【注釈】
■マルコ1章
 マルコは、イエスの伝道活動をいきなり悪霊追放で始めます。古来から悪霊追放の話しは、様々な地方で語られていますが、その具体的な例を描いているのは少なくて、マルコ福音書の悪霊追放の記事は、この意味でも際だっています。ここは最も古いイエスの悪霊追い出しの出来事を伝えていると言われています。悪霊追放(エクソシズム)の記事はマルコ福音書に四つあります(1章節27以下/5章1節以下/7章27節以下/9章14節以下)。彼は、悪霊追放をほかの癒しの出来事と区別しているのです。弟子たちの召命に続いて、安息日での会堂のイエスの教え、悪霊追放、ペトロのしゅうめの癒し、町や村への宣教と、マルコは、カファルナウムの数日に、イエスの伝道活動のすべてを盛り込んでいて、これに「みんな」「町中の人」「大勢の人」が参加します。かつてアメリカの神癒伝道の宣教師T・L・オズボーン師は「マルコは癒しの教科書だ」と言っていました。
[21]【会堂へ入って】原語ではこれに定冠詞があります。カファルナウムでの唯一の会堂だからでしょうか。一般的な会堂のことではなく、特定の出来事が起こった場として語りたいのです。この会堂の跡は、1838年頃から発掘されて、現在その全貌が明らかになっています。ただし建物自体は3世紀以降のものですが、もとの姿を偲ばせてくれます〔復元図参照〕。会堂は、カファルナウムの街の西のほうに位置していて、玄武岩でできています。会堂自体は縦20m、幅18.6mで2階建てです。その右側に、柱で囲った庭(幅11.2m)がついています。会堂の中は、コの字型に柱が並んで柱の外の回廊と中の座席とを分けています。床は、本堂にも庭にも石が敷いてあります。会堂の表には長方形の入り口が三つあり、正面の扉の上方には、浮き彫りの文様のある大きなアーチ型の飾りが置かれています。柱の柱頭はコリント式で、文様や会堂の中の柱廊の飾りもぶどうの蔓、なつめやし、鷲のような動物、獅子、花弁、花を手にしたキューピットなどです。なお四輪の車の文様があり、これは十戒(律法)を収める聖なる柩(ひつぎ)を象徴すると思われます。碑文はギリシア語とアラム語で刻まれています。この会堂は、イエスの時代でも立派なもので、カファルナウムの経済力を思わせ、また、様式から見てヘレニズム化しているのが分かります。現在の遺跡は、紀元3世紀のものですが、これが、イエスの時代の紀元1世紀の基礎の上に築かれていることが分かりました。1世紀のものは、積まれている土台の石が小さく不揃いで、建物も花崗岩の立派なものではなかったと思われますが、会堂の規模と基本的な構造は同じではなかったかと推定されます。
【律法学者】彼らも、もとは祭司階級に対抗する平信徒でした。しかし、律法に関する知識を身につけるにしたがって、次第に独自の聖書解釈の権威を帯びるようになったのです。ここでのルカのほうには「律法学者」は登場しません。マルコと違って、ユダヤ教の聖書解釈は、もはやルカとその教会にとって、脅威ではなくなっていたからでしょう。
[23]【汚れた霊に憑かれた男】「汚れた霊」というのは「聖霊」と対照された言い方です。マルコでは「汚れた霊」と「悪霊」とは同じに用いられています(3章22節/30節/7章25〜30節)。この点では、マタイも同様です。「悪霊」というのは特に「聖霊」と対照される言い方です。「汚れた霊/悪霊」の場合には、必ず「追い出す」が動詞として用いられます。マルコは「汚れた霊」を11回遣っていますが、ここと5章のゲラサの悪霊追放の記事に集中しています。しかし、マルコも(1章34節)ルカも(4章40〜41節)病気と悪霊とを区別しています。ただし、「汚れた霊」は、しばしば病気(精神病をも含む)などにも用いられています。この霊に「憑かれた」とあるのは、悪霊の力に支配されている状態を表わします。
 さらに注意してほしいのは、この男のほうからイエスを「見わけて」いることです。自分の内に宿る御霊の働きによって「悪霊を見わける」という言い方をする人がいます。これはあたかも、イエスの御霊が悪霊を探し求めて見つけ出すかのように聞こえますが、違います。そうではなく、悪霊のほうが、御霊を宿す人を見わけるのです。さらに「叫んだ」とあるとおり、悪霊に憑かれた人は、その声までもが、自分の声とは異なる響きを発することがあります。ちょうど苦しめられている人が、苦しめている者によって、「苦しい」と言うことができず「楽しい」と言わされているように、その声は、その人の声ではなく、その背後にある者の声なのです。だから、「憑かれた状態」にあっても、悪霊とその人とは、人格的には別ですから注意してください。
【汚れた霊】マルコはここで、汚れた霊に「憑かれている」、すなわち霊に「支配されて」いると述べているのに注意してください。
[24]【ナザレのイエス】「ナザレ人イエス」〔岩波訳〕とも訳すことができます。「ナザレ人」はマルコの言い方で、ナザレ村の出身であるイエスの意味です。この言い方はマルコだけで、マタイやヨハネは(時にはルカも)、「ナザライオス」という言い方をしています。これは、「ナジル人」(神に捧げられた人)あるいは「ナゾライ派の人」とも混同されやすいです。このためイエスは、ナザレの出ではなく、ナゾライ派の人であったという誤解も生じました。
【かまわないでくれ】ヘブライ語では、これは「わたしたちの邪魔をしないでくれ」という意味ですが、ギリシア語では「わたしたちとあなたと何の関係があるのか?/共通点があるのか?」という響きになります。汚れた霊はここで「わたしたち」と複数で語っているのに注意してください。しかも「分かっている」は1人称単数です。悪霊たちと本人とは、ほんらい別の人格でありながら、重なっているのが分かります。「分かっている」の原文では、「あなたが誰だか分かっている」という意味と「あなたが神の聖者だと分かっている」という二つの意味が重なっています。また「わかっている」は、知識として知っていることではなく、直感的に「見分ける」ことで、ここでは特に敵意を感じることです。だから悪霊は、通常の人には分からないこと、イエスが「神の聖者」であるのを見分ける能力を具えています。ます。また同時に、悪霊は自分がイエスに対して劣勢にあることも明らかに感知して、怯えていることが分かります。なお「滅ぼす」は、深い淵へと「追放する」という意味です。
【神の聖者】この称号は旧約時代では「神の人」の意味で用いられました(詩編106篇16節)。しかし、この称号は特にイエスについて用いられ、おそらく最初期からイエスに与えられていた称号だと思われます。「神の聖者」という言い方は、こことイエスへの尊敬を表わす意味で、ヨハネ福音書6章69節に、ペトロの告白として出てくるだけです。悪霊は相手の名前にこだわります。「ナザレのイエス」は、イエスを人間として呼んでいるのですが、さらに悪霊は、イエスが自分達を滅ぼす「神の聖者」だと見分けたのです。これは、誘惑の場面で(ルカ4章3節)悪魔がイエスを「神の子」だと見分けたのに通じます。
[25]【叱った】この言葉は権威をもって命じることです。イエスが嵐の海を「叱った」とあるのもこの意味です。旧約ではヤハウェが敵に向かって、あるいは荒れる自然に対して、声に出して「叱る」とあります。悪霊を追い出す時にはここでのように、「出て行け!」と厳しく命令します。なお「黙れ」は犬などに口輪をはめて、ものを言わせないことです。イエスが黙らせたのは、自分が「神の聖者」であることを知らせないためとも考えられますが、それよりも悪霊にそれ以上ものを言わせないためです。マルコ福音書では、イエスが、御自分のことを人々に知らさないように、癒された人や弟子たちに命じています(マルコ5章43節/8章30節)。マルコ福音書には「メシアの秘密」が隠されていると言われるのはこのためです。
[27]【驚く】ぎょっとしたことです。ここで「論じ合った」とあるのは、賛成や反対も含めて、真剣に話し合うことです。必ずしもイエスに敵意を抱いたという意味ではありません。
【権威ある新しい教え】人々は、先にはイエスの権威ある教えに驚き(マルコ1章22節)、ここではイエスの権威ある力に驚いています。イエスの教えとイエスの力とイエスの癒しは、それぞれに異なるイエスの権威と力とを目の当たりにした人たちを戸惑わせ、驚かせ、また恐れさせます。このために「これは何事だろう?」と話し合うのです。この問いは「イエスとはいったいどなただろう?」という問いかけに行き着くことになります。
【ガリラヤ地方の隅々にまで】この訳だとガリラヤ全土にイエスの評判が広まったことになりますが、原文では「ガリラヤにあるカファルナウムのあたり一帯に」あるいは「ガリラヤのその地域一帯に」という意味にも解釈できます。イエスの評判が本格的に広がるのは、マルコ3章17〜18節になってからです。

■ルカ4章

 ルカは、ナザレで人々がイエスに反対と敵意を示した出来事に続けて、このカファルナウムでの悪霊追放を記しています。彼は、マルコにある弟子たちの召命を後に回していますから、ここでは、イエスは単身でカファルナウムの会堂に入ったことになります。しかし、悪霊追放の記事は、ほぼマルコに沿っています。以下では、マルコとの違いに留意しながら見ていくことにします。
[31]【ガリラヤの町へ下った】ルカは、ギリシア・ローマの人たちにも分かるように、カファルナウムに「ガリラヤの町」を加えています。また「下った」とある動詞は、マルコと違って単数です。ルカでは、イエスはナザレで聖書を引用して証をしましたが、その前に、すでにカファルナウムで伝道していたようです(ルカ4章23節)。カファルナウムはこのようにイエスの御霊にある奇跡の場ですから、悪霊追放もカファルナウムで起こります。
[32]【その言葉に権威があった】マルコはイエスの語り方を律法学者と比べていますが、ルカは、イエスの御言葉に権威があったと、「御言葉」に注目しています。御言葉を重視するルカのこの見方は、ルカの特長で、ここの記事にも表われています。
[33]【汚れた悪霊】マルコに対しルカの原語は、「汚れた悪霊(デーモン)の霊(プニューマ)」〔岩波訳〕となっています。ルカは、「悪霊」を23回用いていますが、「汚れた悪霊」はここだけです。ほかに「汚れた霊」(4章36節)が5回、「悪い霊」が2回でてきます。別の写本の読みを採れば、ここは「汚れた霊、すなわち悪霊を持つ人」とも読むことができます。現在のままの読みを採るとすれば、おそらくルカはここで、「汚れた悪霊の霊」という言い方で、特に悪質な霊に動かされている状態を指しているのでしょう。これはいわゆる「汚れた霊」、すなわち精神病などの場合とは異なる、より悪質な霊で、神と信仰に逆らうケースを指すと思われます。会堂へは、明らかな精神異常者などは、入ってくることができなかったはずですから、ここでは、イエスの霊に感じて隠れていることができず、その正体を顕わしたのです。みんなの前で激しく抵抗し、その人を痙攣させて引きずり回したのは、このことを示しています。なおルカでは、マルコの「憑かれている」とは異なり、汚れた悪霊を「持っている」とあって、その人の人格と霊とをはっきり区別しています。さらにルカは、「聖霊の働き」を重視していますから、原語で「悪霊にある人」と「聖霊にある人」のように、二つの言い方を並べることを嫌って、「悪霊を持つ」という言い方にしたのです。聖霊についてルカは「聖霊に満たされる」と言いますが、「聖霊を持つ」とは言いません。
[35]マルコとルカを併せると、その人はイエスの話を聞いているうちに、「ああ!」と大声を出して叫んで、イエスに命じられると痙攣を起こし、全員の真ん中で倒れて転げ回ったことになります。これはその人が異常な状態になって悪霊に傷つけられたように見えたので、ルカは「何の傷を負わせずに」と説明しているのです。イエスの御言葉は悪と悪の力を滅ぼしますがその人間には危害を与えることはせず、その人を救うのです。
[36]【権威と力をもって】マルコでは「権威ある新しい教え」とありますが、ルカは「権威と力とをもって」となっていて、ここでの「権威」が「力」を意味することを説明しています。ルカ4章32節に「その言葉には権威があった」とありますが、「その言葉」とあるのは、「その出来事」と訳すこともできます。イエスの御霊のお働きは、神の言葉であり、同時に「神による出来事」なのです(使徒8章21節/15章6節)。ここでの「権威」は力と同時に「正義」の意味をも含んでいます。ルカでは、この「権威と力」はイエスによる「赦しと救い」の権威であり力となります(5章24節)。いわゆる悪魔払いではいろいろな呪文を唱えて儀式を行ないますが、イエスの権威ある一言は、悪魔払いの儀式とは異なっています。なおマルコには「どういうことだ」とあり、ルカには「この言葉は何だろう」とあって、マルコはイエスの出来事のほうに焦点を当て、ルカはイエスの言葉を重視しているのが分かります。しかし神の「事」と「言」とは同じなのです。
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