144章 大宴会のたとえ
ルカ14章15〜24節/マタイ22章1〜14節
【聖句】
■イエス様語録(Q14:18〜23)
ある人が大宴会を催そうと多くの人たちを招いた。
宴会の時刻に彼の僕を遣わして招いた人たちに言わせた。
「お出でください。もう準備ができました。」
ある人は畑のために断わった。
もう一人は商売のために断わった。
そこで僕はこれらのことを主人に伝えた。
主人は激怒して僕に言った。
「道路へ出て行って、誰でも見つけた者を招きなさい、
この家が一杯になるように。」
〔ヘルメネイアQ436〜47頁〕
■ルカ14章
15食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
16そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、
17宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。
18すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。
19ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。
20また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。
21僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
22やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、
23主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
24言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」
■マタイ22章
1イエスは、また、たとえを用いて語られた。
2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。
3王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
4そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
5しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、
6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
7そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
8そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。
9だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、
13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」
■参照『トマス福音書』(64)
イエスが言った、「ある人が客を持った。そして、彼が晩餐を用意して、客を招くために、彼の僕を送った。僕は最初の人に行って、彼に言った、『私の主人があなたを招いています。』彼は言った、『私は商人たちに(貸)金庫を持っています。彼らは今夜私のところに来るでしょう。私は出て行って、彼らに指図を与えるでしょう。晩餐をお断わりします』。僕は他の人に行って、言った、『私の主人があなたを招きました』。彼は僕に言った、『私は家を買いました。人々は一日中私を必要としています。私には時間がないでしょう』。僕は他の人に行って、言った『私の主人があなたを招いています』。彼は僕に言った、『私の友人が結婚することになっています。そして、私は祝宴を催すでしょう。私は行くことができません。晩餐をお断わりします』。僕は他の人に行って、言った、『私の主人があなたを招いています』。彼は僕に言った、『私は村を買いました。私は行って小作料を受け取らなければなりません。私は行くことができないでしょう。お断わりします』。僕は戻り、主人に言った、『あなたが晩餐にお招きなった人々は断わりました』。主人は僕に言った、『道に出て行きなさい。お前が見出した人々を連れてきなさい。彼らが晩餐にあずかるように。買主や商人は私の父の場所に入らない(であろう)』」
〔荒井献訳『トマスによる福音書』217頁〕
【講話】
■たとえの解釈史
今回のたとえは「ある人が」で始まりますから、ここでは神が「ある人」にたとえられています。神を人間にたとえるのだから、「神概念」は人間が作り上げたものにすぎない。自分を賢いと思いこむ人なら、さしずめこう判断するかもしれません。けれども、聖書には、神は「人の思いとは全く異なる」とあります。だから、聖書は、神が人とは全く異なることを「人に分からせる」ために、神を「人にたとえ」て語っている。こういうことになります。ところで、今回のたとえは、過去の教会によってどのように解釈されてきたのでしょうか。その例を幾つか上げて見れば、神を「人にたとえる」ことが、「人の思い」とどう異なるのか? その辺のことも見えてくるかもしれません。
オリゲネス(184/5〜253/4年)は、マタイ福音書の王子の婚宴のたとえを「花婿ロゴスと信者の魂の結婚/交わり」の寓意と解釈しました〔ルツ『マタイ福音書』(3)297頁〕。またたとえにでてくる「5組の雄牛」は、人間の身体的な五感を表わすから、婚宴を断わった者は知性よりも身体の感覚的な世界を選んだことになります〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)375頁〕。妻を選んだ者は、魂の救いよりも偽りの知恵と五感の快楽を選んだことになります。オリゲネスのこういう解釈は、個人個人の選択を重んじているのが特徴です。
アンブロシウス(339年?〜97年?)は、ルカ福音書のたとえをとりあげ、最初に断わった人は異邦人で、2番目がユダヤ人(雄牛の軛をユダヤ教の律法にたとえる)、3番目が異端者(異端の教えを誘惑する女性にたとえる)だと解釈しました。彼はまた、マタイ福音書に「悪人も善人も」とあるのは、様々な異邦人を迎え入れた教会の現実の姿を表わすと見ています。
4世紀初頭のディオクレティアヌス皇帝によるキリスト教徒の迫害の折に、迫害で棄教したカエキリアヌスが、北アフリカのカルタゴの司教に任命されました(311年)。すると、教会の霊的純粋性を厳格に重んじる北アフリカの教会は、「背教者」の任命を受け容れず、その2年後にドナトゥスを司教に選任しました。このため、カエキリアヌスを任命したローマのカトリック教会と北アフリカのドナトゥス派の教会とが長い間対立することになります。そこでアウグスティヌス(354年〜430年)は、411年のにカルタゴでの教会会議で、皇帝ユリアヌスの支持を得て、強制的にドナトゥス派をカトリック教会の下に併合しました。その際にアウグスティヌスは、ルカ福音書の今回のたとえを引用して「キリストの教会は、・・・・・大通りや生け垣の道にいる者たち(異端者や分裂主義者)を無理に/強制的にでも連れてこざるを得ない」(ルカ14章23節)と述べています〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)375頁〕。教会が帝国の権力を背景にして、神の力と剣の力で人々を「無理にでも」引き入れるのは、信者たちにとって何が善か悪かを判断するのは、信者自身より教会のほうだからでしょうか?〔前掲書376頁〕
宗教改革当時のルターによれば、「畑」は聖職者たちによる介入を意味し、「雄牛」は政治的な弾圧を指し、「妻」は地上の幸せを求める誘惑だということになります。宗教改革時代には、マタイ福音書の「礼服」とは、信者各自の信仰のことだと解釈されたり(ツヴイングリ)、キリスト者の愛による善き業を指すと解釈されました(ルター)。ジュネーヴで教会改革を行なったカルヴァンは、アウグスティヌス同様に、異端や不信仰者をキリストの教会へ「無理に連れてくる」必要を認めています〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)374〜78頁〕〔ルツ『マタイ福音書』(3)296〜300頁〕。
■「選び」の「自由」
今回のたとえで、招待されていながら実際に<来なかった>人たちとは、イスラエルの民のとりわけ指導者たちや律法に忠実なユダヤ人のことだという伝統的な解釈があります。イエス様の時代から福音書が書かれた時代までの歴史的な状況をあてはめたこのような解釈は、歴史的に見れば<間違い>ではありませんが、たとえの解釈としてみれば、現在では<違って>きます。たとえとは、その時その時代の、これを聞く人読む人の置かれている状況によって(これを「生活の視座」と言います)、解釈が様々に異なります。たとえはこのように、常に新たな意味を創造する働きをするからです。
今回のたとえで一つはっきりしていること、それは、神による<招き>がなかったならば、人はだれ一人御国に与ることができないことです。ところが、その招きを受け入れるのか? それとも断わるのか? これを決めるのは、招いた神のほうではなく、招かれた人のほうなのです。自分は何を優先し、何を後回しにし、今の時に、何を選択し、何を断わるのか? その「選び」は、人それぞれに委ねられています。彼は、言葉の最も厳しい、ある意味で冷酷なほどに「自由に」選べるのです。この自由を神は決して侵さないし、それゆえこの自由は、人にとって<神それ自体>ほど重い結果をもたらすのです。人間には、動物にはない「自殺する」自由さえ与えられていますから。
だから、イエス様の御国に与るほうを選ぶのか、拒否するのか、このように「選択する自由」は、神様が与えてださらなければ、その人には絶対に生じません。拒否は神の裁きを招きますが、その裁きは、彼が御国の宴会から<閉め出される>ことですから、これは選んだ者自身が我が身にもたらす自業自得です。人間は自力で神の「救い」に入ることは絶対にできませんが、自分を断罪することは自由にできるのです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1054頁〕。
今回のマタイ22章11節にでてくる「礼服」がなにを意味するのか? これは古来いろいろに解釈されてきました。筆写は、この「礼服」を神がイエス様を通して一人一人に与えてくださる「永遠の命」の霊性のことだと理解しています。この「命」は、人がこの地上に生きている間に、すでに「まとう」ことが許されていて、人はイエス様の御霊にあって、「朽ちる体に朽ちない命をまとう」(第一コリント15章53〜55節)ことができるからです(ヨハネ5章24節参照)。
■人類の霊性の進化
神が人類に賜わったこの「霊衣」は、宇宙が存在するようになってからおよそ145億年、太陽系と地球が存在するようになってからおよそ46億年、地球に本格的な生命体である多細胞生物が出現してから約6億年、現在のネズミの先祖にあたる哺乳類が出現してから2億2000万年、先祖を弔うことを知っていたネアンデルタール人が「宗教する人」(ホモ・レリギオーサス〔ラテン語の語尾「スス」"sus" を英語読みにする〕)として現われてから30万年、「ホモ・サピエンス」と呼ばれる現在のわたしたち「最新型の人間」が出現してからほぼ20万年、そして、パレスチナにイエス様が誕生して、この「命の啓示」をお与えくださってからほぼ2千年が経過しています。新約聖書が伝える<いついつまでも続く永遠の命>とは、これだけの長い時間を経過して、神がわたしたち人類に賜わった「生命の進化の証し」です。
自然人類学と文化人類学が証しする通り、事ここにいたるまでの間に、動植物全体の地球上の生命は、絶滅寸前に追い込まれるという危機体験を繰り返してきました。生命の進化は生命の危機と常に表裏一体で、この事情は現在でも変わりません。それだけに、現在わたしたち人類に示されている「永遠の命」の啓示は、厳しい試練をくぐり抜けた末にようやく与えられた最も新しく、最も貴重な賜物なのです。
今回のたとえは、この神からの霊衣をまとわないのは、その人個人の責任であることをはっきりさせています。しかもこの霊衣は、教会の<中にいる>人であっても、誰でもが無霊衣の一人になりえると警告しているのです。マタイ福音書が証しするイエス様の霊的なエクレシアは、純粋でも無菌状態でもなく、「悪人も善人も一緒にいる」玉石混淆です。いったいだれが霊衣をまとっているのか? だれが無霊衣なのか? この最終結果は、宴会の折に御国の王である神の謁見が実際に始まる時まで分かりません。人類の歴史はこれからも続きますから、選ぶ自由は今でも続いています。「命の御言葉」を保って、永遠に輝く星になる道は(フィリピ2章15〜16節)、すべての人にに開かれているのです。
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