【注釈】
■構成と資料
 ルカ14章1節~24節までを全体として見ると、ファリサイ派指導者の招きによるイエスの宴席での水腫の人の癒やしから(2~6節)、宴席での客(ゲスト)のたとえ(7~11節)へと移行し、それが主人(ホスト)への教え(12~14節)へと続き、それから神の宴会のたとえ(15~24節)が来る構成をとっています。「出来事」と「たとえ/諭し」と「諭し/戒め」と「御国のたとえ」の四つがゆるやかに関連し合っているのです。
 今回の箇所だけに限ると、宴席へ招かれる客(ゲスト)への教えと(7~11節)、招く主人(ホスト)への教えの(12~14節)二つに分かれていて、どちらも「そこで(イエスは)言われた」で始まり、「食事に招かれた時」と「食事に招く時」/「座るな」と「呼ぶな」/「誰かもっと偉い人が来るかもしれない」と「彼らがお返しに招き返すかもしれない」のように並行する形を採っています。
 1~14節までは(11節を除く)ルカ福音書だけの記事なのでこれはルカの独自資料(L)から出ています〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1044頁〕〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)351頁〕。ただし、今回の宴席でのたとえに類似した御言葉は、ルカ11章43節/20章46節にもでていて、それらは共観福音書と共通します。 
〔ルカ福音書の「たとえ」について〕
 今回特に問題なのは7節の「たとえ」(パラボレー)です。前半の客の態度から採られた「たとえ」は、一見すると「たとえ」よりはむしろ箴言やシラ書の伝統に立つユダヤ教の「知恵の諭し/教え」に近いので、これもほんらいは「知恵の教師」の言葉として伝えられたのではないかと言われています。今回の前半を締めくくる11節は、独自資料(L)からではなくイエス様語録(Q)からで、これも「たとえ」ではないように見えます。今回に類似したルカ福音書の「たとえらしくないたとえ」の例は18章9~14節のファリサイ派と徴税人の「たとえ」にも見られます。後半の招待する主人へのイエスの言葉は、「たとえ」と言うよりむしろ「教え/心得/戒め」だと言えましょう。
 ほんらいは譬えで語られていたイエスの言葉が、伝承の過程で「勧め」や「諭し」や「教え」に転じたのをルカ福音書は資料にあるままに「たとえ」として伝えているのでしょうか? 言い換えるとイエスほんらいの「たとえ」がユダヤ教の伝統的な「知恵の諭し」へ転じたのでしょうか? あるいは、ユダヤ社会一般の「宴席の心得」が、11節を加えることでイエスのたとえに変えられたのでしょうか? どうもそうではないようです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1044頁〕。
 ヘブライ語の「マーシャール」には「たとえ/謎/格言/諺」などの広い意味があり、特に現実の出来事/状景を「たとえ」として用いるのはユダヤの伝統として決して異例ではありません。だから、イエスの場合も例外ではなく、今回のイエスの「たとえ」をイエスの真正の言葉で<ない>と見なす理由はどこにもありません(例えばマルコ10章35~45節)〔マーシャル『ルカ福音書』581頁〕。だから、ルカ福音書も、水腫の癒やし以後の三つのイエスの話全体を「たとえ」と見なしているのです(16節以下は明らかに御国の譬えです)〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)353頁〕。このように、イエスは、日常ありがちな状景を神の御国の視点から「たとえ」として霊的に洞察することを教えています〔プランマー『ルカ福音書』356頁〕。これもルカ福音書を読む際の大事な心得です。
■注釈
[7]文頭に「(イエスは)招かれた人たちにたとえを語った」が来て、その理由が続きます。だからここでは、宴席での「作法」や「心得」についてでなく、「御国に招かれた者の心得」を霊的な師や視野から語っています。
【招待】「招待/招かれる」はこの章の8節/9節/10節/12節/13節/16節/17節/24節にでてきますから、一貫した鍵語です(ルカ5章32節/7章39節をも参照)〔マーシャル『ルカ福音書』581頁〕。
【上席】イエスの頃のユダヤでは、日常は椅子に座るか(貧しい人たちは床に腰を下ろして)食べるのが普通でした。しかし、宴会では、当時のヘレニズム世界の風習にならって、低い大きな食卓を三方から囲むように置かれてある長椅子のクッションの上に左向きに身を横たえる(右手を自由に使えるように)のが普通でした。
 宴会に招かれた客は、食堂に隣接する広間で、宴会の主人からワインと「突き出し」が振る舞われ、客はその際お祝いの言葉を述べるのが作法でした。僕(奴隷)たちは客の右手を洗うための水を用意して客に振る舞いました。水腫の癒やしが行なわれたのはこの際ではなかったかと思われます。招かれた客が全員そろうと、隣室の食堂へ移り、宴席に着きます。席は主人が指名するが通常ですが、今回の場合のように自由に座る場合もあったようです。通常、「コ」の字型あるいはU字型の中央に主人が座り、宴の始めと終わりにワインで挨拶をおくるのが慣わしでした。主人の左(向かって右)が最上席で、右が次席になります。ユダヤ社会ではペルシアの影響とヘレニズム世界の影響が混じり合っていたので、「上席」とはどの場所のことか確かでありませんが、食卓に向かう3人用の寝椅子では、真ん中が最も高く、左側が次で、右側は三番目になります。ギリシア世界では、通常寝椅子は二人用から四人用までありました〔プランマー『ルカ福音書』356頁〕。
【気づいて】原文では「客たちの様子に注目して」ですから、ただ席の優劣だけでなく、それを選ぶ客たちの様子に目を留めたのです。
[8]~[9]【婚宴に】原文は「あなたが誰かに宴会に招かれた時」で、まず「招かれる/召される」で始まり、招いた主人(ホスト)が出てきて、次に「宴会」が来ます。ホストは「神」であり、「宴会」はアラム語で婚宴の意味をも含んでいます(ルカ12章36節)。今回の宴会は16節以下の「盛大な宴会」へつながります。この宴会は婚宴/結婚の披露宴を指すと思われますから(マタイ22章2節を参照)、今回のも「婚宴」と訳したのでしょう(ルカ12章36節も同様)。御国の到来を婚宴に譬えるのはマタイ25章1節以下、ヨハネ3章29~30節、ヨハネ黙示録19章9節を参照。
【上席に着く】「(食卓に)着く」は「身を横たえる」ことで、この用語はルカ福音書だけです(7章36節/9章14節/24章30節)。
【身分の高い人】「招かれている」は完了形で、あなたよりも先に身分の高い人がすでに招かれていること。「身分の高い」は「名誉を受けるに値する/尊い」ことです。通常、社会的に身分の高い人は、宴会の時間にちょうど間に合うくらいの時を見計らって来ることを指します。「上席から末席へよりも、末席から上席へ移されるほうがよい」は、ラビの教えにもあり、このこと自体はヘレニズム世界でも言われていた格言です。なおここでの「名誉」は10節では「面目をほどこす=尊敬/栄光(ドクサ)を受ける」とありますから、この「名誉」をヨハネ福音書のとりわけ「受難の栄光(ドクサ)」と関連させる解釈もあります〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)355頁〕。
【恥をかく】言われた人は身を起こして、全員がそろっている中を通り抜けて末席へ移らなければなりませんから恥をかくのです。このように人間社会での日常の価値観をたとえにとりながら、イエスの御国では、その通常の価値観が「逆転される」ことを教えています。
[10]【末席に行って】ルカ福音書の表現は丁寧で、「(上座に向かう代わりに)身を引いて最終の末席へと向かいなさい」です。「最終」(エスカトン)は終末の時を意識しているのでしょうか。ユダヤ教のラビの伝承にも「自分の席よりも二つ三つ下座に留まり『もっと上座へ』と言われるのを待て」とあります〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1047頁〕。
【もっと上席に】宴会の主人(ホスト)の座席に近いほうのことです。「高く上がる」ことではなく主人に「より近い」席のことです〔プランマー『ルカ福音書』358頁〕。
【面目】原語は「栄光」(ドクサ)で、最高の栄誉のことです。「みんなの(面)前で」はルカ福音書にしばしばでてくる言い方で、ここではあなたの側で身を横たえている面々の傍らを通り過ぎて上座へと導かれることです(箴言25章6~7節)。
[11]この節はイエス様語録からで、「自分自身を高くする者は低くされるだろう、また自分自身を低くする者は高くされるだろう」です(マタイ23章12節=ルカ14章11節=同18章14節後半/マタイ18章4節も参照)〔ヘルメネイアQ430~31頁〕。マタイ福音書とルカ福音書はわずかに言葉遣いが違うだけでほぼ同じです。この節はエゼキエル書では、バビロンの侵略によるエルサレムの滅亡を預言する言葉の中にでてきます(エゼキエル書21章31節。七十人訳では21章26節「あなた(主)は高い者を低くし、また低い者を高くした」)。同様の教えは箴言29章23節にもあります。特に「自分自身を低くする者」には、イザヤ書52章13節~53章12節の受難の僕像を読み取ることができましょう。この僕像はそのまま「ナザレのイエス」に直結します〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)356頁〕。
[12]【招いてくれた人】文頭は7節と同じで「(イエス)は言われた」です。ここで招かれた客から招いた人へ相手が変わります。ただし、イエスを招いたファリサイ派の指導者が知人や金持ちだけを招いていたことへの戒めとして語られたのではないでしょう。宴席でこのように語るのは、ヘレニズム世界では宴会の席は「談論の場」でもあったからです。
【昼食や夕食】ユダヤでは通常食事は午前と午後の2回だけですが、安息日には3回で、会堂での礼拝の後で昼食会が持たれました。日常の「昼食」とは朝比較的早くから正午までの食事のことで、「夕食」は午後比較的遅く夕方頃の食事です。
【近所の金持ち】「兄弟」は「身内/親族」をも含む場合がありますが、ここでは「兄弟」と「親戚」を分けています。「金持ちの隣人」には「隣人と金持ち」という異読もあります。なおここでの「招く」は「声をかける」です。招待は書き付けや正式の招待状による場合もありましたが、使いを送って呼んだり、直接声をかける場合もあったのです。
【お返しする】原文は「あなたへのお返し/返礼が生じるだろう」です。これをルカ6章24節と関連づける解釈もあります〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)357頁〕。
[13]~[14]【宴会】原語は「歓迎会/大きな宴会」です。これには慈善的な宴会の意味も含まれるのでしょう〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)357頁〕。
【貧しい人~】ここでは「貧しい人」と「手足がひどく動かない人、足のきかない人、目の見えない人」の二つに分けられています。貧しくてお返しができない人とお返しする力のない人のことです(7章24節を参照)。後のほうの人たちはクムラン文書(『戦いの書』7章4節)では「聖なる戦闘に参加できない人」であり「交わりの食卓から除外される人たち」です〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1047頁〕。プラトンの『クリトン』(14)にも「盲(めくら)や跛(びっこ)やその他の片輪(かたわ)」〔久保務訳/岩波文庫(昭和2年)。原文のまま〕と今回のと同じギリシア語ででていますから、身体的な弱者をこのように一まとめにするのはヘレニズム世界で共通していたのでしょう。
【正しい者たちの復活】「義人たちの復活」については、ダニエル書(前2世紀)と『第一エノク書』(復活に関する部分は前2世紀~前1世紀)にさかのぼります。それらには次にように記されています。
(1)主なる神に「選ばれた者」(単数)は「人の子」とも呼ばれ、この者が「終わりの日に」顕われます(ダニエル書7章13~14節/『第一エノク書』46章1~3節)。
(2)地上の権力者たちを始め地のすべての者たちは、神による裁きの日まで「陰府(よみ)にとどめおかれた」状態にあり(『第一エノク書』21章3~4節)、終わりの時に裁きに遭うためによみがえり、彼らの不義と罪が暴かれ、明るみに出されて恥辱を受けます(ダニエル書12章3節/『第一エノク書』46章4~6節)。
(3)神によるこの「すべての者への報いの日」には、「へりくだる義人たち/選ばれた民」には命が与えられます(『第一エノク書』48章4~7節)。また彼らの目の前で悪しき者たちが裁かれ断罪されるのを見ます(ダニエル書12章2節/『第一エノク書』62章12節)。
(4)義人たちが受ける報いは、天上の祝福ともつながりますが、どちらか言えば、この地上において神の祝福が「復興される」という意味合いのほうが強いと言えます(創世記9章のノアの場合のように)。
(5)新しい御国は「いつまでも」続きますが(『第一エノク書』10章3節)、この持続は「世々にわたり幾久しく」という意味であって、時間と隔絶した形而上的な絶対の「永遠」とは異なります〔Nickelsburg. 1 Enoch. A New Translation. Fortress Press (2004).28(note)p〕。
 イエスとイエスの弟子たちは、黙示思想と共にこの復活信仰を受け継いでいます。しかし、イエスの神の国はそれまでのユダヤ教の終末と復活信仰に比べると、御国が到来する終末が<すでに始まっている>という切迫した時期的な違いと、御国の内容が地上の祝福の延長ではなく、質的にはっきりと区別された霊的な意義を持つことに注意しなければなりません。だから14節の「義人への報い」は13章27節の「不義を行なう者への報い」と対応します。「義人」についてはルカ6章35~36節を、「人の子」の到来と「義人の救い」ではルカ21章27~28節を参照してください。これに対して、万人の裁きへのよみがえりについてはダニエル書12章2節と使徒言行録24章15節を参照してください。
■マタイ23章
[12]マタイ23章前半のイエスの言葉は、「律法学者たちとファリサイ人たちはモーセの座に座っている。だから彼らがあなたたちの面前で語ることはすべて行ない遵法しなさい。しかし彼らの仕業は行なうな。言うだけで行なわないのだから」で始まります。今回の23章12節は、この前半で偽善者たちの行為を批判する締めくくりとしてでてきます。
 資料的にはマタイ23章12節=ルカ14章11節=同18章14節後半はイエス様語録から出ていますが、マタイ23章の前半はイエス様語録だけでなくマルコ12章38~40節をも踏まえています。
マタイ福音書は23章1~12節で、一人の教師(イエス)、一人の父なる神、一人のメシア(イエス・キリスト)のみを仰いで、その他の権威に支配されないよう警告しています。「低くされる/高められる」とある受動態は神から人への働きを表わす「神から来る受動態」です。これはイエスの頃の律法学者やファリサイ人たちへの批判と同時にマタイ自身の教会の指導層への警告でしょう。ルカ14章11節で指摘したように、今回の箇所はユダヤ教に受け継がれてきただけでなく、ヘレニズム世界にも共通する格言を背景にしています。しかし、イエスがこの言葉を語る時、それは終末的な神の国の到来と結びついていますから、差し迫る御国と神の裁きの下で語られている点で、世俗の格言とは決定的に異なっています。マタイ福音書でこの節に続いて「律法学者とファリサイ人たち」へ向けて一連の「災いだ」がくるのはこのためです。
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