったり、競争したりしました。いろんなことが心配になりました。ところが、召命を受け入れたら、後は「イエス様についていく」だけでいいのです。そうすれば、イエス様がちゃんと導いてくださいます。競争も妬みも心配も、「ない」と言えば嘘になります。けれども、いろんなことがあっても、それに「振り回されない」のです。「すること」がほかにありますから。どうか、イエス様の召命に「はい」と言って従ってください。何もかも捨てて、イエス様に従ってください。そうすれば、家庭も仕事も健康もお金も、何もかもイエス様がちゃんとみてくださいます。特別なクリスチャンになれと言っているのではありません。「クリスチャン」とはそういうものです。すべてを捨ててキリストに従う者のことです。「信じる」とはそういうことです。
■罪深い者
 次にペトロはこう言っています。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と。ペトロがイエス様を否認した話は、クリスチャンならだれでも知っています。ルカの時代もそうでした。だからペトロは「わたしは罪深い」と言ったのでしょう。ところが、イエス様はわざわざシモンの船に乗られた。だから、イエス様がシモンの舟に乗られたのは偶然ではないのが分かります。それからイエス様は言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と。「召命」は正しい人、立派な人だけに与えられるのではありません。「罪赦された者」だからこそ初めてできることがあるのです。パウロもそうです。召命は、自分にはふさわしくないと思っている人、自分では義人ではないと思っている人、こういう人に与えられるのです。
 なぜなら、召命を受けた人にとって一番怖いこと、それは霊的傲慢に陥ることだからです。主に用いられると、人は傲慢に陥ります。いわゆる霊的傲慢です。人を自分に引きつけようとする、逆に言えば自分が人を支配しようとする。自分が何か偉い者のように思いこむ。これが一番怖い。「わたしは罪深い者です。どうかわたしから離れ去ってください。」ペトロが主のみ前にこう告白した時に、イエス様が「あなたを人を採る漁師にする」とおっしゃったのは、このためです。根底には十字架の罪の赦しがあります。これが初めであり、終わりです。初めに言いましたが、伝道とは特別な人だけのものではありません。イエス様を信じる人すべてができることです。伝道とは罪赦された者がすることですから。
■コイノニアの網
 さて今度は、網に注意しましょう。この網は、ペトロとヨハネとヤコブとアンデレの4人に握られています。4人は、網によってつながっています。まさにネット友だちです。わたしたちのコイノニア会もネットでつながっています。実は4人はすでにイエス様をよく知っています。だからルカは、この召命の前に、イエス様がペトロのしゅうとめを癒した出来事を置いているのです。4人はイエス様を、それも復活したイエス様を信じている仲間なのです。だから網は、イエス様を中心に形成される御霊の「交わり・コイノニア」を表わします。ルカ5章10節に「シモンの仲間」とありますが、これの原語が「コイノーニア」です。
  真ん中には復活されたイエス様がおられます。そのイエス様が御言葉の種を蒔いておられます。そして、御言葉を受け入れた人たちが交わりのコイノニアを形作っています。その人たちは、復活のイエス様の御言葉を受け入れた人たちです。その交わりの中から、イエス様は、御言葉を伝える人たちを召し出します。召し出された人たちは、その時から、新しい召命に生きることになります。信じる人たち、魚が増えてくると、一人ではどうにもならなくなります。だから一人用の網では間に合わない。幾人かで一緒に用いる網でないと間に合わないのです。だからコイノニアのみんなで、力を合わせ、呼吸を合わせて、網を引き揚げるのです。一人一人持ち場は異なります。でもみんなで一緒にやらないと網はうまく動かないのです。うっかりすると魚が逃げてしまいます。召命は全員です。全員が、それぞれが、自分のセットポジションで頑張っていれば、それを見て他の人が励まされます。
■霊的献身
 召命というのは、教会や教団の教えでは、職業を捨てることだと解釈されています。職業を辞めて神学校に入ることだと。しかし、わたしの場合はそうではありませんでした。一度はそれを志しましたが、わたしはそれができませんでした。そして職業に就きました。伝道への決心そのものが変わったのではありません。仕事に就いても就かなくても、家庭を持っても持たなくても、そういうことに関わりなく、イエス様の福音を伝えること、この一点だけは決してはずしませんでした。それなりに御霊は導いてくださいました。大事なのは心の献身です。霊的献身です。神学校に入るのは、それはそれで立派なことです。しかし、伝道のために、名誉も地位も業績も外から見えるものは何一つ求めないこと、「いっさいを捨てる」これが霊的な献身です。
 人はその導きに応じて、多種多様にそれぞれの歩み方があります。神学校に入る者あり入らない者あり、仕事を持って伝道する者あり、伝道に専身する者あり、教会堂を建てる者あり、建てない者あり、実に様々な形態があります。それでいいのです。それぞれあっていいのです。しかし、思いはひとつ、どこまでも主の導きに従う。これです。人の教えや人の考えや人のすること、教団の組織のためだとか、自分の業への誇りや名声や名誉のためだとか、いっさいを捨ててイエス様に従う。これが召命の道です。
目に見えないもの
 けれども、ここでルカ福音書が言いたいのは、模範的な犠牲の精神の持ち主になれということではありません。むしろ、それからはずれて、挫折した罪人のほうです。そういう人こそ、ほんとうの意味で、人々に自分の身に生じたことを証しできる人たちです。彼らは伝道することを「赦されている」人たちです。だから、その人たちの伝道には、自慢したり誇ったりするところは全くありません。主の恵み、主の憐れみによって活かされながら福音を伝えていくからです。伝道の形態はいろいろあっていいのです。結果はどうでもいいのです。ペトロの伝道がほんとうにそんなに大漁であったかどうかは疑問です。ペトロの手紙1章1節からは見ますと、最初期のペトロのグループは、それほど多くなかったと思われます。
 その結果が、人々に認められても、認められなくても、集まる人がわずかでも大勢でも、そんなことにこだわる必要はないのです。ただあるがまま、そのままで、御言葉に生きる。それだけです。御霊にあっては、この世の職業も伝道・牧会の仕事も、所詮は人間の仕業に過ぎません。大事なのは、罪の赦しを与える主の御言葉と御霊に生きることです。それがすべてです。「伝道」とは道を伝えることです。道を伝える者は、自分もその道を歩む者です。真理を伝える最も大事な道は、自分自身が、その真理に成ることです。いっさいをイエス様に委ねてください。あなたがいなくなった後でも、あなたのしたことが残るのかどうか? そんなこと考えなくてもいいんです。それもイエス様にお任せして、その時、その時を大事にしていく。この心がけです。信仰と希望と愛は、何時までも残る。こうパウロは言いました。何時までも残るものなら、目に見えないはずです。今見えているものは、いつかは滅びるからです。
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