【聖句】
■ルカ13章10~17節
今回の癒やしの出来事は、「いちじくの木」のたとえと「からし種」のたとえの間に置かれています。このため今回の出来事にも、「実を結ばないユダヤ教の会堂と癒やされたキリスト教会との対比」などの比喩的な解釈があります。しかし、ルカは自分の特殊資料(L)の順番に従ってこの出来事を配置していると単純に考えるほうがよさそうです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1010頁〕。ただし、11章37節のファリサイ派への批判に始まり13章31節以下でのエルサレムのための嘆きまでの間に、教えやたとえや癒やしなどの違いがあるものの、全体として「警告する」内容が多いと言えましょう。
今回の出来事は、旅の途中でイエスが安息日に会堂の礼拝に出た時のことです。そこへ同じく礼拝のために出てきた腰の曲がった女性がいて、イエスが彼女を「束縛から解放した」のです。安息日の会堂での癒やしはルカ6章6~11節にもでていますが、これはイエスの伝道に関する「基本となる福音伝承」〔フィッツマイヤ前掲書〕です(マタイ12章9~14節/マルコ3章1~6節/ルカ4章31~37節)。ただし、イエスの意図は安息日を破棄することではなく、むしろこれの本来の意義を取り戻すことにあるのを見逃してはならないでしょう〔プランマー『ルカ福音書』341頁〕。今回の癒やしには、「アブラハムの娘」「サタン」など注目すべき用語が用いられていて、癒やしが「束縛」と「解放」というキーワードで解釈されているのが特長です。
■注釈
[10]【安息日に】原文は「安息日(複数)のある日」ですが、この言い方は単に「安息日(単数)に」と同じ意味です(ルカ4章31節)。これ以後は、イエスが安息日に教えることがありません。指導層から諸会堂へイエスに対する禁止命令が出たからでしょうか〔プランマー『ルカ福音書』341頁〕。「教えておられた」という持続的な言い方は、イエスがそれまでも同じ事をしばしば行なっていたことを表わします。
[11]【そこに】原文は「すると見よ」。突然の意外性を表わす言い方です。
【病の霊】原文は「虚弱を起こす霊」で、「虚弱」は病気一般を指します(英語の"infirmity" )。「霊」とありますから16節の「サタン」と関連づけて、この「霊」を「悪霊」と見なし、イエスはここで悪霊追放を行なったという見方もありますが、そうではなく、ここで言われているのは通常の「病気癒やし」の事例です。イエスが「手を置いた」とあるのもこの意味で、ことさらに悪霊を意識した仕草ではありません。
【18年間】長い間その状態が続いていたことを表わします。腰が「二つ折り」に曲がっていたのは骨髄の癒着から来ていたのでしょう。
[12]~[13]【呼び寄せ】アオリスト(過去)形の動詞は11節の長期の状態と対照する「その時」の出来事です。この女性はイエスの語る場所からかなり離れたところに座っていたのでしょう。今回の癒やしは女性の側からの依頼ではなく、終始イエスのほうから彼女に指示を与えています。この日が安息日であることを考えあわせると、そこにイエスの意図を感じさせますから、14節で会堂長はこの点を取り上げているのです。
【病気は治った】原文は「あなたはその病気からもう解放されている」で、こう語りかけながら手を置いたのです。「解き放つ」は16節の「縛られていた」に対応しています。「手を置いた」もイエスが病の癒やしの際に行なうことです(4章40節)。
【まっすぐに】背骨の癒着が離れてまっすぐ伸びたのでしょう。
【神を賛美する】イエスの言動が「その時」の出来事を表わすのに対して、女性の病気も癒やされた後の賛美と感謝も持続的・継続的な言い方になっています。
[14]【腹を立て】イエスによる癒やしの出来事が、周囲に波紋を広げ、会堂長がこの出来事に「立腹する/憤慨する」態度に出たのです。理由はイエスが「安息日に<働いた>」からです(出エジプト20章9節=申命記5章12~15節を参照)。彼はイエスの行為が当時の安息日規定に違反すると判断したので、この癒やしに「介入した」〔REB〕のですが、直接イエスには言わずに、会堂に集まる人々に向かって「注意」しています。彼は癒やしだけでなくイエスその人に近づかないように警告したのでしょう〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1013頁〕。ちなみにルカ5章49節以下にはイエスが進んで会堂長の娘をよみがえらせたことがでています。
[15]~[16]【主は】ここで「イエス」から「主」に変わりますが、イエスの父である神は、安息日でも命を育て造り出す「働き」を止めることなく続けています。だから主イエスも父の業を行なうことを安息日でも止めないのです(マルコ2章27~28節)。ここでは「あなたたち」と複数の人たちに呼びかけていますが、これは当の会堂長を含むパレスチナの指導層への批判を表わすためです(マタイ23章を参照)。
【偽善者たちよ】原語の「偽善者」には単数の異読もありますが、「あなたたちそれぞれは/あなたたちのうちでだれか」とありますから、本来は複数でしょう。「偽善」という言葉は、日本語では、悪いと知りつつあえて外側を善く見せることを指します。聖書の「偽善」にもこの意味がありますが、たとえ本人が「悪い」と思わなくても、神の目から見て不正・不義である場合にも「偽善」と言います(ガラテヤ2章13節の「見せかけ」は今回の「偽善」と同じ原語)。安息日に癒やしの業を「働く」ことについてはルカ14章3節/ヨハネ5章16~17節を参照してください。今回の癒やしは終始イエス自身の導きによって行なわれていますから、この点でヨハネ福音書のイエスの癒やしと類似しています(ヨハネ5章5~9節)。
【安息日にも】安息日に動物の移動が許される距離について、クムラン宗団ではほぼ1キロ弱という規定がありました〔マーシャル『ルカ福音書』558頁〕。しかし、ファリサイ派の間でも必ずしも一定の規則があったわけではないようです。
【アブラハムの娘】創世記15章13節以下の主ヤハウェとアブラハムの契約は、「アブラハム契約」として捕囚以後も拡大解釈され、ユダヤ教徒と異教徒を区別するユダヤ教の神学的な基礎となりました。イエスの頃でも、アブラハム契約は割礼と安息日規定の基本となっていました。「アブラハムの娘」という今回の呼び方は、この契約を思い起こさせることで、安息日の意義を根底から見直すことを迫るものです。
【サタンに縛られて】「あなたたちは数時間飼い葉桶につなぐ動物でさえ安息日に水を飲ませに連れて行くのに、サタンが18年間縛り付けていたアブラハムの娘を安息日に病から解放するのがなぜいけないのか?」ここでイエスは、安息日でも癒やしの行為が「許されるかどうか?」ではなく、安息日「だからこそ」アブラハムの娘を悪魔から解放<するべきではないか>と問いかけるのです。安息日を「解放の記念日」するべきか?それとも「サタンの束縛に留まる日」とするべきか? 神が定めた安息日を神の御心に従って「守り実行する」のはどちらなのか? これがイエスの問いかけです。アブラハムの娘に対するイエスの行為が「なすべき正しいこと」だとしている点で、当時のパレスチナの宗教制度を根幹から解釈し直しているのです。なお「サタン」については、コイノニアホームページ→聖書講話→四福音書補遺→サタンの項目を参照してください。さらに詳しくは、同ホームページ→聖書講話→ヘブライの伝承→10章「堕天使伝承と新約聖書」の前半をお読みください。
[17]イエスに反対する宗教的指導層は沈黙して面目を失い、イエスの癒やしを喜ぶ民衆はこぞって喜んだのです。特定の「時の出来事」と、これに伴う持続的な波及効果が対照的です〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)280~81頁〕。同時に、この出来事が少数の上層部と多数の庶民の分裂を誘っている点に注意する必要があります。この分裂はルカ文書の特徴の一つだと言えましょう(23章27節/同35節)〔前掲書281頁〕。
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