【注釈】
■マルコ1章
 マルコは一連の癒しの物語の頂点にこの癒しを置いています。現在では「ハンセン病」と呼ばれて、「ライ病」という言葉は用いてはならないことになっています。それだけ忌まわしい差別的な用語だからです。しかし、イエスのこの時代には、この病は、まさにそのような宗教的に汚らわしい忌まわしい病とされていました。この病から癒されることは、罪から救われるのと同じで、それは神によってのみ可能なこととされていたのです。旧約では預言者エリシャの物語(列王記下5章1~14節)を参照してください。ですからマルコが、イエスの癒しの頂点として、この物語を置いたと見ていいでしょう。イエスの癒しが、ただの奇跡ではなく、神から遣わされたメシアの到来を意味することを語りたいのです。ただし、メシアとしてのイエスの到来は、イエスの癒しが、当時の律法制度と対立するものであることが、この物語に続く一連の論争で明らかになることになります。
[40]【重い皮膚病】「らい病」という言葉は現在では用いませんので、『四福音書対観表』では「重い皮膚病」となっています。この「皮膚病」という訳は、いわゆるハンセン病だけでなくさまざまな皮膚の湿疹その他の病気をも含んでいて、「重い皮膚病」のほうが、ヘブライ語「ツァーラアート」の実際の意味を正確に言い表わしています。
 旧約聖書では、この病気は律法的に「汚れた」病気と見なされ忌避されました(レビ記13章/民数記12章12節)。このためこの病気の患者は特定の規定のもとでユダヤ教の会堂に入ることは許されたが、教団に加入することも神殿に入ることも許されませんでした。この病気は、家族や共同体から隔離されて、死者か悪霊憑きと同様に見なされいましたから、この病気の癒やしは、死人を甦らせることと同じほどの意味を持っていたのです。ここでの癒やしは、悪霊追放と並んでイエスによる病気癒やしの頂点であると言えます。
【ひざまずいて】ユダヤ人は普通立って祈るか頭を膝の間に入れて祈るので、この動作はイエスを礼拝しているのではなく、信頼と尊敬を抱いて懇願しているのです。なお原文では、患者が「来る」「ひざまづく」「言う」は、すべて現在形で、生き生きした描写がされています。
【御心ならば】「もしあなたがお望みなら」「お心ひとつで」などと訳されます。「御心ならば、わたしを清くすることができます」という言い方はマルコもマタイもルカも共通しています。患者は、このような重く忌まわしい病は、神の御心がなければ癒されないことを知っていて、このように言うのです。だから「清くする」には、身体が癒されるだけではなく、霊的に神に赦されて救われることも含んでいます。
[41]【深く憐れんで】原語は、ヘブライ語から出た意味で、ともに苦しむ深い慈愛とともに悪霊に対する怒りをも含んでいます。癒す者が癒される者に対して、霊的に激しく動かされる時の言葉です。マタイとルカには、この大事な言葉がありません。おそらく、ふたりの用いたマルコ福音書には、この句が抜けていたのでしょう。現在のマルコ福音書以前に旧版の福音書が存在していたのかもしれません。またマルコの異本にはイエスが「怒って」という読みもあります。これは皮膚病が人間を苦しめる悪の力であり、これと対決するイエスが、福音に敵対するいかなる力にも断固として闘う姿勢を表わしているのです。「腸がちぎれる思いに駆られ」〔岩波訳〕「悪魔に対する怒りに燃え」〔塚本訳〕。
その人に触れ・・・言われるここがこの癒やしの中心です。この句を挟んで「御心ならば」と「よろしい/わたしの心だ/わたしが望む」が対称的に置かれています。皮膚病患者に触れることは律法で禁じられていました。「手を差し伸べる」は旧約では神による特別の保護を意味しています。また「触れる」という行為は、イエスの肉体的な臨在それ自体に霊的な力が宿ることを意味しますから、人がイエスの臨在それ自体に「触れられる」ことです。イエスの行為は、人々がメシアの到来の日に期待していた事態です。
[42]【病は去った】原文は「皮膚病は彼から去った」で、悪霊が出ていったのと同じような言い方になっています。
[43]厳しく注意して原語は「激しい語調で」。この言葉は悪霊に「黙れ」と言う時にも用いられますが、ここではこのような意味ではありません。ただし「悪霊追い出し」の場合でも、癒された後で、癒された人に向かって、そのことを人に言わないように厳しく命じる場合がありました。イエスの頃は、「人に言わないように」という意味で、唇に指を当てて、「ふー」と息をする仕草があったから、その仕草だとも言われています。日本語の「シー」という仕草に似ています。「激しく息巻いて」〔岩波訳〕。イエスが沈黙を命じた理由は、「大勢の群衆が押しかける」のを防ぐためですが、それ以上に、マルコの場合は、イエスのメシア性が人々から隠されていることを語ろうとしているのです。イエスは、人々が、病の癒やしのような奇跡に目を奪われるあまり、福音の霊的な事態を知る妨げになることを恐れているのです。マルコとルカには「イエスはもはや公然と町に入ることができなくなった」ことが語られていますから、沈黙を命じた理由が分かります。しかしマタイではこの記述が抜けています。マタイはおそらく、癒やされた人がイエスの教えに従わなかったという記述を避けたかったためでしょう。
[44]祭司に体を見せレビ記14章を参照。皮膚病が治った場合には、まず祭司に見せて、祭司が治癒を確かめた上で、治ったことを公に「宣言して」もらわなければなりません。その後で、患者が供え物を捧げてから初めて「清くなった」ことが人々に公開され承認されるのです。ここでイエスは、当時の律法制度に従うように命じていますが、この物語に続くイエスと律法制度との対立から逆に判断して、ここでは律法に対する「譲歩」のつもりで、「祭司に見せて、献げ物を捧げてやれ」という意味にとる説もあります。どちらにせよ、隔離されていた病人に再び人々との交わりが与えられたのです。イエスの癒やしは、「清い者」と「汚れた者」、教団の中の者と外の者、病人と健常者との差別を撤廃する力を秘めていることも見逃すことができません。
[45]人々に告げ、言い広め始めた原文は「彼は人々に大いに宣べ伝え、御言葉を広める(現在形)」です。この言い方はその患者が、盛んに伝道し始めたようにも受け取れます。結果としてイエスの評判が逆に広まることになったのです。このことが、これに続く一連の論争へとつながることになります。

■マタイ8章
 マタイはこの癒しを山上の教えのすぐ後に置いていて、ここから一連の癒しの物語が始まり、マルコと同様に、そのことが律法制度との対立へとつながります。マタイの記事はマルコの物語に基づいていて、これを短くまとめています。特にマルコにある「深く憐れんで」や「厳しく注意して」が抜けているのが注目されます。また、癒された人が、人々に言い広めたことも略されています。
[1]すると原文は「すると見よ!」。「見よ!」は、これから起こることを読者に注目させるためのマタイのよく用いる言い方です。なおマルコと違って、患者が「来た」「ひれ伏した」は過去形です。
[2]ひれ伏してマルコと違ってこれは「礼拝する」姿勢です。したがって次の「主よ」もイエスを救い主として信じる言い方です。ただしこの姿勢を尊敬の仕草にとどめて、イエスに対する呼びかけも「先生/師よ」という意味にとる説もあります。これに続く「御心ならば・・・・・」はマルコと全く同じですが、マタイは、この2~3節に物語りを集中させています。
[3]マタイでは、イエスの「メシアの秘密」を隠す姿勢はマルコほどではありません。しかしマタイでは、この癒しが、御国の到来を告げる終末的な意味を帯びているようです。
[4]供え物を献げてマルコにある「清めのための(献げ物)」が抜けているのは、マタイは、「清め」はイエスが行なうもので、祭司はただそのことを確認して宣言するだけだと見ているからです。ただし、ここでのイエスは、癒された人に律法に従うように命じています。

■ルカ5章
 ルカの物語構成は、病の癒しの後での人々の反応とイエスが退いて祈ったことなどが加えられていて、マルコよりも整った形になっています。「主よ」や「すると見よ」や「その人に触れる」の語順、さらに「深く憐れむ」が略されているなど、マタイとルカは共通して現行のマルコと異なるので、ふたりは別の版のマルコを持っていたのではないかという説もありますが、確かなことは分かりません。ルカもこの癒しをマルコと同じ一連の癒しの出来事の中に置いて記しています。ところがルカは、この癒しのすぐ前に、シモン・ペトロの召命の記事を挟んでいます。この点がマルコやマタイと大きく異なります。ただし、ルカは、この記事をイエスの癒しのひとつの事例としてあげていて、特に意識してこの物語を配置しているようには思えません。
[12]ある町におられたとき原文は、「イエスがたまたまある町におられた時」となっていて、前後の関係をあまり意識しないで不特定の町を指しています。ただし、その前の召命の記事からの続きと見れば、ゲネサレトの湖(ガリラヤ湖の北西部の沿岸で、その北東にカファルナウムがあります)の近くの町になります。
そこに原文は「すると見よ」で、マタイと同じです。
【ひれ伏し】「頭を深く下げる」あるいは「頭を地面につけて」の意味。また「主よ」とあるのは、この場合、直前のシモン・ペトロの言葉を思わせますから、イエスをメシアとして敬い信じる気持ちを表わしているととるほうがいいでしょう。
清くなれルカはこの種の「重い皮膚病」との関連で「清くなる」を繰り返し用いています。これは単なる病気癒しの意味ではなく、罪の赦しと救いと霊的に「清められる」ことを意識しているからでしょう。4章27節/5章12節/7章22節/17章14節を参照。
[14]厳しくお命じになったルカはここで公式に「命令する」を意味する動詞を用いています。イエスが旧約の律法に従うように命じたのか、それともその人を再び復帰させるために、譲歩のつもりで言ったのかが問題にされますが、ルカはモーセ律法を必ずしも軽視していませんから、ここでもモーセ律法に従うように命じたと解釈するほうがいいでしょう。
[15]イエスのうわさ原文は「イエスについての言葉」。「言葉」は単数で、イエスのことを伝える福音を意味する言い方です。癒しの結果、人々はイエスの教えを「聴こう」として集まってきたのです。
[16]人里離れた所に退いてルカだけがその後のイエスの様子を伝えています。ここはマルコ1章35節を反映しているのかもしれません。
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