145章 失った銀貨
ルカ15章8〜10節
【聖句】
■ルカ15章
8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
9そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
【注釈】
【講話】
■銀貨のたとえ
 今回の銀貨のたとえは、直前の一匹の羊のたとえとつながっています。羊は生き物ですから、自分から「迷い出る」こともあり、このため命を失うこともありますが、銀貨は物ですから、持ち主がうっかりしなければ無くなることがないはずだ。だから、銀貨の「持ち主」は「神」を指すのではなく「教会」のたとえだという解釈があります。また、マタイ福音書の羊は、囲い(教会)から「迷い出た」のだから、これは教会のメンバーの一人のことだと考えられますが、ルカ福音書では「失われた/それまで失われていた」羊であり「無くした」銀貨ですから、神から遠く離れてしまっていたイスラエルの民のことにもなり、教会から離れて久しくなる人のことにもなり、神もイエス様も知らない異邦の民のことにもなります。たとえの意味はこのように多義的ですから、一つに決めることができません。
 ただし、神様はうっかりすることがないから、銀貨の持ち主は神のことではないと解釈するのは、お金/物のたとえの解釈として適切ではないでしょう。神の御言葉の種を蒔く「種蒔き」のたとえでも、蒔かれた種は様々な妨げや障害に出遭います。宇宙ができ、太陽系と地球ができ、生命が誕生し、人類が誕生するまでの140億年以上もの長い期間、神の不思議な摂理の御手と共に、生命は幾度となく絶滅の危機に曝され、その度に危機をくぐり抜けて新たな姿に変容することで「進化」してきました。わたしたちのような人類が現在存在するのは、ほんとうに奇跡としか言いようがない不思議な「神様の御手の計らい」であり、同時に、そのお計らいは厳しい過酷な現実と裏表なのです。だから、銀貨が失われることと発見されることは、神様の御手の中では表裏一体です。イエス様は、このことをたとえで語られたのでしょう。
■捜し求める方
 私は今回のたとえの主人もイエス様のことだと考えています。過酷な現実の中で人が「失われる/滅びる」のは避けられません。しかし、それにもかかわらず、神様もイエス様も、「一人の人」の滅びをも惜しまれて、切に「捜し求めて」おられる。これが今回のたとえです。諦めているのは、神とイエス様のほうではなく、わたし自身をも含めて、わたしたち人間のほうです。そもそも、入信の際に受ける洗礼さえも、自分が決心し、自分の意志で「信仰に入った」と思い込むこと自体が間違いです。神様のお計らい、イエス様のお導き、御霊のお働き、これ無しにわたしたちは<一人として>信仰に入ることも受洗することもできません。受洗の目的は、「このこと」を悟るためです。自分の気持ちや意志ではどうにもならない御力が働いてくださらなければ、教会に来ることも洗礼を受けることも、信仰生活を続けることも不可能だと言うこと、「このこと」を悟るために教会に来て洗礼を受けて信仰生活を送る。こう言っても言いすぎではないでしょう。
 人間一人一人が、イエス様を信じることで神の子となること、イエス様の御復活の霊性を宿し、肉体が滅んでも<失われない命>に与ること、このような不思議で不可解な出来事をわたしたち通常の人間が自ら求めて決心することなどありえません。この世の楽しみに溺れて、笑って暮らす幸せな人たちが、このような不思議で難しいことを「捜し求める」など先ずありえません。福音が全世界に広まり、今もなお、世界中で神の御言葉が語られ、聖霊の導きに与りつつ歩む人たちが増え続けているのは、ひとえに「危険をおかして探し続ける」方、暗闇の部屋の中を灯火をつけて探し回る方がおられるからなのです。だからわたしたちは、徹頭徹尾、捜し求め「られる」側であり、見つけ「られる」側です。
 昔、あるギリシアの哲人が、昼間に灯火をつけて、「人間はいないか?」と人々の間を探し歩いたという話を聞いたことがあります。このようにイエス様は、あるいは今回のたとえを借りるなら「神の天使たち」は、永遠の命に与る真の霊性を宿す「クリスチャン」を隈無く捜し求めているのかもしれません。一人でも見つかったら、天で大きな歓声が湧き起こるでしょう。
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