【注釈】
■イエス様語録注釈(Q13:24~30)
【戸口】マタイ7章13節では「門」、ルカ13章24節では「戸口」です。
【入ろう】マタイ7章13節では「入る人」、ルカ13章24節では「入ろうと努める人」です。マタイ7章14節では「見いだす者は少ない」、ルカ13章24節では「入ろうと努めてもできない人が多い」、語録は「そこを通ることができる人は少ない」です。
【家の主人が】ここから「知らないと言うだろう」まではルカ13章25節とほぼ同じです。これの並行箇所はマタイ25章10~12節にあります。
【その時】ルカ13章26節は「その時」で、マタイ7章22節では「かの日には」です。これ以下もルカ福音書と同じです。なおマタイ7章22節では、イエスの弟子(と称される)人たちが「主よ」と語っているのが分かりますが、ルカ13章26節の「あなたがた」は誰のことなのか特定できません。
【彼はあなたたちに言う】マタイ7章23節は「その時わたしは彼らに宣告する/明言するだろう」ですが、ルカ13章27節は「言うだろう」です。
【立ち去れ】マタイ7章23節は「わたしの前から消え去れ」で、ルカ13章27節は「わたしから離れて立ち去れ」です。
【不法】マタイ同上の「不法を働く」は、ルカ同上では「不義を働く」です。
【多くの人たち】ここから「歯ぎしりするだろう」までは、ほぼマタイ8章11~12節と同じです。マタイ8章11節の「東から西から」はルカ13章29節では「東から西から、また北から西から」です。マタイ同上の「天の国」がルカ13章28節では「神の国」になり、マタイ8章12節の「御国の子たち」かルカ13章28節では「あなたたち」です。またマタイ同上の「外の暗闇へ」は同上ルカでは「外へ」です。
【最後の者】ここはマタイ20章16節をほぼ踏襲しています。
    〔ヘルメネイアQ406~19頁〕〔Dewey. The Gospel Parallels. 317-18〕
■ルカ13章22~30節の構成
 イエスとその一行がユダヤ地区のエルサレムへ向けて旅立つのはルカ10章51節に始まります。一行の旅の経過は10章38節にもでてきますが、今回の13章22節から、旅の後半に入ることになります。旅の後半では、「神の国」へ入る者と閉め出される者についての警告が全体の主題を構成しています。ただし神の国の主題は、すでに13章6節以下の「実らないいちじくの木」(「ぶどう園」は御国のたとえ)と同18節以下の「からし種」と「パン種」のたとえにも表われています。このユダヤへの旅はひとまず18章30節で終わり、そこからは、エルサレムを目前にしたエリコから(19章1節)エルサレムへの入城になります(19章28節)。
 今回の13章22~30節は、ひとつのまとまりとして扱われていますが、内容はそれほど緊密ではなく、資料に基づきながらも、ルカなりに「まとめて編集した」と言えそうです。ここは26節を中心に、その前後がふたつに分かれて、交差法による対称形を形成しているという見方もあります〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)308頁(注)1〕。
 22節は新たな区分を示すルカの編集です。23節にイエスへの問いかけが来て、24節以下がこれに対する長い答えになっています。答えは、24節で「狭い戸口から入れ」という命令で始まり、25~27節では対話形式で語られますが、ここは「入る」のではなく「閉め出される」ほうです。28~29節は、おそらくイエスの言葉で、御国に入る者と閉め出される者の最後の姿が描かれます。30節は締めくくりのコメントの言葉です。
■同上の資料
 全体の構成はマタイ福音書よりもルカ福音書のほうが語録のまとまりに近いことが分かります。マタイ福音書のほうは、語録のまとまり全体を5箇所(マタイ7章13~14節/同25章10b~12節/同7章22~23節/同8章11~12節/19章30節)に分けて、それぞれにマタイの編集を加えて配置し直しています。
 ルカ13章22節はそれまでを受けて、旅の後半へつなぐためのルカによる編集です。23節も22節と共にルカの編集でしょうか。24節は、マタイ7章13節と並行しますが、「戸口」と「門」の違いが目立ちます。ルカ福音書の「戸口」は後の「戸を閉める」につながりますから、これはルカの編集でしょう。語録の復元に際しては、ルカ福音書のほうが語録に忠実で、マタイ福音書のほうに編集が多いと言えますが、逆にマタイ福音書のほうがルカ福音書よりも資料に忠実な場合もあります。あるいはQmtとQlkという別個の語録から、マタイとルカに伝えられたのがそれぞれに編集されたと見るほうがいいかもしれません〔デイヴィス『マタイ福音書』(1)695頁〕〔マーシャル『ルカ福音書』563頁〕。
 25節はルカ福音書だけです。ここは、マタイ25章10~12節の10人の乙女のたとえに似ていますが、置かれている文脈も内容も全く違います。両者に共通する伝承があり(語録にあったものか?)、マタイが省いた資料をルカのほうが採り入れたと見ることもできましょう〔マーシャル『ルカ福音書』563頁〕。
 26~27節は、マタイ7章22~23節に似ています。マタイ福音書では偽りの弟子たちのことですが、ルカ福音書では不特定の人たちです。「不法を働く」と「不義を働く」の違いがありますが、おそらく共通する(語録からの?)伝承から出ています。不特定の人を指すルカ福音書のほうが本来の形でしょう。
 28~29節は語録からで、マタイ8章11~12節と並行します。どちらもそれぞれに編集を加えていますが、マタイ福音書では百人隊長の息子の癒やしの後に続きますから文脈が異なります。また、「御国の宴会の席に着く」ことと「外で泣きわめく者」の順序がルカ福音書とマタイ福音書では逆になっています。ルカは「不義を働く者」について言うために「泣きわめく~」をこれに続けたと思われますので、マタイ福音書のほうがほんらいの語録の順序でしょう。
 30節は共観福音書に共通していて、マタイ福音書では重複してでてきます(マタイ19章30節/同20章16節/マルコ10章31節/ルカ13章30節)。ここは『トマス福音書』(4の2)「多く先の者は後の者となるだろう」〔荒井訳〕とも共通しますが、これは高齢の老人と子供の関係についてですから文脈が全く異なります。語録のこの言葉は、ほんらい独立した言葉伝承(諺か)だったために、口伝の過程で、あるいは福音書記者の編集によって、異なる文脈で伝えられたのでしょう。ただし、マタイ19章30節はマルコ10章31節から出ています。
■ルカ13章注釈
[22]【教える】ルカ福音書のイエスの旅は、同時に弟子たちや人々に「教える」目的もあります(12章1節/同22節)。大勢の人たちを前に「狭い戸口」を語るイエスの「教え」の旅が続きます。
【進んで】原文は「旅をする」。ここでイエスは人々に「教える」ことと、メシアとしてエルサレムへ向かうことの二つの行為を行なっているのに注意してください。
[23]イスラエルの民は、北王国イスラエルがアッシリアによって滅び、南王国が新バビロニアによって滅び、捕囚から帰還した後も、前2世紀半ば頃のマカバイ戦争によって、多くの殉教者や死者が出ました。したがって、「生き残った」者たちが「救われた」者たちなのです(イザヤ書37章32節の七十人訳は「エルサレムから<残りの者>が、シオンの山から<救われた者>が出るであろう」)。しかも、その救いもまた主の計らいによるものですから、「主が共に居て」初めて「救われる」少数の者となることを知っていました(同38章16節)。この意味での「比較的少数の救われる者」という考え方は、イエスの頃だけでなくそれ以後のユダヤ教とキリスト教にも受け継がれます(使徒言行録2章47節/第一コリント1章18節/ラテン語エズラ記7章47節/同8章1節)。ただし、このことを踏まえた上で、同時に「イスラエルの民全部の救い」を待ち望む信仰もラビ的ユダヤ教において生き続けました。したがって、「少ないでしょうか」という問いは、救われる者の割合や比率を統計的に尋ねているのではなく、自分が救われるためにはどうすればいいのかをより切実に尋ねているのです〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)311頁〕。ルカ福音書では、「救われる者」とは御国に入ろうと「<努力している>者」であると同時に御国に入ることに「<成功した>者」のことで、彼は「永遠の命」を受け継ぐのです。
[24]【戸口】ルカ福音書ではマタイ福音書の「広い門」と「狭い門」の対比ではなく、「狭い戸口」だけです。マタイ7章13節の「<狭い>門」には「苦難」(英語の"straight")の意味がありますから、これは終末的な困難を堪え忍ぶことでしょうか〔ルツ『マタイ福音書』(2)570頁〕。ただしルカ福音書の「狭い戸口」は語録から出ていますから、マタイ福音書と直接の関連性はないでしょう〔マーシャル『ルカ福音書』565頁〕。マタイ福音書の「門」は古代都市の城門で、夜にはその扉が閉められましたが、城門の脇に一人だけが通ることのできる小さな「狭い」門が設けられていました。終末が迫った夕暮れ時に、そこから「駆け込む」少数の人の姿が想像されます。おそらく都市の広い門と脇の狭い門の対比から、マタイ福音書では「二つの別個の門」が祝福と滅びの門として編集されたのでしょう(申命記11章26節参照)。ルカ福音書では、語録の「戸」を採り入れて、農園の主人の屋敷を囲む塀の「入り口」へと編集し直されています。入り口の「戸を閉める」のは家の主人です。「戸を閉める」たとえは、マタイ25章10節では終末を指しますから、ルカ福音書のここにもマタイ福音書の終末性が幾分反映しているのかもしれません〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)312頁〕。
【努めなさい】原語「アゴニゾー」は古代ヘレニズム世界で広く行なわれたオリンピア競技などで「力の限りを尽くして競い合う」選手たちの姿を思わせます。しかし、今回の「競い合い」は人の内面の弱さや敵(サタン)との「競い合い」であり自分との「闘い」です(ルカ22章44節「イエスの<闘い>はますます厳しくなり祈り続けた」/同18章18~27節/フィリピ3章13~14節/第一コリント9章24節/テモテ4章8~10節)。「努力しなさい」は命令法現在形ですが、「入る」のは将来の終末でしょうか。今回の戸口が御国の宴会場の入り口だとすれば、これはルカ14章15~24節のたとえにつながります。ただし14章の御国の宴会に入るのは神の無条件の恩寵から出た選びによるものです。だからルカ福音書では、13章1~9節で「時のしるし」を知って「悔い改めて」実を結ぶことに始まり、今回では御国へ入ろうと「努力する」ことへ移り、さらに14章では、神からの絶対的な恵みによって終末での御国に与ることへ到達する、という一連の過程が見えてきます。
【入れない人】「入れない人が多い」は、質問の「救われる人は少ないのか?」に対する間接的な答えです。いったいだれが「戸を開ける/閉める」のかはこの段階でまだ語られていません。この「入れない」は、続く「戸を閉める」に関連していて、ここでも「狭い」が終末の時に「締め出される」ことと重ねられてきます。「わたしはあなたたちに言う」が間に挟まり込んでいますから、「狭い戸口」から、視点が「努力しなかった者」が「成功しない」ことへ移りますが、14章15~24節の宴会のたとえと比較してみると、人の側からの「努力」と神の側からの絶対無条件の「恵み」の両方が相互に比較対照されてきます。「最適者生存」という自然科学(自然人類学)の視点から見るならば、ここでは人間の努力による「進化」と神の選びによる「淘汰」の両方がバランスを保っているのです。
[25]【戸を閉める】24節の「入る戸」からここで「閉じられる戸」に変わります。25節は「いったん~した時は/したなら」"when once..." 〔NRSV〕〔REB〕で始まりますから、25節は24節と一つながりです〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)312頁(注)28〕。マタイ福音書では「主よ」が神/イエスへの呼びかけであることが分かりますが、ルカ福音書では「家の主人」が出てきますので、この点がはっきりしません。ただし26~27節で、「ご主人」がイエスであることが分かります。この25節はマタイ25章1節以下の「10人の乙女」のたとえに通じるところがあります。終末の夜が到来して戸が閉じられた後では、閉め出された者たちは「遅すぎた」のです。
【知らない】それでも「顔見知りの者」であれば、脇の小さな戸口から(?)何とか入れてもらえるかもしれません。しかし、ここで主は彼らに「わたしはあなたたちを<知らない>」と告げます。神とキリストの「知り合い」かどうかということと、来るのが「間に合うかどうか」という、この二つのことがここで示唆されています。「知る/知らない」については次を参照してください(エレミヤ書9章22節/イザヤ書63章16節/ヨハネ8章19節/第一コリント8章3節/第二テモテ2章19節)〔ボヴォン前掲書313頁〕。
[26]【言い出すだろう】これが文頭に来ます。「言い出す」は、直説法未来形から接続法未来形へ読み替える有力な異読が幾つもありますから、25節の「いったん戸を閉じたなら~」を受けて、ここも「言い出したとしても」の意味にもなりましょう。25節の「言う」に続けて再び「言い出す」のですから、これは主人の行為に対する反論です。
【食べたり飲んだり】26節はマタイ7章22節と内容が全く異なります。ルカ福音書もマタイ福音書もイエスの周辺にいた同時代の人たちであることに変わりありませんが、マタイ福音書ではイエスの伝道の業に近いことをしていた人たちですが、ルカ福音書ではイエスと「飲み食いした」とあって、彼らとイエスの「親しさ」を強調しています。彼らはまた「広場や通りで」イエスの教えを聞いてもいます。しかし、飲み食いしたり教えを聞くだけで、彼らがそれ以上に深くイエスを信じてその教えを実行しなかったことが、ほかならぬその陳述が暴露していることに彼らは気づかないのです。
[27]【不義を行なう】「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」は七十人訳詩編6篇9節とほぼ同じですが、七十人訳の「不法」が今回は「不義」になっています(マタイ7章23節では「不法」)。この詩篇は、おそらく死の病から神に見放されたと思う作者が主に助けを祈り求めています。「不義」は旧約では大事な言葉で、人間の「罪」それ自体を総称する言い方です。この語はパウロ書簡に多くでてきますが(第一コリント8章8節/同13章6節/ローマ1章18節/同2章8節/同9章14節など)、マタイ福音書にはなく、ルカ福音書はここだけです。心から神に立ち帰る決心がつかないままに「遅すぎた」者、ただ「見て聞く」だけで心から参与しなかった者に向けられるこの厳しい叱責は、ルカ福音書からの「神の民」へ、あるいは人類への警告です〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)314頁〕。なおルカ福音書ではこの叱責は家の主人の言葉ですが、マタイ福音書(7章23節)では「わたし=イエス」が明言しています。
[28]~[29]28~29節はマタイ8章11~12節と並行しています。しかし、ルカ福音書とマタイ福音書では、置かれている文脈が全く違います。マタイ福音書では、異邦人の百人隊長の信仰が賞賛された後に続けて、イスラエルの民の中には「外の暗闇に追い出される」者が出るという警告が来ます。ここでイスラエルから異邦人への福音の転移が予告されますが、転移というより「逆転」に近い厳しさをイスラエルにもたらします。これはマタイの編集によるのでしょう。
 これに対してルカ福音書では、旧約で預言されているとおり、散らされたいるイスラエルの民が再び神の国へ集められますから、語録ほんらいの意図が受け継がれていると言えます。しかし、中には「外に投げ出される」者も出ると予告されます。ここでは、当然御国の宴会に与ると思い込んでいた者が排除されて、思いがけない人たちが宴会に与るというイスラエルの内部での「逆転」が予測されており、かつ、福音がイスラエルから異邦人へと拡大することが見透されています。ここにルカの救済史的な視野を読み取ることができましょう〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)314頁〕。
【そしてそこで】新共同訳にはありませんが、原文は「そしてそこでは」で始まり、閉じられた戸口の前で起こることが語られます。
【すべての預言者】これはルカ福音書だけの編集句です。イスラエルの三人の父祖と「すべての預言者」は、旧約時代に神に選ばれたすべてのイスラエルの民の代表としてあげられていますから、旧約で預言されていた選ばれたイスラエルの民全員が再び集められることを表わします。
【泣きわめき】旧約では、「泣きわめく」も「歯ぎしりする」も神に逆らう者への警告ですが(アモス8章3節/シラ書30章10節)、新約では特にメシアの到来と共に訪れる終末の時のことです(ルカ6章25節/マタイ22章13節/同24章51節)。イスラエルの民の間で特権を享受する者とそうでない者との逆転が生じるのですが、同時にその逆転が、イスラエルと異邦人との間にも生じるという二重の逆転劇をルカ福音書に見ることができます(使徒言行録7章54節参照)。しかしこの逆転は、今度はキリストを信じるキリスト教会の中でも生じるとルカ福音書は警告しているのでしょう。
【東から西から】マタイ福音書では「東西」だけで、ルカ福音書は「東西南北」からです。終末に「地の果てに散らされていた」イスラエルの民が神によって再び集められることは申命記30章4節に預言されていますが、「東から西から」も同様の意味を持ちます(イザヤ書43章5節)。ルカ福音書ではこれに「南から北から」が加わっていますが、これも同様の意味でしょう(詩編107篇3節)。ただし、新約ではこの言い方が、イスラエルだけでなく全世界の「主に選ばれた民」を指すことになります。
【宴会の席】原語は「横になる」でこれはヘレニズム世界での宴会の席の姿勢です。終末での神による「すべての民」への宴会はイザヤ書25章6~8節にすでに描かれていますから、これの起源を特にクムラン文書に求める必要はないでしょう。新約でもこれが、全世界の選ばれた民の宴会としてイエスのたとえにでてきます(ルカ14章15節以下)。
[30]この節はマルコ10章31節=マタイ19章30節/マタイ20章16節/ルカ13章30節の4箇所で並行しています。マルコ福音書(とマタイ19章30節)では、福音のために家兄弟を捨てた者への報いの最後に来ていますから、御国へ入る懸命の努力とこの節が結びついてきます。これに対して、マタイ20章16節のほうは、ぶどう園の持ち主が「後から来た労働者」にも先のものと同様の賃金を支払うというのですから、人間の努力とは直接結びつかない「神の自由裁量」が強調されています。これは神の民としての特権と誇りを維持してきたユダヤ人が福音から漏れて、「後から来た」異邦人のほうが「先に御国に与る」という救済史の不思議を語るものでしょう(ローマ9章19~33節)。今回のこの30節は、この世において宗教的、社会的、経済的に特権を与えられている者も、そうでない者も、神の計らいによって結局は公平に扱われることを言おうとしているとも受け取れます〔マーシャル『ルカ福音書』568頁〕。ルカ福音書では、「狭い戸口」から入ろうと努力する者への救い(24節)と同時にユダヤ人と異邦人との交代劇も視野に入りますから(28~29節)、救済史の摂理と「義を行なう」人間の努力の両方が含まれてきます。問題の焦点はイエスにどこまで忠実に従うかどうかにかかってきます。この点でイエスこそ「門」であり「道」であるというヨハネ福音書に近くなると言えましょう(ヨハネ10章7~9節/同14章6節)。
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