【注釈】
■今回のたとえ
マタイとルカは、マルコの記事を下敷きにしています。またこの記事は、三福音書共に、これに先行するレビ(マタイ)の召命とこれに伴う宴会の場でのイエスの言葉、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くため(悔い改めさせるために)」から続いています。イエスの教えもその生活態度も従来のユダヤ教とは全く違っていたことが、このレビの召命と宴会の記事の背景になっています。これを受けて、断食に関する問答が続くことになります。ここには、「花婿」と「継ぎを当てる布」と「ぶどう酒の革袋」との三つのたとえが引用されています。これらは本来別々の話であったのですが、「布」と「革袋」のたとえがまず結合し(トマス福音書の宗団において?)、これに花婿のたとえが後から結びついたと考えられます。
布とぶどう酒の革袋のたとえは、古いものと新しいものとを対比させていて、この二つのたとえは、トマス福音書(48)にも出ている古い伝承です。これに対して、花婿のたとえは、洗礼者ヨハネとイエスとの対比を指しています。ちなみにヨハネ福音書でも(3章22節以下)、イエスと洗礼者ヨハネとが花婿とその友人とにたとえられています。またルカ7章18節以下には、洗礼者ヨハネ宗団とキリスト教宗団との関係に触れて、「弔いの歌」と「宴会の歌」のたとえが出ています。このことから判断すると、洗礼者ヨハネ宗団は、ヨハネの死後もその宗団を維持していて、長らくキリスト教会と競合関係にあったと推定できます。今回の「断食と婚礼の客」の項目は、洗礼者ヨハネ宗団とユダヤ教のファリサイ派、これに対する新しいキリスト教会との間で、断食をめぐるあり方が問題になり、それが洗礼者ヨハネ(花婿の友人)とイエス(花婿)との関係と重ねられて、さらにこれに布きれとぶどう酒のたとえが加えられたものだと考えられます。
■マルコ2章
マルコは、2章1節から3章6節まで、イエスの癒しと言葉の事例5つをあげて、それぞれにファリサイ派や律法学者からの批判を併せて述べています。この断食問答も、その中のひとつとして記してあるのでしょう。マルコでは、質問者が「ファリサイ派の人々」になっていますが、イエスの弟子たちを批判するのは、ファリサイ派の弟子たちと洗礼者ヨハネの弟子たちのふたつです。どちらも当時のマルコたちのキリスト宗団と競合していた宗派であったからでしょう(ただしファリサイ派には通常「弟子」と呼ばれる人はいません)。イエスではなく「弟子たち」の断食が問題にされているのは、この記事が、イエス復活の後の教会で行なわれた論議だからです。
[18]【断食していた】罪の赦しを願う大贖罪日(ユダヤ暦7月10日:レビ記16章29節以下)には、一切の食事と入浴が禁じられていました。ユダヤ教では、断食は神の前での悔い改めのへりくだりを意味し、贖罪のための苦行とされていたからです。この日以外にも特別の苦難の時には、断食が行なわれました。
[19]【婚礼の客】原語は「新婚の部屋の子たち」。花婿に招かれた友人たちのこと。パレスチナでは婚礼は非常に重視されていました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」は、イエスの言葉そのままです。メシア到来の時のこのような宴会は、ユダヤ教ではなく、むしろクムラン宗団から出ているのかもしれません。なおこの節の後半の「花婿が一緒にいる限り」は、次の節に続けるためのマルコの付加です。
【断食できるだろうか】マタイでは「悲しむことができるだろうか」で、ルカでは「断食させることができるだろうか」となっています。
「20」【花婿が奪い取られる】「花婿」とは、旧約では神のことですが、新約ではイエスです。「花婿が一緒にいる限りは」と限定をつけて、これに続けて「しかし、その日には、彼らは断食することになる。」とあります。この節はマルコの付加です。イエスの存命中は断食をしないが、以後には断食を復活させるという意味で、マルコの頃は、教会でも再び断食が行なわれるようになっていたと思われます。イエスは、「奪い取られたその日」から終末の再臨の日まで、教会から「取り去られている」のです。これはイエスの御霊にある臨在を否定するものではありませんが、イエス自身は、教会から離れているとマルコは考えていたからです。
【かの日には】イエスの死を省みる日のこと。復活節直前の日か、毎週金曜日か、特定の曜日を指すものです。後に書かれた「12使徒の教訓」(ディダケー)には「あなたがたの断食は、月曜と木曜に断食する偽善者どもと同じであってはならない。あなたがたは水曜と金曜に断食せよ。」とあります。マルコでもたぶん金曜日を指しているのでしょう。
[21]この節も次の節もイエスにさかのぼると見られています。マルコとマタイのたとえでは、織りたての生地は目が粗く充分に収縮していないから、これを古服の継ぎに用いると洗濯した時に新しい布が収縮して服が破れるという意味です。これに対してルカでは、新しい服からわざわざ生地を切り取って、古い服に継ぎを当てると両方とも使い物にならなくなるというのです。どれも要するに、イエスの変革は根本的ですから、中途半端な「継ぎ接ぎ」ではだめだということです。これらのたとえは、新しいキリスト教会が、従来の伝統的なユダヤ教とどのような関係にあるのかが問われていたからです。
[22]【革袋を破り】未発酵の新しい葡萄酒は、発酵の圧力が強く、古い皮袋を浸食するからです。新しいぶどう酒はキリストの福音を指し、新しい革袋はキリストの教会を指すと考えられます。
■マタイ9章
マタイだけが、この断食問答を始めたのは「ヨハネの弟子たち」であるとしています。マタイは、洗礼者ヨハネ宗団とファリサイ派とを一つにして、同じ論争の相手と見なしているのかもしれません。なお先行するレビの召命の場での宴会は、終末のメシアの宴会とも結びついてくるのでしょう。洗礼者ヨハネ宗団では、終末に備えて、悔い改めの断食をしばしば行なっていました。これに対してイエスは、天の国がすでに到来したという終末的な喜びにあって、「飲み食い」していたからです(マタイ11章2〜19節)。
[17]【両方とも長もちする】マタイのこの結びは、マルコともルカとも異なっていて注目されます。マタイはここで、古いものと新しいもの両方が保持されると言っているのではありません。そうではなく、イエスの福音(新しいぶどう酒)と新しい生き方(新しい革袋)とが、両方保たれると言うのです。なぜ、マタイはこの「両立」をことさらに強調するのでしょう? マタイは、イエスの福音が、同時に「新しい律法」でもあることを指していると思われます。マタイは、イエスの教え(新しいぶどう酒)が、旧約の律法を破棄するものではないことを言いたいのです(5章17節以下)。旧約の律法は、イエスによって新しく霊的な律法(新しい革袋)として、教会の伝える「天の王国」の大事な支えとなることを語りたいのです。
■ルカ5章
マタイとマルコでは、「なぜ断食しないのか」とあって、断食を「守らない」ことが非難されています。ところがルカでは、「飲んだり食べたりしている」とあって、より積極的に断食を破っているのが分かります。ユダヤ教からみればこれは許しがたい行為でした。ルカはまた、36節で「イエスはたとえを話された」を挿入して、以下がたとえであることをはっきりさせています。しかし、39節のルカの結びは、特に注目されます。「古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言う」とあります。これは、「古いものがよい」と言っているように受け取れますので、ルカはここで、むしろユダヤ教とキリスト教との連続を勧めているという説もあります。ルカの教会は、ギリシア・ローマの世界にあったから、マルコやマタイのように、パレスチナでのファリサイ派や洗礼者ヨハネ宗団とキリストの教会との論争は、問題にならなかったからでしょう。しかし39節は、人々が古いものに安住してしまうと新しいものを求めなくなる恐れがあると警告しているという解釈もあります。
[33]【度々断食】ルカ福音書には(ルカ18章12節)、ファリサイ派が週二回断食を守っていたとあります。
[35]【その時には】マルコは「その日には」とイエスの取り去られる日を明確に指していますが、ルカはそうではなく、イエスがいなくなった「その後の期間」のことを指しているのです。ルカにとってそれは、十字架以後の教会の時代です。
[36]【破り取って】は「切り取って」(口語訳)の意味。
【新しい服も破れて】「新しい服はきずものになる」(フランシスコ会訳)という意味。新しいものも古いものも両方とも使い物にならなくなること。この点でマルコとはやや異なっています。