【注釈】
■イエス様語録のたとえ
イエス様語録では、今回の箇所は、「エルサレムへの嘆き」(ルカ13章34~35節参照)と「御国の子たちへの断罪」(マタイ8章11~12節/ルカ13章28~29節参照)に続いています。どれも終末でのイスラエルの民への裁きを告知する内容です。だからおそらく今回の締めくくりにも「(先に)招かれていた者は宴会から閉め出される」(ルカ14章24節)とあったのでしょう〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)368頁〕〔D・ツェーラー『Q資料注解』167頁〕。
今回のイエス様語録のたとえは、宴会の主人と遣わされた僕と招待された人たちで成り立っています。「宴会の時刻が来た」「もう準備ができた」などは終末の到来を告知するものです。このたとえは、実際に宴会に与った人たちよりも、招待されたのに断わった人たちのほうに関心が向けられていて、主人が「激怒した」とあるように、イスラエルへの厳しい裁きを思わせます。だから、このたとえは<直接に>異邦人世界への救いを示すものではありません。しかし、「この家が一杯になるように」という主人の命令で終わっていますから、事態はまだ続いていて、いったいだれが宴会に与るのかは未知のままです。この問いかけこそ、イエスの口からでたたとえの意図だったのでしょう。
このたとえで「閉め出される招待客」とはいったい誰のことなのか?これについて諸説がありますが、律法を守る「敬虔なユダヤ人」を指すという見方があります〔マーシャル『ルカ福音書』585頁〕。イエス復活以後のイエス様語録の人たちは、招かれていた人たちが閉め出されるという異常な危機的状況の中で、たとえ「選ばれていたはずの民族」がイエスの御国を受け容れなくても、人種やこの世に支配されることなく、イエスの御国を目指す決意を固めていたことを表わすものです〔ツェーラー前掲書168頁〕。このようなイエス様語録の人たちの信仰が、マタイ福音書やルカ福音書にあるように「異邦人の救済」へ道を開くのは自然な成り行きです。
今回のイエス様語録は、ルカ福音書とマタイ福音書と『トマス福音書』に含まれていますから、これら三つに共通するイエス様語録伝承から出ているのでしょう。ルカ福音書もマタイ福音書も『トマス福音書』も、イエス様語録をそれぞれに拡大しています。時期的には『トマス福音書』が最も早く、次いでルカ福音書、マタイ福音書が最も後期にあたるという見方もあります〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)198頁〕。
今回のイエス様語録の復元も主としてルカ福音書によっていますが、ルカ福音書の「ある人」→マタイ福音書の「ある王」/ルカ福音書の「宴会」→マタイ福音書の「婚宴の披露宴」と「彼の息子(王子)」/ルカ福音書の単数の「僕」→マタイ福音書の複数の「僕たち」/マタイ22章5節→ルカ14章18~20節などの違いが注目されています〔ヘルメネイアQ〕。ルカ福音書はイエス様語録のテキストを踏まえているのに対してマタイ福音書のほうは、それとは異なる版からか〔ルツ『マタイ福音書』(3)282頁〕、あるいは口頭伝承によるイエス様語録ではないか?という見方もあります〔デイヴィス前掲書〕。
■ルカ福音書の宴会のたとえ
ルカ福音書の今回の大宴会は、14章1節のイエスが招かれた宴席の出来事に始まり、続いて招かれた客と招いた主人の両方に宛てられた心得が来て、それが今回の大宴会のたとえで締めくくられています。
今回のたとえは、「神の国の宴会に与る幸い」で始まるところが、マタイ福音書や『トマス福音書』の裁きや排除と異なる点です。だから、ルカ福音書のこの「幸い」は最後に異邦人にも拡大されることを示唆するのでしょう。このため、イエスが実際に語ったのは、排除される厳しさだけでなく、誰でも受け容れる主人の寛大さのほうではなかったか、という見方さえあります〔マーシャル『ルカ福音書』585頁〕。
ルカ福音書では、遣わされた僕は単数ですから、この僕は大忙しです。おそらくここには、イエスの時のパレスチナへの弟子派遣と、復活以後の使徒たちのイスラエルへの派遣と、最後に弟子たちの異邦人世界への派遣が、救済史的な視点から語られているのでしょう。
招待客の拒絶はルカ福音書では一回限りですが、3人3様の拒否する理由が上げられています。これに対する主人の命令は、13節の貧しい人たちへの招待と、さらに遠くの地の人への招待と二重になっています。これはイエスの時のパレスチナの「罪人たち」への招きと、復活以後の教会によるイスラエルへの招き、さらには異邦人世界への招きを表わすものでしょう〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)367頁〕。最後は、「あの招かれた人たち」がだれ一人御国の幸いに与ることができないという言葉で締めくくられます。
■ルカ14章
[15]【幸いな】この祝福は、14節の「幸いだ」を受けて、貧しい人たちを招く勧めを大宴会のたとえに結びつけるものです。しかし14節で言う「幸い」は、現在において実践することが未来の幸いに結びつくことですが、客の一人は、終末の時の「幸い」だけに注目しています。おそらく、この客は、「現在の自分の状態」が将来の「幸い」を招くと思っているのでしょう。そうだとすれば、今度は13章29節の「御国の宴会」に出てくる、「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」こと、「先の者が後になり、後ものものが先になる」ことが客の言葉に対する返事として返ってくることになります。はたしてこの客は御国の宴会に与ることができるのでしょうか?〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1054頁〕これが宴会に招き/招かれる一連のたとえを通じてルカ福音書が読者/聴衆に問いかけていることです。このような一連の設定は、ルカ福音書の作者によると考えられますから、15節は作者の編集です。なお、終末での御国の宴会はヨハネ黙示録19章9節を参照。
[16]~[17]【宴会】ペルシア時代の王は、支配地域の行く先々で盛大な宴会を催しました。これは、王の権威を印象づけると共に人々に施しを与える意図もあったようです。王の宴会に招かれることは大きな名誉とされていました。この宴会は、旧約では終末に主が催す宴会のたとえとして、イザヤ書に出てきます(イザヤ書25章6節/同55章1~2節/65章13~14節)。
【大勢の人】これらの客人たちは、主人から前もって招待を受けていたのですから、これを断わるのはきわめて失礼なことです〔プランマー『ルカ福音書』361頁〕。「招く」「呼びかける」はイスラエルの知恵文学によくでてくる言い方で、14章前半のキーワードです。
【僕を送り】イエスの頃のパレスチナでも、当時のヘレニズム世界の慣習にならって、上流の人たちに対しては、家来/僕を「呼び出し人」として招待客へ派遣する丁重な扱いをしたようです。ルカ福音書では「僕」が単数で、これは旧約の「主の僕」につながるたとえでしょう。マタイ福音書では複数ですが、この複数には、特定の人たちを指す寓意がこめられているのでしょうか。
【用意ができた】「用意が<すべて>できています」という異読があります。「とうとう/ついに」の意味をこめた後からの追加でしょう。「用意ができた」は、ルカ福音書では「時」が熟したこと、ついに「その時が来た」という救済史的な意味を帯びています(ルカ2章30~31節)。
[18]最初の人は大規模な農場経営者です。彼は農地を買い取ったので、その土地を検分しに行かなければならないと言うのです。
【皆】原語は「一人ずつ」ですが、女性形の異例な形です。アラム語を訳したためか、あるいは全員が「口裏を合わせて」いるのではないかという見方があります。
【どうか失礼を】丁寧な言い回しですが、前もって招待を受けておきながらその場になって一斉に断わるのは「約束違反」ですから、裏に何らかの企みがあるのでしょうか〔プランマー『ルカ福音書』361頁〕(マタイ福音書での招待客の非道な振舞いは、彼らの反抗的な陰謀をはっきり表わすものです)。あるいは、彼らは後から遅れて宴会に行くつもりだったのでしょうか? だとすれば、自分の都合を優先させる無礼に対して主人が「彼らの中で食事に与る者は一人もいない」と怒る理由が分かります。この大宴会のたとえには、ゼファニヤ書1章7~14節が背後にあると指摘されていますから、いずれにせよ、イスラエルに対する厳しい裁きが予告されているのです。
[19]最初の例が農場経営者であり、3番目が新婚ですから、2番目は商売人でしょうか。「行くところです」は、「調べに行く途中です」の意味。
[20]家を買った者、最初の収穫を済ませていない者、新婚の者は戦闘に参加することが免除されていました(申命記20章5~7節)。だからでしょうか。この人はきっばりと断わっています。しかし、律法では認められていても、神の「恩恵」の場合はどうでしょうか。
[21]【怒って】主人が怒ったのは、招待客が拒絶したからでしょうか、それとも宴会に出る時を勝手にそれぞれの都合に合わせようとしたからでしょうか、どちらにせよ、主人は宴会を<自分の都合で>決めるのです。「急いで」とあるのはその時刻を遅らせないためです。
【広場や路地】「広場」は町の大通で、そこは人が集まる場所にもなりました(箴言8章1~3節参照)。「路地」とあるのはやや狭いが混雑した通りのことで、これらの場所には貧民や身体の不自由な人たちもいて、物乞いをしていたのです。イエス様語録のほうはマタイ22章9節の読みを採り入れています。ルカ福音書の「貧しい人・・・・・」は先の13節をここに採り入れたのでしょう。「先に」招かれていた者たちではなく、「後から」招かれた者たちのほうへと優先順位が逆転したのです。
[22]~[23]ここから読者の視点が、招待客から僕と主人のほうに移ります。「仰せの通りにしました」と僕は「誇らしげに」〔ボヴォン前掲書372頁〕主人に報告します。ところが次の主人の命令は「町の外へ」出て行くことです。
【通りや小道】「通り」は町と町を結ぶ公道(ハイウエイ)のことで、「小道」は生け垣で囲われた農園(ぶどう園)などの場所です。「街道や通り」〔フランシスコ会訳聖書〕。「街路や垣根のところ」〔岩波訳〕。律法を守るユダヤの比較的恵まれた人たちから、「律法を知らない」と言われるパレスチナの貧民層へ、さらにこの22節が指す「これまで律法の外にいた」異邦人たちへと、ルカ福音書の救済史的な視野が広がっています。
【無理にでも】原語は「強制的に」ですが、これは誤解を招きます。神の御霊によって「貧しい人、救われそうにない人」にも決意をうながすことですから、決して強制や無理強いのことではありません〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1056頁〕〔ボヴォン前掲書373頁〕。
[24]主人の最後の命令の結果は語られていませんが、僕は言われた通りに行なったと思われます。「言っておくが」は「<あなたたち>に言うが」ですから、ここで単数の「僕」から複数に変わります。これは、たとえの中で主人が僕に語っているのではなく、イエスが聴衆に語っているのです。
■マタイ福音書の披露宴のたとえ
マタイ福音書では、「二人の息子」のたとえ(21章28節以下)と「ぶどう園」のたとえ(同33節以下)に続いて「王子の披露宴」のたとえ(22章1節以下)が来て、御国に入る/入らないたとえの三部構成になっています。この福音書では、大勢の家来を持ち、軍隊を動かす王のたとえですから、ルカ福音書の主人とは規模が違います。また、たとえが、ルカ福音書よりも寓意化されていて、それが具体的に何を指しているのかを分からせようとしています。このような編集では、歴史的な事実や出来事を寓意として取りこんでいるために、ほんらい語られたイエスのたとえの細部が、拡大によって不自然な内容になるおそれがあります。
王と王子は神と御子イエスを指し、複数の僕たちは、旧約の預言者たちと新約の使徒たち、あるいはイエス在世当時の弟子たちと復活以後の使徒たちでしょうか〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)367頁〕。ルカ福音書では、招待客への案内が1度だけですが(14章17節)、マタイ福音書では招待客への招きが二度に及びます(22章3~4節)。これに対するマタイ福音書での拒絶は、これもルカ福音書と異なり、短く圧縮されています(22章5~6節)。しかもそこには「家来たちを殺す」ことまで含まれますから、これは旧約から新約時代にいたる預言者たちへの迫害をも表わすのでしょう。「軍隊を送って町を焼き払う」のは明らかにローマ軍による70年のエルサレムの滅亡を指しています。しかし、王子の結婚披露宴という設定は、裁きよりも、むしろキリスト教のエクレシアへの喜びのメッセージにふさわしいものです。
続く「通りで見つける人たち」の招待はルカ福音書と共通しますが、マタイ福音書ではその後に、招かれた教会のメンバーの中に「礼服を着ていない」人のたとえがでて来ます。ここを境に、たとえ全体が前半と後半に分かれていて、どちらも「招き→拒絶→排除」で構成されます。ただし、前半の「拒絶」は招待客によるものですが、後半の拒絶は宴会の主人である王によるものです。「礼服を着けなかった者」に対する罰は、家来たちを殺したユダヤ人に劣らないほどの厳しさですから(22章13節)、新たなキリスト教の民もそれ以前のユダヤの民と同じ厳しさを覚悟する必要があります。
ユダヤ教のイスラエルの民にせよ、キリスト教の普遍的な民にせよ、「良い麦と毒麦」(マタイ13章24節以下)の混淆はマタイ福音書の特徴です(7章21~23節/25章1節以下)〔フランス『マタイ福音書』823頁〕。最後に「選ばれる人は少ない」とあって、ルカ福音書の「幸いな人」とは異なり、マタイ福音書では終末の厳しい裁きを思わせます。
以上見てきたとおり、イエス様語録では、イエス様を通じてユダヤに与えられた神の御国への招待をユダヤの指導者たちが断ったために、招待がユダヤ人以外の異邦人に向けられたことが語られます。これに対して、ルカ福音書では、異邦人のほうよりも、むしろ招待を断った人たちのほうに注意が向けられます。マタイ福音書でも、断った人たちのことが詳しく語られますが、さらに、断ったユダヤの人に激しい神の怒りが向けられたことが加えられます。それだけでなく、異邦人への招待の結果集まったエクレシアの人たちのことも出てきて、ユダヤ人だけでなく、異邦のエクレシアの中からも、御国に与ることができない人が出ると告げられるのです。
■マタイ22章
[1]~[2]今回のたとえは、イエスが祭司長たちやファリサイ派の人たちに語ったたとえ、「主人に反抗して、その息子を殺すぶどう園の農夫たち」続いています(マタイ21章33節以下)。拒絶する者たち、殺される息子、捨てられた親石によって建てられる(救われる)者たちのたとえは、そのまま今回のたとえにもつながります。
【王】マタイ福音書の「王」は、ルカ福音書の「神の王国」(14章15節)がヒントになっているのではないかという説があります〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)198頁〕。しかしマタイ福音書では、百人隊長の僕の癒やしの場面でも「天の王国」の宴会がでていて、そこでも「王国を受け継ぐはずの者たち」(8章12節)が閉め出されて「泣きわめいて歯ぎしりする」(22章13節と比較)とありますから、王国の宴会のたとえは、マタイ福音書ほんらいの終末観から出ていると考えられます。
【婚宴】マタイ9章15節(=マルコ2章19節)では、イエスの弟子たちが「花婿の子たち」にたとえられています。「花婿の子たち」はセム語法で「花婿の付き添いたち」あるいは「婚宴の客たち」を意味します(ヨハネ3章29節も参照)。御国を婚宴にたとえる例はマタイ25章1~13節にもあり、そこでも排除される者たちがいます。しかし今回のたとえは「王子の婚宴」ですからスケールが違います。通常の婚宴は七日間ほど続きますが、今回語られるのはその最初の日の宴会のことです。
[3]~[4]【招いておいた人々】ルカ福音書と比べると、マタイ福音書では「すでに招待を受けていた人たち」であることがはっきりします。中世の教会では、3節の招きはアブラハムたちイスラエルの父祖たちを通じた招きを指し、4節の招きは、旧約の預言者たちを通じた招きであり、9~10節の招きは新約の使徒たちを通じた招きだと解釈されました〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)199頁(注)31〕。
【来ようとしない】先に「来る」と言いながら「来ない」例が21章30節にでています。今回のように二度の案内は王として極めて異例です。
【牛や肥えた家畜】4節はマタイ福音書の編集でしょう(「肥えた家畜」は新約ではここだけ)。宴会での食事は列王記上1章9節などにでています。特に今回の箇所には、箴言9章2節で、「知恵」がその「召使い(女性)」たちを遣わして町の人たちを食事に招く呼びかけを反映しているのではないかと思われます。
[5]~[6]マタイ福音書はルカ福音書と異なり、丁重な断わり方をすべて省略して、招待客たちの無礼と乱暴をはっきりさせています(21章35節参照)。ただし、彼らは一様でなく、招きを無視する者、「自分の畑」「自分の商売」など自分の都合を優先させる者、使者を侮辱する者、殺す者などに分かれます。
【商売】これはルカ福音書にありません。この用語は新約聖書中ここだけです。
【とらえる】ユダヤの指導者たちがイエスを「逮捕」しようとしたのと同じ原語で(21章46節)、大祭司カイアファはイエスを「とらえて殺すそう」と企みます(26章4節)。なお、王の使者を辱めた例はサムエル記下10章1~5節にあります。また南王国ユダの王ヒゼキヤが、北王国イスラエルへ使者を送り、かつて両国の民が行なっていたのと同じように、北の民も再びエルサレム神殿で共に神を礼拝し過越を祝うことを提案した折に、北王国イスラエルは、「王の言葉に応じないばかりか、使者たちを嘲り、預言者たちに唾を吐きかけて、とらえて殺してしまった」〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』9巻263~66節〕とあります。マタイ福音書の記事にはこの出来事が反映しているのでしょうか〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)201頁〕。
[7]この節はルカ福音書にありませんから、マタイ福音書の作者の編集だと考えられます。ここには、紀元70年のローマ軍によるエルサレムの破壊と滅亡が反映しているのは間違いありません。しかし、記述それ自体には、ユディト記1章11~13節などが影響していると指摘されています〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)201~202頁〕。ユディト記(前106~前76年)の記述は、新バビロニアの王ネブカドネツァルを「アッシリアの王」としていますから、史実に基づくと言うより出来事を「神の裁き」という象徴的な観点から描いています〔新共同訳『旧約聖書注解』(Ⅲ)206頁〕。今回のマタイ福音書の記事にも同様のことが言えます。王/指導者が怒り、軍隊を送り、住民を殺害し、町を火で焼くのは「神の裁き」を象徴する出来事として旧約で繰り返しでてきます(ヨシュア記6章20~21節/士師記1章8節/同18章27節/同20章48節〔現在では士師記が最終的に成立したのは捕囚期以後だと考えられています〕/イザヤ書5章24~25節/一マカバイ5章28節/同35節)。とりわけ今回のマタイ福音書では、破壊と滅びが、イザヤ書5章にあるように、神に逆らう<イスラエルに対する裁き>の性格(神は異国の王を裁きの鞭として用いる)を帯びているのが注目されます。しかしここでも出来事が「象徴化」されていますから、「終末における神の裁き」が反映していると観るべきです。したがって、マタイ福音書の作者による編集とは言え、今回の記事にもイエス自身による終末的な裁きへの預言が伝承されていると洞察することができます〔フランス『マタイ福音書』825頁〕。
7節までと8節以降のつながり方から、マタイ福音書では、エルサレムの滅亡を境として、神はイスラエルを見限って異邦人への伝道へ転じているという解釈もありますが、今回の記事から、神はイスラエル/ユダヤの民を見限って、異邦人への救いに転じたと判断するのは、マタイ福音書の真意ではないでしょう〔デイヴィス前掲書202頁〕。異邦人への伝道が、エルサレム滅亡以後に本格化したのは事実ですが、マタイ福音書は原初のユダヤ人キリスト教徒たちによる異邦人キリスト教徒の誕生をおろそかにしていないし、決してイスラエルを「見限って」もいません。
[8]~[10]8節~10節はルカ14章21~24節に相当する箇所です。マタイ福音書では一度だけの派遣ですが、ルカ福音書では二度に及びます。「道路」を除けば、両者の間に用語の共通性がありません。
【ふさわしい】招待客に向けられた「ふさわしくない/資格がない」は、洗礼者ヨハネの言葉を想い出させます(マタイ3章8節)。
【町の大通り】原語は「いくつもの通りの出口(複数)」。これは町の十字路のことではなく、町から田舎へ通じるそれぞれの道路の出口のことです〔織田『新約聖書ギリシア語小辞典』〕。
【悪人たちも善人たちも】「悪人たち」が先に来ているのは、「悪人でもかまわない」という意味でしょう(5章45節も同じ)(新共同訳は「悪人」と「善人」の順序が逆です)。ただし、このような善悪混淆は、13章47~50節にあるとおり、終末の時には「悪人たち」と「義人たち」とに選り分けられることになります。
[11]~[13]【客を見ようと入る】終末の時に神が「エクレシア」(招かれた人たち)のメンバーに会おうとする時のたとえです。
【婚礼の礼服を着る】「衣服」が、人の身分だけでなく、人の宗教的・霊的な性格を象徴するのは人類古来の慣わしです。ヨハネ黙示録19章8節では「麻布の衣」がその人の「義の行ない」を表わします。婚礼では、立派ではなくても清潔な白い衣をまとうのが慣わしでした。これは宴会の主人が用意するものでしたが、各自が家で着替えることもありました。ただしここでの「婚礼の衣服」は復活の「からだ」がまとう「白く輝く」衣の象徴でしょう(マタイ17章5節/第二コリント5章4節/ヨハネ黙示録3章5節)〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)204頁〕。『第一エノク書』には次のようにあります。「選ばれた義人たちは、大地から復活して、顔を伏せることがなくなり、栄光の衣をまとっているだろう。これこそあなたがたの衣であり、諸霊の主から賜わる命の衣である。あなたがたの衣はもはや古びることがなく、あなたがたの栄光は諸霊の主のみ前で褪(あ)せることがない」〔『第一エノク書』62章15~16節/Nickelsburg & VanderKam, 1 Enoch. 81.〕。ちなみに、古代の教会では、今回の衣は洗礼の時にまとう白い衣を指すと解釈されて、洗礼を受ける勧めとして今回の箇所が用いられました。しかし、今回のたとえで礼服をまとっていない者は、すでに教会のメンバーの一人であると思われますから、この解釈は適切でありません〔デイヴィス前掲書205頁〕。
【黙っていた】彼の行為と沈黙の態度は、王と客人たちへの侮辱です(22章34節を参照)。「だれでもかまわない」という王の寛大な恵みを取り違えて、招待を軽んじて無礼な振る舞いをする者は、先に断わった招待客に劣らず厳しい裁きを受けるのです。
【側近の者たち】ここで今までの「奴隷/僕」から「侍従/側近」に変わりますから、終末の時に裁きを行なう天使たちを指すと解釈されています。『第一エノク書』(10章4節)では、聖なる至高者(神)が天使ラファエルに「アザゼルの手足を縛って、外の暗闇に放り出せ」と命じています。アザゼルは堕天使たちの指導者の一人で、ユダヤ教では彼は堕罪によって「天の衣を失った」という伝承がありますから、マタイ福音書の作者は、今回の箇所でこの伝承を踏まえているのではないかと思われます〔デイヴィス前掲書205~6頁〕。
[14]今回のたとえでは追い出される者は一人だけですから、このしめくくりは、たとえと合致しないという見方もあります。しかし、ヘブライ的な考え方で14節は「招かれるのはすべての人でも、選ばれるのはすべてではない」ことを表わします。
■『トマス福音書』のたとえ
マタイ福音書とは異なり、ルカ福音書と『トマス福音書』は、招待を断わる具体的な例をあげていますから、これら二つは同一のイエス様語録に基づくとも考えられます。しかし、断わる理由がルカ福音書と『トマス福音書』ではかなり違っています。『トマス福音書』で招待された客が断わる理由は 貸金庫、家、村の小作料、友人のための披露宴など、特に都市の裕福層を思わせます。だから二つの福音書が同一のテキストに基づくとは考えられません〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)367頁〕。『トマス福音書』は、ルカ福音書やマタイ福音書とは異なり、御国の切迫した終末性が感じられません。また神の厳しい怒りにもイスラエル民の裁きにも関心がありません。「買い主や商人」が父の御国から閉め出されるのは、『トマス福音書』が、この世の富・財産に対して否定的であることを表わすものです〔荒井献『トマスによる福音書』222頁〕。
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