142章 水腫の人を癒やす
ルカ14章1〜6節
【聖句】
■ルカ14章
1安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
2そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。
3そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」
4彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。
5そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」
6彼らは、これに対して答えることができなかった。
【講話】
■安息日の癒やし
5世紀の初頭、エジプトのアレクサンドリアの主教であったキュリロスは、今回の水腫の癒やしをとりあげて、安息日の規定を霊的に解釈し、イエス様の癒やしは安息日規定を破ったのではなく、その救いの業によってファリサイ派の人たちに改心を呼びかけたと説教しました。中世になると、「水腫」は貪欲(酒の飲み過ぎ?)のしるしだと解釈され、キリストがこれを癒やしてくださったと教えられました。16世紀の宗教改革で、ルターは今回の箇所をとりあげて、イエス様の業は律法を超えた愛の業であり、安息日を破るどころか、正反対に安息日を成就されたと説きました〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)347頁〕。
このように、今回の箇所は、一貫して、イエス様は安息日規定に違反した行為を行なったのではなく、逆にファリサイ派の人たちこそ、自分たちも同じ行為をしながら、イエス様を批判していると解釈されてきました。イエス様は決して安息日破りではなかった。逆にイエス様に逆らう者たちのほうが安息日の律法の意義を貶(おとし)めて、これを無効にすることで安息日にこめられている神の御心に背いている。このように解釈されてきたのです。
ここで注意したいのは、「ファリサイ派」が一貫して悪者扱いされていることです。ファリサイ派/パリサイ派は、日本のクリスチャンの間でも「パリ公」などと呼ばれて、愛犬「ハチ公」ならぬ嫌悪される狂犬並みに扱われているようです。聖書解釈の伝統を否定するつもりはありませんが、今回の箇所を読むと、どうも「パリ公」だけで片付けてしまうことができない実状をルカ福音書が伝えているのではないかと思うのです。
■ファリサイ派指導者の招き
今回の癒やしは、安息日での礼拝の後で、ファリサイ派の指導者の一人がイエス様を昼食に招いたことに始まります。これは彼の悪意から出た企みで、イエス様を訴える口実を作るために罠にかけようと、わざわざ病人を目の前に座らせて、イエス様の出方をじっと監視していた。このような解釈もありますが、わたしはどうもそうではないように思うのです。指導者になるほどの人なら、相当に度量のある人で、霊能のうわさの高いイエス様を招いて、自分の目でイエス様を確かめてみたい。こういう想いから食事の席に招待した。このように見るほうが公平でしょう。その場には、律法の専門家たちも同席していましたから、彼は言わば、律法学者たちとイエス様との間で、宴会のホストとして、中立の立場でイエス様を観ていたと思われます。だからこの指導者は、下っ端役人がやるように、故意に罠にかける浅ましい根性からイエス様を招いたのではないでしょう。
こういう場合の宴席の実状がよく分からないので、推測するほかないのですが、施しを兼ねて大勢の人たちが招かれていたのか、あるいはイエス様が下層の「罪人」たちと共に食事をすることを知っていたので、水腫の人が紛れ込んでもこれを容認したのか、その辺りはよく分かりません。ルカ福音書の出だしは、「時にイエス様がファリサイ派の指導者の家に出かけて、安息日に食事をする出来事があった」です。「時に出来事があった」をルカ福音書のつなぎの常套句だと片付けてはいけません。ルカ福音書は、イエス様の歩みを「父の神の配剤の下で生じる出来事」と観て描いています。だから、招いたファリサイ派の指導者も、イエス様も、そしてこれを機会にぜひ病気を癒やしてもらおうと入り込んだ水腫の男も、だれ一人その場で何が起こるかを予想した人はいなかったのです。宴席の人それぞれには、それぞれの思惑がありますが、そこで起こる「出来事」は、まさに「神のみぞ知る」で、誰にも予測できなかった。これがルカ福音書の神の導きの下にある出来事への視点です。
安息日、ファリサイ派の指導者、イエス様、律法の専門家、水腫の人、宴席、これらの組み合わせは、その時その場限りの出来事です。神様の御霊のお働きは、「どこから来てどこへ向かうのか誰に分からない」(ヨハネ3章8節)のですから、イエス様御自身さえ、前もって「安息日破り」を意図していたとは思えません。まして、自分の目の前に、水腫の人が座ることなど予期していたわけではなかったでしょう。不思議な巡り合わせでそうなったので、イエス様は、「今日は安息日だから癒やしの奇跡を行なおう」などと意気込んでやって来られたのではありません。だから、その指導者の悪巧みを匂わせる箇所は今回のどこにもありません。
■ファリサイ派指導者の沈黙
イエス様は、宴席で水腫の人を見ると、すぐに神のお計らいを察知されました。そこでこれから起こることを予測されて、律法学者たちの方を向いて言われます。「安息日に人を癒やすことは許される(正しい)のか?それとも許され(正しく)ないのか?」当時の安息日規定の解釈の細かいニュアンスまで知ることができませんが、ファリサイ派の指導者もその場の律法の専門家たちも、イエス様の問いかけに含まれる真意を正しく聴き取ったのは間違いないと思われます。彼らは、律法の解釈にかけて最上級の見識を持つ人たちだったからです。杓子定規に律法を解釈するのは下っ端役人のすることで、上にいる人ほど物事の判断に含まれる問題の難しさをわきまえています。だから彼らは「黙っていた」のです。すでにイエス様のうわさを聞いていたこの指導層の人たちは、イエス様が何を問いかけているのかを彼らなりに正当に評価していた。今回の場合は、このように見るほうが適切です。
イエス様は水腫の人に手を伸ばして側に来させて、彼に手を置いておそらく祈りの御言葉と共に癒やしてあげた。彼は正式に招かれてきた人ではなかったので、癒やしを受けると、「ここから立ち去ってもいい、すぐお帰りなさい」と言われて出ていきました。それからイエス様は律法の専門家たちに問いかけます。「あなたがたの子供か牛が、掘った深い井戸に落ちたら、安息日でも迷うことなく綱を降ろして引き上げてやらないのか?」
言うまでもなく答えは「引き上げる」です。しかし、今ここで起こっていることは、日常生活での律法の適用問題ではない。今ここで問われているのは、<人間にはできない神の御業>が目の前で起こった時に、それが安息日とどう関わるのか? <これが>問われているのです。安息日を定められた神御自身の<創造の御業>(創世記1章1節〜2章3節)を彼らは、おそらく初めて? 自分の目の前で体験したのです。
天地創造以来、神は地上において常に創造の御業を続けてこられた。その御業は今もなお続いており、人は地上で生起するもろもろの出来事の中で、神の御心を読み取り、その声に従うこと、これこそイスラエルの民が歴史から学んできたことです。律法も安息日も含めて宗教のいっさいは、刻々と移りゆく出来事を通して語られる神の御言葉を聞き取ることで解釈されることが求められるのです。創造の出来事は、それまでの古いものへの無言の批判だからです。
その場に居合わせた律法の専門家たちも、さすがに返す言葉を失ったようです。不思議な神の導きの前では、人は沈黙するほかないからです。後にペトロが、神からのヴィジョンの啓示を受けて、それまで予想しなかったカイサリアの異邦人の家に足を運んで、イエス様の福音を語ると聖霊が降って、聞いているローマ人の異教徒たちが異言で語り出すという出来事が起こります(使徒言行録10章)。ペトロがこの驚くべき出来事をエルサレムの教会で報告すると、それまでペトロの行為を批判していた者たちまでも、神の御霊のお働きの前に言葉を失って沈黙したのです(使徒言行録11章18節)。だからこれは人がなすべき「正しい沈黙」です。
ルカ福音書の語ることを歴史的人間的な視点から、もっともらしい理由を付けて合理化してあれこれ解釈するのもいいですが、ルカ文書が最も大事なこととして伝える聖霊のお働きを軽んじるなら、巧緻な論理の網の目から、人の思いを超えた神の御霊のお働きの真理がこぼれ落ちるおそれがあることを、今回の癒やしの記事は教えてくれます。
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