【注釈】
■失った銀貨のたとえ
 ルカ15章はルカ福音書の中心に置かれていて、「失われた羊」「失われた銀貨」「失われた息子」の三つのたとえには特別の意義がこめられています。その意義は、ルカ福音書の作者が付した「悔い改める一人の罪人に向けられる天での喜び」(7節/10節)にはっきり表わされています。この章が「排除された者たちへの福音」と呼ばれるのはこのためですが、この福音は、この後の「ラザロと金持ち」「ファリサイ派と徴税人」「徴税人ザアカイ」にもつながるルカ福音書の特長です〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1072頁〕。
 今回のたとえは、直前の「失われた羊」のたとえと密接に結ばれています。このため、この二つのたとえの組み合わせは、ほんらいイエス様語録にも置かれていて、イエスにさかのぼると考えられます。ただし、銀貨のたとえには、羊のたとえにはない「神の天使たち」がでてきます。マタイ福音書では「失われた銀貨」のたとえがでてきません。だから、ルカ福音書の「失われた羊」はマタイ福音書同様イエス様語録からで、「失われた銀貨」のほうはルカ福音書だけの資料(L)からだと見ることもできます〔フィッツマイヤ前掲書1073頁〕。ただし「失われた羊」はイエス様語録だけでなくルカ福音書の「L」にもあったのではないかという説もあります〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)412頁(注)57〕。
 こういう文献的な視点から判断する場合に注意しなければならないのは、(1)イエスが同じたとえを繰り返すことを<しなかった>と前提すること、(2)たとえが、常に最初に用いられた状況だけに限定されて、同じたとえが違った状況の場合にも適用されることが<なかった>と前提することです。どちらも、たとえが実際に用いられた実状と異なるからです〔マーシャル『ルカ福音書』603頁〕。
 マタイ福音書では、「<迷い出た>羊」は、教会の仲間の「交わり」の有り様を教える一連の記事と共に置かれていますから、ルカ福音書の「<失われた>羊」とはたとえの意義がやや変わってきます。イエスの言う「イスラエルの失われた羊」(マタイ10章6節)が、マタイ福音書では神のエクレシアから「迷い出た羊」になり、ルカ福音書では、失われた/失われていた「イスラエルの民→神の教会のメンバー→異邦人」という救済史的な視野から編集されているのでしょう。15章も14章と同じく、これらのたとえがすべて「ファリサイ派と律法学者」(14章1節/3節/15章2節 )に向けられている点もマタイ福音書の「弟子たち」とは異なります。
 羊のたとえに続く銀貨のたとえでは、たとえが男性から女性に変わり、自分から囲いの<外へ>迷い出た羊と家の<中で>見失った銀貨の違い、さらに迷い出たのは羊の持ち主のミスではないが、見失った銀貨のほうは持ち主のうっかりミスであることなどから、羊の主人は「神」のたとえであるが、銀貨の持ち主は「教会」のたとえだという見方もあります〔プランマー『ルカ福音書』370頁〕。もしもそうだとすれば、マタイ福音書の羊のたとえ(<教会から>迷い出た羊)はルカ福音書では銀貨のたとえに近くなりましょう。ただし、銀貨のこの解釈だと「神の天使たちの間で」(10節)とある結びと矛盾します。ルカ15章の「悔い改め」のたとえの三部構成は、どれも天の父なる神の慈愛を表わしていますから、このことを視野に入れた上で銀貨のたとえを教会と関連づけるほうが適切でしょう。このように「たとえ」の場合は、イエスによって語られたほんらいの意味だけでなく、それ以後のキリスト者や教会の解釈も重ね合わされていますから、たとえの多義性は、解釈の難しいところです。
■ルカ15章
[8]たとえは、百匹の羊を所有する比較的裕福な男性から、貧しい女性へ変わります。男女と貧富の差を考慮したルカ福音書の組み合わせでしょう。
【ドラクメ銀貨】パレスチナでは、銀はシェケル単位ですが、「シェケル」はほんらい「重さ」の単位ですから、イエスの頃のパレスチナで、貨幣を指す場合はギリシアのドラクメ銀貨か、ローマのデナリ銀貨が用いられました。銀1シェケル=4ドラクメ銀貨=4デナリ銀貨がおよその相場だったようです。かつては(前4~前3世紀)、1ドラクメ銀貨は羊一匹を買う値打ちがありました。また1デナリ銀貨は、当時の労働者の一日分の賃金に当たります。しかし、イエスの頃のドラクメ銀貨の値打ちはそれよりもかなり低かったと考えられます。マタイ17章24節には、男性一人あたりの「神殿税」が「ディドラクメ」(2ドラクメ)とあります。ちなみにネロ皇帝(在位54~68年)の頃には「ドラクメ」がローマの「デーナーリウス」に統一されましたから、ルカ福音書の頃の読者には「ドラクメ銀貨」は昔の貨幣です。銀貨十枚をつないで女性のネックレスとして用いる場合があり、あるいは10ドラクメは彼女の持参金だったという説もありますが、どちらの説も確かでありません。十枚のドラクメ銀貨は一般的に見てそれほどの多額とは思われなかったでしょう。しかし、彼女にしてみれば、その一枚一枚が貴重だったのです。
【ともし火】パレスチナの貧しい農村の家は、入り口からの光も少なく、窓がない場合が多かったので、昼間でも明かりを灯して家中(実際は一部屋なので「部屋中」)を「丁寧に注意深く探し回った」(原語の意味)のです。
[9]【友達や近所の女たち】原語は「友人たちと隣人たち」でどちらも女性形が使われています。パレスチナの村落では、一つの囲い塀の中で、中庭に面して数軒の家々が連なっている場合が多くありました。
[10]【神の天使たちの間】「神御自身も神に仕えるも天使たち共々に」の意味でしょう。ここには神の王座を中心にした「天の宮廷」の伝承が受け継がれているのかもしれません。なお「天使たち」が抜けている異読があります。
【喜びがある】原語の意味は歓声がどっと「湧き起こる」ことです。
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