28章 カファルナウムの悪霊追放
マルコ1章21〜28節/ルカ4章33〜37節
【聖句】
マルコ 1章
21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか正体は分かっている。神の聖者だ。」
25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
ルカ 4章
31イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。
32人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威が会ったからである。
33ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。
34「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
35イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
36人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」
37こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。
今回はマルコからの引用を中心にお話しします。ここではいわゆる「悪霊追放」の話がでてきます。悪霊追放は、福音書に一貫してでてくる記事で、特にガダラ/ゲラサの悪霊追放の記事が有名です。マルコは、ここでの記事の前置きとして、「律法学者」を登場させます。律法学者たちというのは、もとは神殿宗教を指導する祭司階級に対する批判勢力として台頭した平信徒運動から生まれてきた人たちです。当時のユダヤ教では、「律法」という言葉は、現在の私たちの「聖書」とほぼ同じ意味です。ですから、律法の研究とは聖書研究のことであり、律法学者は聖書学者のことだと考えて下さい。平信徒でありながら、律法を学び、また律法を人々に教える「市中の教師」のような人たちがいました。続編にあるシラ書の著者などがそうです。当時は教育を受けることがすなわち律法を学ぶことでした。今でもイスラムの世界では、この伝統が残っていて、「教育」はコーランを学ぶことだという考えが実行されています。しかし律法学者たちは、律法に関する知識を身につけるに従って、次第に彼ら独自の聖書解釈の権威を帯びるようになってきました。
17世紀の宗教改革当時でも同じようなことが起こりました。反司祭制や反主教制度の人たちも、やがてその聖書知識によって制度的な教会の牧会者になっていきました。無教会運動の指導者たちもそうです。今では立派な聖書学者として教会からも認められています。このように学問的に聖書をしっかりと学ぶことは大事なことです。でも、注意しないと知識に溺れて、聖書の知識が、信仰に到達する唯一の道であるかのように思いこんでしまうところがあります。こうなると聖霊の働きのように、具体的で霊的な現象を批判的に見る傾向が生じます。こういう霊的な世界は学問的になかなか解明できません。だから、御霊の働きを何となくうさんくさいところがあると考えて敬遠したり、中には異端的であると非難するようになるのです。この問題は今でも最もホットな問題です。
■悪霊顕現
ところがイエス様が現われて、会堂で語られますと、事態が一変したのです。イエス様が語られると、霊的な力が働きます。御霊のご臨在が顕われます。すると、聞いている人たちの心の秘密が暴かれて、隠されていた人の本性が露わになるのです。御霊の働きは、穏やかで静かです。でもごまかしが効かない。御霊は人間の心を「探り求め」ます。だからこそ、私たちの心の奥にある悩みや苦しみを慰め励ますことができるのです。このことは逆に言えば、心に罪があるとこれをはっきりと示してくださることでもあります。それも他人に対する前に、まず自分自身に対して働いてきますね。それで、自分が御霊に「刺される」ことになります。ナイフは使いようでは人を殺すことにもなりますが、病気を治すメスにもなります。「御霊の剣」は鋭いからよく切れて、私たち自身の内面的な罪、自分と神とを隔てている罪を取り除いてくださいます。
パウロが、聖霊の働く集会に出ると、「人はその罪を暴かれて、神のみ前にひれ伏す」とあるように、集会は祈りをもって始めたら、もう止まらない。すると、ここにでてくるように人々は「驚く」のです。ぎょっとして恐れを抱くのです。「これはいったい」なんだろう? というわけです。ここのところは、マルコ福音書には「どういうことだ?」とあり、ルカ福音書には「この言葉は何だろう?」とあります。マルコ福音書では起こっている出来事に、ルカ福音書ではイエス様の語られるお言葉に人々が驚き畏れたのです。ふたつ併せると「事」は「言」です。神様のなさる「こと」は神様の語られる「こと」と同じです。
すると会堂の中にいる人に潜んでいた悪霊が、たまらなくなって叫びをあげた。イエス様は悪霊を「叱った」とあります。ここで「叱った」とあるのは、暴力的な力を言葉と声の力で抑えることです。イエス様が嵐の海を「叱った」とあるのもこの意味です。旧約では、ヤハウェのみ声です。神のみ声が人間や動物たちを叱って争いや暴力を止めさせます。暴力には目に見える腕力や武力もあるけれども、見えない言葉の「暴力」もあります。悪霊が「わたしはお前を知っている。神の聖者だ」言いますが、相手の名前や正体を言うのは、それによって相手を支配しようとするからです。するとイエス様が悪霊に「黙れ」と言われると、犬が口輪をはめられたようにものが言えなくなった。
■御霊の権威
マルコ福音書では、イエス様のお言葉を人々が「権威ある新しい教えだ」と言っていますし、ルカ福音書では「権威と力をもって」となっていて、「権威」とはすなわち霊的な「力」であることを説明しています。ヘブライ語の「神」は「エロヒーム」で、これは「力」(エール)の複数形です。イエス様のお言葉には力がある。この力は暴力ではない。創造する力です。「新しい」とあるのはこの意味です。「事」を創り出す「言」こそ本当の力です。暴力に対抗する最大の武器は「創造する」ことです。造り出すことです。イエス様の権威あるお言葉といわゆる悪魔払いの儀式とを比較してみてください。悪魔払いではいろいろな呪文を唱えて長々と儀式を行ないます。お金もたくさん取られる。でも、イエス様の悪魔払いはただの一言です。鶴の一声です。
ただし、ここでの「悪霊」は、ルカ福音書では「汚れた悪霊の霊」となっています。同じことを二度言っているようですが、これはものすごい悪質な霊という意味でしょう。だから、わたしたちがこういう場合にうっかり手を出したりしてはいけません。祈りの人、イエス様の御霊に満たされた人が、御霊の導きに従って行なうのでなければ、とても危険です。イエス様のお叱りを受けると、その人は「痙攣を起こし、全員の真ん中で倒れて転げ回り、ああ!と大声を出して叫んだ」。マルコ福音書とルカ福音書を併せるとこうなります。その人が異常な状態になって悪霊に傷つけられたように見えたのです。ですから、ルカは「何の傷をも負わせなかった」とわざわざ説明しています。御霊が激しく働くと、その当人も周囲の人も驚くことがあります。特にこの悪霊追放ではよほどすごかったのでしょう。でも、御霊はけっしてその人に傷を負わせません。傷を負うのは悪霊のほうです。ナイフは刺すことも手術することもできます。御霊は両刃の剣です。「刺す」と「癒す」を一度にします。刺されるのは悪霊。癒されるのは人です。
■悪霊現象
ところで、現代では、そもそも悪霊など存在しないと主張する人たちもいます。しかしこのような問題提起の仕方では、何の解決にもなりません。なぜなら、そのような前提は、「事実と異なる」からです。すなわち悪霊追放の「現象が」現実に存在することです。現代でもこのような「悪霊現象」と「悪霊追放現象」とが起こっています。だから問題は、悪霊が存在するかしないかではなくて、この現象それ自体をどのように「解釈する」のかが問われているのです。これには心理学的な解釈、社会学的な解釈、これらを総合した宗教現象学的な解釈が可能になるでしょう。
マタイもマルコも「悪霊」(デーモン)と「汚れた霊」というふたつの言い方をしています。「悪霊」とあるのは「聖霊」と区別するためでしょう。その上でマルコは、その人が、汚れた霊に「憑かれている」、すなわちその霊に支配されていると述べています。ところルカ福音書のほうは、その人が汚れた悪霊を「持っている」と言っています。英語で言えば、”He has evil spirits.”です。この言い方だと、「彼」という人格と「悪霊」とが区別されています。彼自身と悪霊とは別物です。ですから、イエス様のお言葉を聴くと悪霊は彼を投げ倒して出ていったのです。日本語でも憑依というのは取り憑くことで、本来その人と憑依霊とは別です。ですから「憑き物が落ちた」などと言います。
■悪霊の分類
そこで、いったい聖書で「悪霊」と呼ばれている現象にはどのようなものがあるのかを分類してみます。
(1)異教の神々、すなわち偽りの神を礼拝することや魔術や呪い。
(2)リリトは女性の悪霊で、子どもを盗んだり不浄な獣と関連づけられました。またエバ以外にもう一人アダムの妻がいて、それがこのリリトだとされていて、彼女がアダムを堕罪させたという言い伝えがあります。
(3)アザゼルという悪霊がいて、これは犠牲の山羊に取り憑いて、山羊諸共に荒れ野へ追いやられました(レビ記16章)。同時にアザゼルは荒れ野それ自体に住む悪霊のことでもあります。
(4)様々な自然の災害も悪霊の仕業とされました。
(5)蛇、野獣や様々な獣の霊も悪霊とされました。
(6)精神異常、痙攣、言語障害、視力障害、自殺行為なども悪霊の働きとされました。ただし、病気によっては悪霊と見なされないものもあります。
(7)死界に住む悪霊がいます。ただし、死者が悪霊にされることは比較的少ない。
これはおおざっぱな分類ですが、「悪霊」にもずいぶんいろいろあります。このように、病気や自然災害などいろいろなものが、「悪霊」の働きにされていました。このような様々現象や出来事が、「悪霊の仕業」にされているから、悪霊が存在するかしないかではなく、ここにあげられている「悪霊現象」をどのように<解釈する>のか? これがきわめて大切なことが分かります。ある出来事、ある現象をどのように「解釈する」のか? これが人間の生き方を決定する上で、きわめて大事なことなのです。
これで見ると、(2)と(3)などは現在では存在しないと見るべきです。(4)の災害現象が悪霊の仕業ではないこともはっきりしています。そうすると、(1)と(5)と(6)と(7)とが、現在の日本でも「悪霊」と関連づけられそうです。(5)の動物の霊が取り憑く現象は、日本では「狐に憑かれる」など現在でもある程度残っています。これはアニミズムの伝統からくるのではないかと思われます。(6)の精神病に分類できる項目が大きな問題です。マルコは、悪霊を「追い出した」とは言うが、けっして「癒やされた」とは言わない。すなわち「病気の霊」と「悪霊」とを区別するからです。マタイは「病める者を癒やし、悪霊を追い出す」ことをひとつにまとめて「汚れた霊に命じる」としています。(7)の死界と悪霊との関係は、聖書の悪霊の最も深い基盤となっています。しかし、これは日本でも同様で、死界と魔性や悪霊とは密接に結びついています。いわゆる幽霊もそうです。「死」が忌み嫌われるのは人類に共通していると思います。
このように見てきますと、特に日本で問題なのは、(1)の異教や偶像礼拝や呪い。それに(6)の様々な病気が悪霊の仕業かどうかが問題の焦点になってくると言えます。病気癒やしは先に指摘したように、病気をいかに解釈するのかが大事な問題になります。これを純粋に医学的にとらえるなら、「悪霊」は存在しないことになるでしょう。しかしその場合は、そういう現象を説明する「悪霊」に代わる「何とか症候群」という定義が要求されることになります。このように見ますと、最後に問題となるのが、(1)の異教と偶像礼拝と呪いの類です。これを「悪霊」だと「解釈する」かどうかが、わたしたち日本人にとって、とても重要なことになるからです。
ここでもう一度病気の場合に戻ります。病気が悪霊によって生じると解釈するところから悪霊追放の祈りが始まります。あるいは病気癒やしの祈祷がおこなわれ、その結果癒やしの現象が生じます。先に述べたように、これは現代医学と解釈の点で衝突するところがあります。しかし、その解釈の違いは、病気そのものが良いか悪いかという問題をめぐっての解釈の相違ではありません。医学も信仰による祈祷も病気を癒やそうとする点では共通しているからです。病気は人間にとって決してよい現象ではない。この点では医学も信仰も一致しています。ただ、これの原因とそれを癒やす方法において、両者の「解釈」が食い違っているのです。ですから癒やしの信仰であれ医学であれ、私たちはそのどちらによってでも主に祈り求めることができます。
■悪霊は文化か?
ところが、宗教的な文化になりますと、問題は別です。現在聖霊運動の人たちの間で、『ハリー・ポッター』が悪霊追放の槍玉に挙げられています。こうなると、悪霊は文化とその表現に関わってきます。日本が「悪霊の国」であるという人たちもいます。いったい悪霊は文化なのでしょうか? もしも「異教」が悪霊であるとすれば、日本のようなキリスト教文化ではない国は「悪霊文化」の国に分類されます。あるいはスコットランドやアイルランドやウエイルズのように根底にキリスト教以前のケルト的な文化を宿すところから生まれる文化も「悪霊的」と見なされる傾向があります(『ハリー・ポッター』の著者は、ウエイルズ育ちでスコットランドに在住しています)。では仏教文化やイスラム文化やヒンズー文化や儒教文化はどうでしょうか? これもすべて「悪霊文化」と「解釈する」のでしょうか? またアメリカ国内のインディアンなどの異民族文化も悪霊に分類されるのでしょうか?
ここで注意しなければならないのは、文化については、病気の場合とは問題点が全く異なることです。日本が「悪霊文化の国」であると言うためには、その前提に日本文化は悪である。それは日本人にも人類にも害悪を流す存在であるという前提がなければなりません。病気が人間にとって良いか悪いかという点をめぐって解釈が問題になることはまずありません。しかし、「日本文化が良いか悪いか?」という点をめぐっては、その<解釈それ自体>が大いに問題になります!
そこには二重あるいは三重の解釈上の問題があります。まず、(1)日本文化それ自体が良いか悪いかという解釈上の問題があります。さらにその上で、(2)ある特定の文化が良いか悪いかを決定しようとする行為それ自体が正しいかどうかという問題が浮かび上がってきます。(3)ある人が正しいかどうかを判断する場合には、その人物をどう解釈するかという問題と同時に、そういう解釈を下す行為それ自体がはたして正当なのか不当なのかということ、すなわち「解釈する当事者それ自体」の正当性をどのように「解釈するか」が問題になるのです。これが、病気悪霊説と悪霊文化論との大きな違いです。すなわち、日本の文化であれどこの文化であれ、それが悪霊的であると「解釈する」行為は、そういう<解釈をする行為それ自体>をどう解釈すべきかが逆に問わることになるのです。人を嘘つきだと弾劾して、もしも弾劾された人が嘘つきでなかったら、弾劾したほうの人が嘘つきであることが判明するからです。しかもこの場合でも、少なくとも「嘘は悪い」という前提が存在しています。しかし、「文化が悪い」という前提は存在しないのです。したがって、日本文化は悪いのか? そういう問題提起それ自体が悪いのか? さらにそういう問題提起をする側の人たちのほうが逆に悪いのか? この三つの解釈がここで重なり合うことになります。
そこでもう一度考えましょう。聖書には偶像礼拝は悪霊から出ているとある。日本は偶像礼拝の国である。だから日本は悪霊の国である。この三段論法では、以下の三つの解釈が重なり合います。(1)日本がはたして偶像礼拝の国かどうかをめぐる解釈の問題。この場合、そもそも「偶像礼拝」とは何かが問われてきます。(2)そういう解釈を下す行為そのものがはたして正当なのかという点をめぐる解釈。この場合、なぜ日本文化なのか? なぜアメリカやヨーロッパ文化はこれに含まれないのかが問題になります。(3)そういう解釈を下そうとした側の人たちをどう解釈するのかという問題。この場合その動機や判断の基準それ自体の正当性が問題になります。この三つの解釈が重なり合います。
以上の問題を言い替えると、次のようになるでしょうか。
(1)聖書に照らして日本ははたして偶像礼拝の国か?
(2)そういう解釈を行なう行為それ自体は、聖書に照らして正しいか?
(3)そういう解釈を行なう人たちの動機とその際の基準は聖書に照らして正しいか?
この三点が、聖書に照らして問われてくることです。(3)の場合は注意を要します。なぜなら、ここではその基準それ自体の正当性が解釈の対象になるからです。その基準が聖書に置かれている場合は、ここで、そのような聖書解釈それ自体の正当性が問われることになります。もしも、聖書解釈それ自体の基準から、正当であると判断されるなら、最後に残る問題は「聖書は正しいか?」です。
このように考察するならば、「悪霊文化」の問題は、結局「聖書はどのように解釈されるべきか?」という問題に突き当たることになります。日本がほんとうに悪霊の国であり、その文化が悪霊文化であると判断するためには、この「聖書をどう読むのか?」という聖書解釈の問題に帰着するのです。私がはじめに、「どう解釈するのか?」が人間にとってきわめて重要であると指摘したのは、このことです。
■神と文化
聖書はヘブライ・キリスト教文化を支えてきた聖典です。これが今日本を「悪霊の国」として弾劾しようとしています。もしもこれを受け入れるなら、日本人である私たちは悪霊民族に落とされます。もしもこれに反対するなら、私たちは「聖書の敵」にされます。過去において、インディアンやその他の様々な民族が味わった体験がこれです。私たちはそのどちらかを選ばなければならないのでしょうか? ほかに道はないのでしょうか? これが現在私たちが直面している問題です。
ここで私たちが思い起こさなければならない大事なことがあります。それは聖書の神は「土地のない神」だということです。このことは、聖書の神は文化を持たないことを意味します。聖書の神は「文化を持たない」。だからこそ、この神はどの土地にあってもそこで文化を創り出すのです。創造の神なのです。だからこの神は、時には文化を見捨てて、文化の敵に転じることがあります。イスラエルの民が「神に見捨てられる」という驚くべき矛盾が現実になったのはこのような神の性質から来ています。聖書の神は文化を生み出す原動力ともなり、同時に、全く同じ理由で、文化を裁く恐ろしい力にもなります。聖書の神が「文化の敵」であると言われるのはこのためです。
聖書は、ヘブライ・キリスト教文化を創り出した聖典です。しかし、聖書は今述べたように、けっしてヘブライ・キリスト教文化それ自体ではない。それどころか、聖書の神は、場合によっては、従来のヘブライ・キリスト教文化それ自体の敵に回ることさえありえます。「神は偏り見ることをしない」とパウロが言ったのはまさにこの意味です。ホセアが、アッシリアが滅びる前に北イスラエル王国が滅びると預言したのはこのためです。エレミヤが、偶像礼拝のバビロンが滅びる前にユダ王国が滅びると警告したのもこの理由です。イエス様が、ローマが滅びる前にエルサレムの神殿が無くなると警告されたのはこのためです。土地を持たない神は、ランド(国・土地)に拘束されないからです。太陽がどの国をも公正に照らすと同時に、どの国からも姿を隠すのはこのためです。太陽は土地を持たないからです。聖書の神は、言葉のほんとうの意味で、「グローバル・地球規模」です。
■文化の寛容性と非寛容性
では文化のあるべき姿とは何でしょうか? 他の文化を根底から否定することでしょうか? それがよりすぐれた文化のあるべき姿でしょうか? 過去において、偉大な文化を遺した帝国が幾つかありますが、それらに共通するひとつの特徴があります。それは、征服したもろもろの民族が持つ固有の文化や宗教を否定しなかったことです。彼らは「征服」したのではなく「統治」したのです。根絶は決して勝利をもたらさない。服従こそ勝利の源であることを彼らは知っていたのです。ペルシア帝国がそうでした。だから、バビロニアに滅ぼされたユダの民がエルサレムに帰還できたのです。ローマ帝国もそうでした。だから地中海世界を統治できたのです。大英帝国もそうでした。その植民地支配は苛酷でした。しかし、ヒンズー教やイスラム教をイギリスは否定しませんでした。インドやアラブ諸国がイギリスに服従したのはこのためです。
翻って日本の朝鮮支配はその逆でした。日本は朝鮮民族の文化それ自体を破壊しようとしたのです。同化政策とはそういう意味です。名前を奪い、宗教を奪い、神社を礼拝させたのです。日本は朝鮮民族を服従させることができませんでした。屈従させたからです。文化の力ではなく権力の暴力で支配したからです。アッシリアとペルシアの違い、イギリスと日本の違いがここにあります。文化は地上のものであり、神ではありません。だから文化は地上の権力や権威によって支えられます。しかし、すぐれた文化はけっして異文化を否定しません。平和と寛容こそ文化のレベルを測る尺度です。
戦後の日本は、過去の過ちを認めました。私たちは他国の文化を否定することは決してするまいと誓ったのです。平和憲法はその現われです。平和憲法を否定する人たちが現在の日本で増えています。その実効性が問われています。しかし、ひとつだけ確かなことがあります。平和憲法は世界で最も優れた「文化憲法」だということです。なぜならそれは、「暴力をはっきりと否定している」からです。優れた文化が、優れた経済力を持つのは当然です。優れた文化が、世界中から注目されるのは自然です。優れた文化が、優れた工業生産力を持つのは当然です。日本製品が世界中に溢れたのはそのためです。戦後の日本は、誰がなんと言おうと、世界で最も優れた文化を生み出したのです。暴力を否定し、寛容を旨としたからです。一言で言えば、戦後の日本は、「神のみ前に正しかった」のです。だから神は日本を支え、日本が繁栄したのです。
優れた文化は、暴力を否定し寛容を大事にします。聖書の神は文化それ自体ではありません。しかし「宗教」は文化です。ヘブライ・キリスト教をも含めて、あらゆる宗教は人間の文化です。私たち日本人が、聖書の神を受け入れるのは、暴力を否定し、異文化に寛容な文化を生み出すのが聖書の神だと信じているからです。決してアメリカの真似をするためではありません。だから私たちは、暴力を否定し寛容と平和を生み出す文化を育てるために聖書の神に従うのです。当然その視点に沿って、聖書解釈を行なうべきです。日本にはいろいろな宗教があります。アメリカにもいろいろな宗派や宗教があります。インドにも中国にもアラブ世界にもあります。それらはことごとく人間の文化です。しかし聖書の神は、文化を文化それ自体で否定することはしません。平和と寛容こそ、正しい文化の有り様であることは、歴史が証明しています。
悪霊はキリスト教にも仏教にも神道にもあらゆる宗教に潜んでいます。「人間の宗教」に悪霊の存在しない宗教はありません。だからこそ、聖書の神は、地上の神々の神なのです。王たちの王なのです。主権者たちの至高者なのです。日本の神々もアメリカの神々もこの聖書の神に従うべきです。そうすれば、優れた文化を生み出すことができます。どの文化が悪霊に支配されているかを測る尺度は、その文化がどこまで暴力と非寛容な独善に支配されているか、それとも平和と寛容の精神に導かれているかで測るべきです。
現代のイスラエルの人たちにとっては、パレスチナの人たちのテロは悪霊以外の何ものでもないでしょう。一方でパレスチナの人たちから見れば、イスラエルのシャロン首相に働いている霊は、まさに悪霊にほかならないでしょう。戦時中の日本にも、「鬼畜米英」という標語がありました。人間は悔い改めることができるが、悪霊それ自体は悔い改めることができません。その点ではサタンと同じです。人を憎み敵意を抱いているなら、その人を悔い改めに導くことはできません。悔い改めに導くためには、その人を愛さなければならないからです。そのためにはまずその人を理解しなければなりません。理解は愛することへの入り口です。
タリバンが支配する以前の、アフガニスタンの博物館には、ガンダーラー美術や仏像などの仏教美術が、イスラムの芸術品と仲良く並んでいました。アフガニスタンの人たちは、そのどちらも自分たちのアイデンティティであり、文化であるとして、これらを受け入れていました。ところが、タリバン政権に移ってからは、これらの博物館の遺品がことごとく荒らされ、売却されたり持ち去られたりしました。同じイスラムの教えでも、一方は仏教美術を悪霊から出たものとして破壊し、他方は自分たちの伝統として守っていたのです。仏教文化を守っていたからと言って、私たちは、それだけアフガニスタンのイスラム教が弱いとは思いません。逆にそのほうが優れていると思うのです。