139章 サタンに縛られた女
ルカ13章10〜17節
【聖句】
■ルカ13章
10安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。
11そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
12イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、
13その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。
14ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
15しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。
16この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」
17こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
【注釈】
【講話】
■身体の癒やし
 今回の出来事も身体の癒やしで始まります。イエス様の御霊は、わたしたちの身体にも働いて、体と心、人の霊をも救いに導いてくださいます。福音書で言う「救い」は体の癒やしをも含む言葉です。ただし今回の癒やしの特徴は、それがイエス様のほうからの働きかけで起こったことです。
 会堂へ礼拝に来ていた女の人は、曲がった腰を人に見せないように、おそらく説教壇から離れたところに座っていたのでしょう。ところが思いがけず、イエス様のほうが彼女に呼びかけて、わざわざみんなの前に来させた。そして「あなたの病は癒やされた」と語りかけながら、その曲がった腰に手をお当てになると、不思議に腰がまっすぐになり、直立して歩けるようになった。人々も驚いたが、一番びっくりしたのは当の本人でしょう。「ハレルヤ」を連発して神をほめたたえたことでしょう。
■安息日の業
 イエス様のほうから癒やしを働きかけたのはわけがあります。その日は安息日でしたから、病気癒やしは医療の「働き」だと見なされて禁じられていました。ところがイエス様は、これを承知で、あえて彼女を呼び寄せて癒やしの業を行なわれた。これは当時の安息日制度に対する批判だと解釈されています。「批判」には違いありませんが、イエス様の行為をそのような社会的あるいは宗教的な抗議(プロテスト)だと見なすのは、この出来事の真意を十分理解しているとは言えません。
 批判や抗議は、その人なり制度なりを非難したり否定したりすることですが、イエス様は「安息日制度は誤りだ」とか「その規定は間違っている」などとは言われませんでした。安息日のことも制度のことも、いっさい言われませんでした。ただそこに居た女の人を癒やされた。それだけです。批判めいたこと、非難らしきことはいっさい口に出しません。言葉ではなく、起こった出来事で語られたのです。これが大きな反響を呼んだ。人々は安息日のことをことさらに口にしたわけではありません。宗教制度と起こった出来事を関連づけたわけでもありません。「よかった、よかった」「神様のみ業はすばらしい」とそれだけをみんなで喜び合ったのです。
■出来事を見る視点
 ところがこの出来事を全く異なる観点から見ている人たちがいたのです。「出来事」は何も語りません。しかし、出来事はこれを見る人、語る人、体験する人によって、どのようにも解釈できます。だから出来事は「あらゆることを語る」のです。会堂長は、癒やされた女の悦びにも、これを共に喜ぶ人たちにも、神様への感謝にも、いっさい関心を示しませんでした。彼が一番気にしたのは、会堂の制度を支える安息日規定のことです。彼の頭には、イエス様の行為が安息日規定に違反しないかどうか、ただそのことだけが問題だったのです。これに違反していれば、その行為を認めた自分の立場が危うくなる。彼は<そのこと>を恐れたのです。
 幸いな出来事も、人々の幸せも、神様のすばらしい恵みも、民を幸せにする出来事も、これを「恐れる」人たち、こういう人たちがこの世には存在するのです。権力を握る者たち、国家や社会の制度を管理し支配する者たち、こういう人たちは、人間の幸せや神様の恵みなどにはいっさい関心を持たない人たちです。人の悦び、民の幸せを喜ぶには、この人たちは「あまりにも利口すぎる」からです。彼らの頭は、起こった出来事が及ぼす自分への損得勘定、それだけです。自分たちの利益、自分たちの権力、これに差し障りがあるかないか、ただそのことだけを、驚くべき正確さで、驚くほど敏感に、しかもみごとな早さで察知するのです。
 こういう人たちは、自分たちの気持ちを人々に悟られるような「下手なやり方」は決してしません。自分がしようとする本音を人々悟られないように「利口に」振る舞います。だから直接イエス様に文句を言ったり、イエス様を批判したりはしません。そうではなく、病気を治してもらうのなら、もっと別の日があるだろう。ことさらに安息日でなくても、平日にやってもらえば、上からにらまれることもなく、無難に「事を荒立てずに」すむだろう。こう言って人々を牽制したのです。大きな声で言わなくても、権力者の声は、たとえ低く穏やかでも、その意図は十分すぎるほど効き目があります。権力の脅しは、低く静かなほど恐ろしいことを人々はよく知っているからです。
 しかしイエス様は彼の目論見を見逃しませんでした。会堂長の言動には、イエス様が行なわれた出来事を根底から否定する脅しが含まれていることを察知したからです。イエス様は、安息日を否定したり、非難したり、制度に対して「抗議する」こともなさいませんでした。イエス様が行なおうとしたのは、安息日の「本来の意義を」もう一度取り戻すことで、死にかけている安息日制度を生き返らせることにあったからです。一般的に言って、制度の歪みは、制度それ自体への批判によって是正されることはありません。その制度の根源へと立ち帰ることによって、そこから<創造的に>とらえ直して、新たに造り出すことが大事だからです。たとえ直接的な批判や非難を含まなくても、新たな出来事を「創り出す」行為こそ、制度の歪みに対する無言の最も効果的な批判の力だからです。 ルカ福音書は、今回の出来事の結びで、「群衆は神を賛美し喜んでいた」と人々の喜びが持続的継続的であることを示唆しています。起こった出来事は一回でも、これがもたらす働きは、それ以後も永続するのです。
■創造の御業
 今回の癒やしは、終始イエス様の主導によって行なわれました。人々はこの癒やしが、イエス様の意志、イエス様のお考えから出ていると思い、人間としてのイエス様に目を奪われました。会堂長は、外側の「人間イエス」だけを見て、安息日を無視あるいは否定していると思ったのでしょう。イエス様のなさる業は「そうとしか」映らなかったからです。地上のイエス、歴史のイエス、人間イエス、こういう姿だけに目を留めて、イエス様がどういうお気持ちでみ業をなされているのかが見えないのです。イエス様に働きかけておられる「父の御心」、天地を創造された神御自身のお働き、これこそイエス様に働いておられる聖霊のお働きであり「イエス様の霊性」にほかならないことを人々は悟ることができないのです。
 出来事を起こすのは、歴史のイエス様でありながら、そのイエス様のみ業には、天地を創造された神御自身の御業が<隠されて顕われている>こと、これを悟ることができないのです。わたしたちには、<隠されている>そのことが<顕わされる>という<啓示の不思議>を悟ることがなかなかできないのです。だから、イエス様が、なぜわざわざ安息日に、このような癒やしを行なわれたのか、その真意を悟ることも洞察することもできません。イエス様が求めておられたのは、安息日をお定めになった神の御心とその真意をもう一度取り戻すことであり、そうすることで安息日を<新たにする>ことでした。イエス様の業から神御自身の御業へと人々の目が開かれ、神による新たな時代が始まったことを人々に知らせることこそそのお心だったのです。
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