36章 断食と婚礼の客
マルコ2章18〜22節/マタイ9章14〜17節/ルカ5章33〜39節

【聖句】
マルコ2章
18ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。
そこで、人々はイエスのところに来て言った。
「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、
なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
19イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。
花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。
20しかし、花婿が奪い取られる時が来る。
その日には、彼らは断食することになる。
21だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。
そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
22また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。
そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

マタイ9章
14そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。
15イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。
しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。
16だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。
新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。
17新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。
そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」

ルカ5章
33人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。
しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」
34そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。
35しかし、花婿が奪い取られる時が来る。
その時には、彼らは断食することになる。」
36そして、イエスはたとえを話された。
「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。
そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。
37また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。
そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。
38新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。
39また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。
『古いものの方がよい』と言うのである。」

【注釈】

【講話】

■「罪の赦し」と断食
  今回の項目に先立つ記事では、レビ、すなわち十二弟子のひとりのマタイです、この人が徴税人でありながら、イエス様の召命を受けて弟子に加わったこと、そしてたぶんマタイの家でお祝いの宴会が開かれて、「罪人や徴税人」が招かれたことがでています。これを批判したファリサイ派の人たちに向かって、イエス様は「健康な人には医者は要らない。要るのは病人だよ」と言われ、さらに「私が来たのは罪人を招くためだ」と言われます。どうして徴税人が「罪人」と一緒にされるかと言えば、この人たちは、ローマの政権から委託を受けて税金を徴収していました。ところが税金は請負制で、あるまとまった金額さえローマに納めれば、残りの集めた金は全部自分のものになったのです。だから彼らはずいぶん苛酷な取り立てをしたようで、このために民衆から憎まれたのです。
  今回の箇所は、内容的にその前のイエス様の言葉「罪人を招く」こととも関連しています。ですからここでも「罪の赦し」の問題が関わっていますから、「断食」は「贖罪のための」断食を意味しているのです。しかし、この「罪の赦し」をめぐる背景はかなり複雑です。そこでこの問題を時代の流れに沿って見てみましょう。
 先ずクムラン宗団の時代です。この宗団は長い歴史を持つのですが、その最終期は、イエス様がお生まれになった頃からユダヤ戦争の頃(後68年)までです。クムランでは、律法に従う「きよめ」がとても重視されました。ですから、宗団の人たちは、できるだけ一般の俗人から自分たちを分離しようとしていました。ちょうどカトリックの修道院と同じです。宗団の中では、常に罪と汚れからの悔い改めがおこなわれ、水の洗いによって罪の体をきよめる儀式が繰り返しおこなわれました。彼らは「光の子」と「闇の子」とをはっきり区別して、「光の子」はますます光に近づき、「闇の子」はますます闇に堕ちると考えました。だから、自分たちを「罪深い」生活をしている世間の人たちからできるだけ分離しようとしたのです。クムラン宗団の周囲にはこれに見習う一般の人たちもいました。これらの人たちをエッセネ派と呼びます。この人たちは、結婚をして日常生活を営んでいましたが、律法を厳守して自分たちをこの世の罪人から分離するという考えでは一致していたのです。
 ところが、洗礼者ヨハネが現われました。彼はおそらくクムラン宗団の中からでた人だと思われますが、これまでの宗団のやり方とは全く異なる仕方で罪の悔い改めと赦しを宣べ伝えました。彼は、クムラン宗団がそれまで交わりを拒否してきたまさにそのひとたち、つまり一般の人たちに終末が近いから罪を悔い改めて神に立ち返るように呼びかけたのです。だから彼は、終末の裁きとこれの備えとしての悔い改めを全ユダヤのさまざま職業の人たち呼びかけて洗礼を授けました。ただしその洗礼は一回限りの「悔い改め」の洗礼でした。ただし洗礼者ヨハネは、ユダヤ教の律法を遵守する立場を崩すことはありませんでした。
イエス様にある御霊の働き
 イエス様は洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。しかしイエス様はやがて洗礼者ヨハネから独立して教え始められます。イエス様は、洗礼者よりもさらに貧しい人たちや病人、またユダヤ社会で「罪人」とされている人たち、徴税人や病人や娼婦のような人たちです、こういう人たちとも交わりながら、御霊の力によって癒しをおこない、罪の赦しを伝えました。洗礼者ヨハネは、終末の裁きに備えて罪を悔い改めるように教えたのですが、イエス様は、聖霊の御臨在によって、現在すでに神様の力が働いて、「今この時に」罪の赦しが起こっていることを証しされたのです。前回お話しした中風の人の癒しもその例のひとつです。その上に、イエス様の罪の赦しは「絶対無条件」です。何一つよい行ないがなくても、ただイエス様を信じて求める人に癒しと赦しを授けられたのです。でも、イエス様御自身はそれまでのユダヤ教の律法を積極的に破ることはされなかったようです。しかしながら、エルサレムの神殿制度とこれに基づく腐敗したユダヤ教を厳しく批判しました。このためにユダヤの指導者たちによってピラトに訴えられ、十字架刑に処せられたのです。
 イエス様の復活以後のキリスト教会も悔い改めと罪の赦しを宣べ伝えました。聖霊の働きによる罪の赦しが、ユダヤ人だけでなく、それまで聖書の神と縁がなかった異邦人にも伝えられました。しかし、ユダヤ教の伝統的な律法と罪の赦しとの関係については、さまざまな立場をとる人たちがいました。この点について、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人のキリスト教徒では立場が異なりました。エルサレム教会のイエス様の「兄弟」と呼ばれたヤコブは厳格にユダヤの律法を守りました。これに反して、「ギリシア語を話す」ユダヤ人たち、例えばバルナバやパウロのようなユダヤ人たちは、ユダヤ教の律法から比較的自由になって、イエス様を信じる信仰だけで罪が赦されるという福音を伝えたのです。この「律法なしに」、つまり人間のよい行ないや業無しに信仰によって救われるという福音の最先端を行ったのがパウロです。ですから、パウロと主の兄弟ヤコブとのふたり立場には、かなりの開きがあったと思われます。こうしてペトロやバルナバやさまざまの人がそれぞれに自分の立場に立って伝道していたのです。
  例えばアンティオキアの教会などは比較的ユダヤ人キリスト教徒が多かったためか、従来の律法を守ろうとする人たちが多かったようです。マタイ福音書はこの教会を背景にしていると思われます。これに対しガラテヤやフィリピやコリントでは、聖霊の働きによって比較的自由な集会をしていました。ところが、ユダヤ人キリスト教徒の一部の人が、ガラテヤを訪問してきて、ユダヤ教の律法を守るように教えたのです。このために混乱して、このことを心配したパウロがガラテヤ人への手紙を書いて、聖霊による自由な信仰こそ正しい福音であると説得したのです。一方ではキリスト教の宗団とは別に、洗礼者ヨハネの宗団もファリサイ派も、ユダヤ教の律法に従った生活をしていました。
■古いものと新しいもの
 今回の箇所は、こういう複雑な過程を背景にしているのです。話の中に洗礼者ヨハネの弟子たちとファリサイ派とが出てくるのはこのためです。イエス様はここで、継ぎを当てる布きれのたとえとぶどう酒を入れる革袋のたとえを用いて、「古いもの」と「新しいもの」とが、どういう関係にあるのかを説明しておられます。でも、最後の結論の所は、共観福音書の間でも微妙に違っていますね。マタイでは、「古いものも新しいものも両方長持ちする」とあって、従来のユダヤ教の伝統と新しいキリスト教の教えとの調和を求めているのがわかります。マタイ福音書は、多分アンティオキアの教会などが背景にあるので、ユダヤ人キリスト教徒の考えが反映しているのでしょう。これに対して、マルコでは、結論抜きでたとえだけが語られていて、「新しいものは新しいやり方で」と割り切っています。ルカでは、「古いものになじんでしまうと、新しいものを求めなくなる」と言って、洗礼者ヨハネやユダヤ人たちが、なかなか福音を受け入れないことを批判しているのでしょうか。あるいは教会が再び断食などのユダヤ教の律法に引きずり込まれないよう注意しているとも受け取れます。ルカの集会は、パウロ系なのでこの点を警告しているのです。
■多様と一致
 「罪の赦し」は、聖霊のお働きによって絶対無条件に与えられます。しかし、御霊に与り、罪の赦しを与えられた後でも、それ以後の信仰の在り方にさまざまな条件を付けて、もっとこうしなければならない、ああしなければならない、とまあいろいろなことをいろいろな人が言います。現在のキリスト教会にも実にさまざまな立場の人や宗団があって、イエス様を信じて罪赦されるという点では一致していますが、聖霊の働きや洗礼の仕方や聖書解釈などには、いろいろと違った意見があります。しかし、この場合に最も大切なのは、やはりパウロの信仰の在り方ではないでしょうか? 彼は、既成の律法的な宗教やこれに伴う儀礼、割礼だとか祭日だとかにとらわれない福音の最も大切な核心だけを伝えました。しかも、「罪の赦し」と「イエス様の十字架の恩寵」というこの始めであり終わりである「福音の真理」を曲げることなく、どこまでも真っ直ぐに貫きました。
 このように、聖霊の働きが進行するにつれて、「古いもの」と「新しいもの」とが、互いにいり混じって、時には衝突したりしますから、そこに様々な問題が生じるのは避けられません。この事情は現在でも同じです。画一的な教義と礼拝形式で全体を統一している教団は別ですが、御霊が働くときには、多様性は避けられません。と言うよりも、多様性こそ御霊の働きそのものです。
 ぶどう酒と革袋のように、新しい御霊の働きはどうしても新しい形態を要求します。逆に新しい集会のあり方をそれまでの古いやり方に無理に合わせようとすると、訳が分からなくなります。御霊の体験に与っても、私たちはついそれまでの自分のやり方に安住して、もっと先を進もうという気持ちを失いがちになります。常に前進している人には、今までのやり方が「古いもの」というよりは「古くなる」のです。しかし、物事が「古くなる」ということは、それまでのよいものが新しいものに活かされ吸収されていなければなりません。だから、不必要なものはなにか? 新しく必要なものはなにか? なにが一番大事か? これをきちんと見分けていかなければなりません。これを正しく知るためには、祈りが大事です。御霊によって歩む場合は個人でも宗団でもそうですが、自分が変革されることを怖れないことです。しかし無理に人まねをする必要もありません。多様でいいんです。それぞれが自然でいいんです。それぞれが自分の歩みを互いに大切にする。そこから、多様の中にも一致が生まれます。
だがそのような一致は、常に新たに進む軸となる御霊の働きがなければ生まれません。常に漸進する軸が一本通っていれば、それを求心力にして、様々でもまとまっていくことができます。「景教碑文」の中に「三一淨風是無言之新教」(三位一体の聖霊、無言にして教えを新たにす)という一句があります。絶対無条件の罪の赦し、これは御霊の働きの中で初めて成就する出来事です。私たちの集会は、御霊にある無条件の罪の赦しを最も大事なこととして信じていきましょう。では終わりにエフェソ人への手紙2章の15節〜17節を一緒に読みます。
戻る