33章 重い皮膚病の癒やし
マルコ1章40〜45節/マタイ8章1〜4節/ルカ5章12〜16


【聖句】
マルコ1章
40さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところへ来てひざまずいて願い、
「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

41イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、
「よろしい。清くなれ」と言われると、
42たちまちらい病は去り、その人は清くなった。
43イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
44言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。
ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
45しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。
それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所〔荒涼とした所〕におられた。
それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

マタイ8章
1イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。
2すると、一人のらい病を患っている人がイエスに近寄り、
ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
3イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
たちまち、らい病は清くなった。
4イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。
ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、
人々に証明しなさい。」

ルカ 5章
12イエスがある町におられたとき、そこに、全身らい病にかかった人がいた。
この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。
13イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまちらい病は去った。
14イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。
ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」
15しかし、イエスのうわさはますます広まったので、
大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。
16だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

                               【注釈】
                  【講話】
■皮膚病について
 「らい病」という言葉は現在では用いないのでしょうか。『四福音書対観表』では「重い皮膚病」と訳してあります。この「重い皮膚病」という訳は、いわゆるハンセン病だけでなく、さまざまな皮膚の湿疹その他の病気をも含んでいて、この訳語のほうがヘブライ語の原語の実際の意味を正確に表わしていると思います。
 旧約聖書では、この病気は律法的に「汚れた」病気と見なされました。このためこの病気の患者は、特定の規定のもとではユダヤ教の会堂に入ることが許されましたが、教団に加入することも神殿に入ることも許されませんでした。またエルサレム市内はもとより「城壁で囲まれた町」には、いっさい入ることが許されなかったのです。その上、人が近づくと自分のことを「汚れた者」と連呼しなければならなかった。人に触れることは禁じられましから、人との交わりを断たれた「生きながらの死人」同様に見なされていたのです。それはこの病が「汚れた」ものと見なされて、「神からの罰」であると信ぜられたからです(民数記12の10)。ですから、この病気の癒しは、死人を甦らせることと同じほどの意味を持っていました。だからこの癒しは、悪霊追放と並んでイエス様による病気癒しの頂点となっているのです。この理由からでしょうか、マタイは、この癒しをイエス様が山上での説教を終えて山から下り、大勢の群衆がこれに従ったその直後に置いています。
■癒しについて
ここで、この癒しの大事な点を、マルコ1章の40〜42節から見てみましょう。
(1)患者は、イエス様にひれ伏して、真剣に率直に信頼して祈り求めました。病の癒しを求める時には、その結果に関わりなく、主の御心のままに癒しの祈りを行なうことが大切です。それは義務や強制ではなく、まず謙虚になって、信仰と喜びによって自然と湧いてくるものです。これが大事です。イエス様のみ名による癒しの力の源泉は、主との深い交わりにあります。私たちも主との深い交わりにあって、初めて癒しの祈りをすることができるのですから。言うまでもなく、癒しのみ業は主が行なわれるのであって、私たちの「念力」や「祈祷の力」ではありません。主の御霊に導かれて、神癒を祈り求め、その結果を主に委ねる。これこそ福音に生きる者の喜びの極意なのです。
(2)イエス様のご臨在が顕われて患者に触れました。マルコでは「深く憐れんで」手を差し伸べたとあります。御霊による癒しの基本は、「罪の赦し」にあります。己の罪、人の罪、これら二重三重の罪にうち勝つ主イエス様の御霊の働きこそ、わたしたちを霊肉共に支えてくださる御霊の力です。御霊に導かれて、悔い改めるべき所は改める。これが大事です。この世の中では、加害者が被害者である場合も少なくありませんから、人の罪と自分の罪との境界は、必ずしもはっきりしないのです。憎しみ、呪い、敵意、ねたみ、さまざまな悪の力に勝利する赦しの愛こそ私たちの命です。呪いや憎しみなどの悪霊的な働きに対して、人間的な力、肉的な力、すなわち自分の力で闘おうしてもダメです。逆にこちらが疲れてやられてしまいますよ。どこまでも御霊の主に委ねることによって「闘う」姿勢が必要です。その「闘う力」とは愛による赦しの力です。イエス・キリストの贖いと罪の赦しの聖霊こそ、霊と肉体に働く悪に勝つ力の源だと言うことを知ってください。私たちの戦いは、罪の赦しの御霊にある愛の戦いです。たとえ、憤りや怒りがあっても、真の敵であるサタン的悪霊との闘いに「勝利する」ためには、御霊の慈愛によるのです。
(3)イエス様のお心がはっきりと彼に伝わりました。彼の罪が赦され、病が癒やされることが主のみ心であること、主様がそのことを望んでおられることが、その患者に伝わると、必ず癒やされるという確信がその人に与えられます。癒しは霊的な罪の赦しの<しるし>なんです。先ず悪と罪に対する霊的な闘いと勝利があり、これが肉体の癒しにつながることを忘れないでください。
(4)病が去った/消えた/治った。救いこそ根元的な癒しにつながるのです。しかし完全な癒しには時間的な差がでることがあります。後になって癒しが現われることもあります。また、神の癒しと医療とは矛盾しませんから、適切な医療を続けることが大事です。主にある信仰によって根元的に罪の力に勝っている。この御霊の命こそが、癒しをもたらす力となります。だから、癒やされる/癒やされないという現象にとらわれないでください。
■癒しは「しるし」です
  『ハーザー』をお読みになったら分かるとおり、現在日本でも病気癒しの賜物を持つ牧師さんや宣教師さんたちが癒しの集会を行なっています。神癒を行なう人たちは、聖書をそのまま信じる信仰に立つ人たちがほとんどです。しかしその場合でも、癒しは誰でも行なうことができるのではなく、そのような癒しの賜物を与えられている人が行なう場合が多いのです。ここで大切なことは、癒しとは罪の赦しと救いの「しるし」だということです。「しるし」とは、それが、癒やされた人のためだけでなく、すべての人のために与えられていることです。主が私たちの病をも癒やそうとしておられることを人々に知らせるためです。それだけでなく、癒しを与えられていない人にとってもそれは「しるし」となるのです。主がその病気を決して善しとしていないこと、また病気は神が与える罰ではないことを証しする大事なしるしです。ですから、癒しを与えられないから、信仰的に不完全であるかのように考えるのは、大きな誤りです。逆に、病気さえ治ればそれでいいという人たち、すなわち「しるし」だけを求める人たちがいますが、イエス様はこういう態度を厳しく戒められました。大事なことは、罪の赦しとイエス様にある救いに与ることであって、癒しそのものを求めることではないからです。信仰は結果をもたらしますが、結果で信仰の深さと広さを推し量ってはならないのです。
  私はこの間、ある姉妹のために按手をして、イエス様のみ名によって「サタンの霊を追い出す」祈りをしてきました。それは私の信仰によって行なったことす。御霊に導かれるままにイエス様のお言葉を信じて祈りを捧げてきました。しかし、結果は主にお委ねしてあります。主を信じる信仰が先で、結果はその後です。その結果がすぐには現われなくても、やがて癒しにつながるかもしれません。そうはならないかもしれません。私には分かりません。しかし、たとえどのような結果になっても、主に対する私の信仰は変わりません。祈ってあげた姉妹も同じ心であろうと思います。たとえ、癒やされなくても、イエス様を捨てることはありません。信仰とはそういうものです。この意味で、霊的な心の救いは、体の癒しに優るのです。
  私は、いわゆる癒しの賜物を持つ者ではありません。だからと言って、癒しを否定したり、その賜物を軽んじるつもりはありません。ただ、私は、現代的な聖書解釈を受け入れ、異なる宗教に寛容な態度をとる聖書信仰者です。しかも癒しを信じて、祈ることも行ないます。こういう立場に立つ聖書信仰は、あまりないかもしれません。でも私は、自分のこの信仰、この聖書解釈の立場を離れるつもりはありません。たとえそのために癒しの業が制限されても、悔いるところはありません。なぜなら、新約聖書において「癒やされる」とは、まずなによりも「罪が赦される」こと、すなわち「救われる」ことだからです。癒しを体験してもイエス様から離れていく人、もらうものさえ戴ければ、後は知らん顔をする人たちもいます。しかし、イエス様に対して自分の罪を悔い改めて、御霊にあって罪の赦しを体験した人は、イエス様から離れることはありません。たとえ、癒やされなくても、イエス様を捨てることはありません。信仰とはそういうものです。この意味で、霊的な心の救いは、体の癒しに優るのです。
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