143章 宴席での教え
ルカ14章7〜14節/マタイ23章12節
【聖句】
■ルカ14章
7イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
8「婚礼に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、
9あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
10招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
11だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
12また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである。
13宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
14そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
■マタイ23章
12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
                       【注釈】
 
【講話】
■宴席での御言葉
 今回は、ファリサイ派の指導者に招かれた宴席で、イエス様がお語りになった御言葉です。会堂での礼拝の後で昼食会を開くのは当時の上層階級ではよくあることでした。こういう席での言葉として、イエス様の御言葉は、招いてくれた人に対してずいぶん失礼ではないかと思う人がいるかもしれません。しかし、古代ギリシアでは、宴会の前後にワインを飲みながら談論・議論に花を咲かせるのが慣わしでした。こういう談論の記録では、ソクラテスとともにエロースの愛について語り合うプラトンの著作『饗宴』(シュンポジオン)がよく知られています。これが現代の「シンポジウム」(学術的な議論の場)となりました。ヘレニズム化したイエス様の頃のユダヤの上層階級でも、宴会では、このような議論が行なわれましたから、イエス様が、宴席あるいはその前後に、今回や次回のような話をされてもおかしくないのです。
 もう一つ注意したいのは、イエス様が言われる「己を高くする人」や「知人や金持ちばかりを招く人」とは、このファリサイ派指導者のことだと思うかもしれません。そうではないでしょう。イエス様のたとえは同席の律法学者たちに向けて語られたものです。このファリサイ派の指導者はなかなか偉い人で、イエス様がどんな方かを承知の上で、あえて自分の宴席に招いたのです。弟子たちも共に居たと思われますから、決して金持ちや知人ばかりを招いたのではありません。だからこそ水腫を患う人が紛れ込むことができたのです。
 紀元4世紀〜5世紀頃のキリスト教会では、今回も次回もイエス様の御言葉は「偽善なファリサイ派」への批判だと解釈されました。律法学者とファリサイ派だけではなく、「ユダヤ人」それ自体が全体として「偽善者」だとされたのです〔ルツ『マタイ福音書』(3)371頁〕。ユダヤ人に対するこういう「パリ公」まがいの偏見が、現在でもキリスト教会に根強く残っています。
 イエス様が律法学者やファリサイ派を厳しく糾弾したのはその通りです。ところががこのファリサイ派の指導者は、そういうイエス様だと知りつつ、あえて自分の宴席に大事な客として招いたのです。そういう彼の意図をイエス様を罠にかけようとした悪巧みだと誤解する注解があるようですが、これも従来の反ユダヤ的な偏見を受け継ぐものです。わたしたちはむしろ、今回のファリサイ派の指導者のように、自分たちを糾弾するその「預言者」をも招待するファリサイ派指導者の柔軟性とその寛大に注目したいのです。イエス様の頃のユダヤ教の指導層も、最初期のユダヤ人キリスト教徒たちも、宗教や信仰に関しては、決して厳格一方でなく、同時に驚くほど順軟性に富んでいたことを見落としてはなりません。
■教会内の指導者
 しかし組織化された教会の場合には、今回のイエス様の御言葉がいっそう大事です。イエス様の御霊にあるエクレシアは、規模の大小にかかわらず、カトリック、プロテスタント、正教にかかわりなく、一人の父なる神の下にあって、エクレシアの「主は一人、師も一人」ですから、ほかにだれもこの主、この師に取って代わることがあってはならないのです(マタイ23章8〜10節)。今回のイエス様の御言葉(11節)の真意もここにあるのでしょう。
 1934年、ドイツの福音主義教会がバルメンで、ナチスに対抗して発したバルメン宣では、「教会は、教会の外に自分の上に立つ権威を認めてはならない」とあります。「教会の外」だけでなく「教会の内」でも、指導者が「神と主イエスに取って代わる」ことがあってはなりません。このことは同時に、教会のメンバーの間にも優劣関係があってはならないというのが今回のイエス様の御言葉の真意だと思います。
 ローマ法王が、聖職者でないごく普通の人の「足を洗う」儀式をテレビで見ました。これは法王が「上に立つ」からと言って、「己を高くする人」ではないことを表わしているのでしょう。けれども、この法王の行ないを見て安心するのは少し早いので、今回イエス様が言われていることは、「組織化された教会」が陥りやすい欠陥を鋭く突いています。
 1630年代のイングランド国教会は、ヘンリー八世からエリザベス女王の後を受けて、チャールズ一世がイングランドの王であり、同時にイングランド国教会の元首でした。国王と教会が一体化したこの体制は「主教制」と呼ばれていますが、イングランドの主教制は、当時のカトリック教会とドイツやスイスのプロテスタント教会の間で揺れていました。スコットランドの長老制や大陸の宗教改革の影響を受けた人たちが、国教会の内部で、自分たちだけの家庭集会を持っていたからです。彼らは「ピューリタン」と呼ばれていました。
 ピューリタン革命前夜のイングランドでは、1641年1月の段階で、国教会内で集会を守る者、国教会から分離する者などさまざまなピューリタン各派が存在していました。分離派の教会は、自分たちの信仰を、現実の生活において生きた模範となるべき「見える聖徒」と規定して、地上を歩む「見える聖徒」たちの集まりは、教会の主であり神の国の王であるキリストによって直接統治されると信じたのです。だから彼らは、自分たちをこの「王なるキリスト」の支配下にある戦士と見なしました。これが「闘うキリスト者」と呼ばれる人たちです。聖徒一人一人を直接統治するこのような「王なるキリスト」と、国家と教会の神秘的統合体の頂点に立つイングランド国王とは、互いに拮抗する二つの宗教的権威としてこれらの人々に意識されるのは避けがたいことでした。このため1641年から42年にかけて、イングランドの主教制を根底から否定する「根絶法案」がイングランド議会に提出され、ピューリタン革命の開始と共に、主教制は廃止され、この状態が1660年まで続きました。この18年間、イングランドは共和制で、長老派、独立派などの教会が生まれました。そこからアメリカへ渡ったのがバプティストです。
 今回のイエス様の御言葉をそのまま突き詰めると、「(御言葉は)教会の組織の有り様と真っ向から対立する。問題は教会の聖職の地位をめぐって問われる。ただキリストだけが師であるとは、それ以外の人間の教師を排除するもので、キリストの教会においては階級制がたとえ聖なる階級といえどもあってはならない、という見解に導かれる」〔ルツ『マタイ福音書』(3)EKK新約聖書註解。375頁〕という結論になりそうです。
 日本には内村鑑三に始まる「無教会主義」があって、これは、上記のような「教会精神」に対する批判から生まれたものです。それなら組織を作らない集まりならいいのかと言えば、そうでもなく、「なりたがりやのディオテレフェス」(第三ヨハネ9節)はどこの世界にもいるものです。「なりたい人ではなく、なってほしい人。」これはどんな職場、どんな団体の指導者にもあてはまる言葉ですが、教会でも同じです。しかし実際はなかなか難しいです。
■低いがゆえに高い
 「高ぶる者」についてはこれくらいにして、今度は「低い者が高くされる」場合に目を向けましょう。もっとも「へりくだりは若い野心家の登る梯子だ」(シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』2幕1場)と言いますから、偽の「へりくだり」と本物とを見分けるのは難しいです。
 しかし、ここでイエス様が言われているのは御国の世界のことで、この世にあっても、霊的な「エクレシア」の領域のことですから、世俗の「へりくだり」とは意味が違います。「自分を低くする者」とありますが、これは自力で己を低くすることではないでしょう。無理に自己を卑下すると「卑屈」に陥ります。そうではなく、自分ではどうにもならない自我を「低くしていただく」ことでしょう。これは主様の御霊のお働きによらなければできません。場合によっては「低くさせられる」こともあります。病気や何らかの災厄に襲われて、自己の無力を悟らされて、主様の前に頭を垂れることもあるからです。
 御霊のお働きによって、自分の非力を悟らされると、その者は「高くされる」のです。ここで「低くされる」「高くされる」とある受動態に注意してください。これは人間の業ではなく、神によって「される」という「神的な受動態」、「神様から人に働くことで、その人が受け身になる」事態を指します。ところが、「神様から人が受ける」受動には、ものすごい霊的な力が秘められています。人間の受動がそのまま神の能動に変じると言ってもいいほどです。「全部イエス様に明け渡したら、ものすごい悦びがワット来る。」かつて小諸の川口愛子先生がそう言っていたのを想い出します。
 「低くされる」モデルはイエス様の御受難であるという解釈があります。正直、神様によって「低くされる」のは時には辛いです。神様の導きによって、己を無にするよう仕向けられる場合があるのです。そういう時には、思い切ってイエス様のみ前に「低くされる」ことです。何もかもイエス様にお任せして、自己を明け渡して思い切って無にされるのです。 
 パウロが「もし誇る必要があるのなら、自分の弱さこそ誇りにしよう」(第二コリント11章30節)と言うのもこの意味でしょう。「誇る者は主を誇れ」(第一コリント1章31節)です。とりわけ神のご奉仕に携わる「聖なるお勤め」は、神からの賜物であり、それゆえ人の諸行の結果ではありません。それは「罪人の頭」(第一テモテ1章15節)だと思う人のみに授与される「栄光」であることを改めて確認する必要があります。伝道も集会も自力がやるものではありません。神が主様を通してお遣わしになる御霊が働いてくださることだけが、唯一の「頼みの綱」です。この一事を忘れると、どのような霊能の聖職者も「高ぶる者」に転じて、その結果「低くされる」ことになります。プロテスタント、カトリックなど宗派や集会の有り様は問題でありません。どんな宗派であれ、集会であれ、ナザレのイエス様の福音が語られる所にはイエス様の御霊が働かれます。これだけがわたしたちの希望であり、慰めであり、そして確かな主の真実であり、わたしたちの信仰です。
                       共観福音書講話へ