140章 狭い戸口
ルカ13章22〜30節
【聖句】
■イエス様語録
狭い戸口から入りなさい。入ろうとする人は多いが、そこを通ることができる人は少ない。
家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまったなら、あなたたちが外に立って戸をたたき、「御主人様、わたしたちにも開けてください」と言ったとしても、「お前たちを知らない」と言うだろう。
その時、あなたたちは言いだすだろう。「わたしたちはあなたと一緒に食べ、また飲みました、また、わたしたちの広場で教えを受けたのです。」
しかし彼はあなたたちに言うだろう。「お前たちを知らない。わたしから立ち去れ。不法を行う者どもよ。」
多くの人々が、東から西から来て、アブラハム、イサク、ヤコブと共に神の国で宴会の席に着く。しかしあなたたちは外(の暗闇)に投げ出され、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
最後の者が最初に、最初の者が最後になる。
(Q13:24〜30)
■ルカ13章
22イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。
23すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
24「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
25家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
26そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。
27しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
28あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
29そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
30そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
【講話】
■努力と摂理
今回の箇所では、救いに与るために狭い戸口から入るように「努力しなさい」とあります。イエス様の教えをただ「聞く」だけで済ませていた人たち、イエス様との交わりの場に「出る」だけでそれ以上は深入りしなかった人たち、こういう人たちがいざ神の御国へ入ろうと戸口まで来ると、イエス様から「閉め出されて」しまうのです。イエス様は彼らに、「わたしはあなたたちを<知らない>」と告げるのです。
聖書で言う「知る」は、深い人格的な交わりに入ることを意味します。イエス様の御霊の御臨在に与って、イエス様の人格的な霊性を「悟る/知る」ことを指します。ヨハネ福音書ではこれをイエス様の「エゴー・エイミ」(わたしはいる)に与ると言います。だからいい加減な「イエス様信仰」ではだめで、「イエス様に信じ入る」(believe in Jesus)心がけです。人間の努力や意欲だけでなく、神様からの導きと働きかけがなければこれを達成することは不可能です。だから「努力する/努める」は、努力<させられる>こと、我知らずこれに向かうように<仕向けられる>のです。「受動的能動」です。
ところが、今回の箇所は、どうもそれだけではないところが難しいです。後半に、アブラハムやイサクなど神に選ばれたイスラエルの民の父祖の名前がでてきて、彼らの子孫だとされるイスラエルの民の中からも、御国の外へ投げ出されて悔しい思いをする人たちが少なからず出るというのですから厳しいです。努力した分だけ認められてそれだけ多く報われるのかと思うと、どうもそうではないようです。
マタイ20章1節以下には、努力しなくても、最後に来た者が初めから働いていた者と同じ報いを受ける話がでてきます。東西南北から大勢の「よそ者」が招かれてくるかと思えば、先祖からの神だと信じて頼みにしてきたイスラエルの民の中からも「外の暗闇に」放り出される者たちが出るというのですから、これは不思議と言うか、恐ろしい「逆転」です。逆転はこれだけにとどまりません。ルカ16章19節以下のラザロの話にあるように、「今泣いている者」と「今笑っている者」との間にも逆転が起こります(ルカ6章21節/同24〜25節)。聖書では、民族的逆転、宗教的逆転、社会的逆転が語られるのです。
だから、人間の努力は大事だけれども、これだけではどうにもならないところが神様のご計画にはある。こういうことが分かります。古代ギリシアの人はこれを「運命」、あるいは「宿命」と呼びました。しかし、「運命」と「宿命」には人間の努力が全く入らないから、これは聖書がここで言う「神のご計画」とは違います。聖書では、神のご計画のことを「摂理」(英語の "providence") と言います。神様は、人間にはどうしても分からないことを「前もって」(「プロ」の意味)ちゃんと「見て」(「ヴィデオ」の意味)おられるのです。しかもそこには、人間の意志も努力も全部が含まれています。人の「努力」と、人の意志を超えた「逆転」、この相矛盾するように思われる二つのことが今回はひとつになって出てくるのです。
■進化と淘汰
『広辞苑』によれば、「摂理」には、「神のご計画」という意味だけでなく「自然の理」という意味もあります。だからここで、自然界の法則に譬(たと)えて、努力と逆転を考えてみたいと思います。人の努力を生命が「進化する」力の源だとすれば、逆転は、生命が自然界によって「淘汰」される現象に近いと言えましょう。だからここで、「自然淘汰」による生命の「進化」(分岐)との類比においてみたいと思います。
実は今わたしは(2014年4月)、週刊朝日の『地球46億年の旅』というシリーズを購読しています。これによると、地球上の生命の源は、なんと宇宙に広がる塵(宇宙雲)の中に含まれる元素から来ているのです。宇宙の塵に含まれる生命の源となる諸元素が、隕石となって地球の海中に沈み、海底深くにあって、地熱によって噴き出る硫黄の熱泉の周辺で化学変化を起こして生命の源となる単細胞が形成されたというのです。
この原始細胞は「シアノバクテリア」と呼ばれていて、酸素を含まない硫黄の熱泉の周辺でしか生きられない性質を持っていました。ところがこのシアノバクテリアは酸素を発生するために、酸素が徐々に海中から大気へ広がり始めたのです。これが起こったのは27億年前のことで、それから3億年の間に、今から24億年ほど前に、地球の大気が酸素を多く含む「大酸化時代」を迎えることになります。酸素は細胞をも酸化しますから、酸素に触れたシアノバクテリアは死滅します。ところが、生命体はここで、細胞を酸化から守る核を持った「真核細胞」へ進化します。これが「ミトコンドリア」と呼ばれる細胞で、この細胞は酸素の中で生き延びることができたのです。しかも大気中の酸素が大気圏で薄いオゾン層を作ってくれたお陰で、太陽から地球に注がれる紫外線が妨げられて、地上での生命体の存在が可能になりました。今から9億年前のことです。こうして、酸素で死滅する細胞から酸素によって二酸化炭素を吐き出す細胞へと生命体が進化します。しかしこの「進化」はそれまで酸素なしで生きてきた生命体の死滅という大きな「逆転」を伴ったのです。
その後も、地球は8億年前に「雪玉地球」(スノーボ−ルアース)の時期に襲われます。その原因は未だに謎ですが、陸地の拡大により陸地から海へ流れ込んだ大量のカルシウムイオンが海中の二酸化炭素と結合して、その結果大気中の二酸化炭素ガスの層が薄くなり、地熱が大気圏に逃げ出したことによるようです。8〜6億年の間、陸地には数千メートルの、海でも千メートルもの雪氷が地球を覆い、このためにそれまでの生物が大量に死滅しました。ところがここでまた逆転が起こります。
この地球を溶かしたのは、地中のマグマが発生する炭酸ガスです。雪層の隙間から漏れる炭酸ガスは、氷雪のために地球には光合成する生物も海も存在しないので、そのまま大気圏に溜まり続けて、このため太陽光による温室効果が加速度的に上昇して、極寒の地球から今度は摂氏50〜60度の熱い地球へと変貌したのです。生命体にとって、地球の環境は逆転に次ぐ逆転を経て、その度に大量の死滅と僅かに生き延びた生命の進化という過程を繰り返してきたのです。だから現在地球に生息する生命の源は、これらの時代を何とか生き延びたごくごく微量の生命体が進化したものです。実はこの段階での生命体もほとんど死滅して、現在の地球の生命体の起源は、この後に来るカンブリア紀に始めて誕生したものです。こういう逆転劇はまだまだ続きます。
生命は、この地球上で、逆転に次ぐ逆転の中を生き延びて、そのたびに新たな進化を遂げてきたのです。
■進化と逆転
マタイ8章5節以下では、イエス様にその信仰をほめられた異邦人の百人隊長と、これに比べて「外の暗闇に投げ出される御国の子たち」(マタイ8章12節)、すなわちイスラエルの民がはっきり対照されています。しかも異邦人に伝えられたイエス・キリストへの福音信仰は、イスラエルの民の長年の血の滲む努力とこれによって進化を遂げたイスラエルの霊性に負うところが大きいのです(ローマ11章11〜24節)。イスラエルは神に捨てられて、異邦人のキリスト教徒が救われるというこの逆転は、再びイスラエルの民が救われる「再逆転」を予想させます(同11章15節/同23節/26節)。
それどころか、注意しないと、イエス・キリストの恵みとその救いに甘んじている現在のキリスト教徒が神に捨てられて、全く予想もしなかった人たちが救いに入れられるという逆転が今後生じるかもしれません。だからと言って、これまでのキリスト教徒の歩みが無駄になるのではありません。それどころが、過去二千年のキリスト教会の霊的伝統こそ、これからのキリスト教の源となり、そこから離れてはわたしたちの救いは存在しないのです。この二千年間に、キリスト教はその霊性において大きな進化を遂げてきました。「人権思想」「性差別/人種差別/階級差別」の撤廃、「個人の自由」などは、福音的霊性の長い間の進化の賜です。
しかし今、キリスト教は大きな曲がり角に来ています。かつてのユダヤ人から異邦人への逆転から、現在ではユダヤ人による再逆転への兆しさえ見えます。それだけでなく、キリスト教の歴史において、今までエクレシアを担ってきた民から、全く新しい民へとエクレシアの福音が移し変えられる時が来ている。今回のルカ福音書13章28〜30節は、このことを示唆しているように思われます。「最後の者が最初になる」と。これは同時に、従来の福音の大きな変容を、すなわち福音的霊性の「進化」を伴うでしょう。
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