146章 放蕩息子
ルカ15章11〜32節
【聖句】
■ルカ15章
11また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで餓え死にしそうだ。
18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
【注釈】
【講話】
■この物語の解釈
 今回は「放蕩息子」の話です。これはルカ福音書全体の真ん中にあるだけでなく、四福音書を合わせた先在のロゴスから人類の終末へいたる「イエス様物語」の真ん中にある、とさえ言える箇所です。このため、「イエス様のたとえの中で最大のもの」と呼ばれていますから、教父時代から数多くの解釈があり、また、デューラーやレンブラントなどの絵画があります。イギリス東部のリンカーン市の博物館の入り口を入ると、息子を抱える父親の等身大の胸像が目に入ります。ラテン語のウルガタ訳に「放蕩息子」とあり、この題名が現在でも受け継がれています。
 「ある人に二人の息子がいた」で始まるこの物語には、古来様々な解釈があって、わたしたちが思いつくほとんどすべての解釈がすでに行なわれています〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)430〜38頁〕。人間が神に贖われたことを妬んだ堕落天使(兄のこと)というグノーシス的な解釈に始まり、弟は異邦人のことで、兄はイスラエルの民を指すという解釈も古くからあります。兄が父に「誠実に仕えてきた」と言うのはその通りなのか? これは兄の「偽りの誠実」を指すもので、ほんとうは父と兄との間に仲違いがあったのではないか(?)という説や兄は「あまりに厳格すぎる律法主義のファリサイ派」を指すという推測もあります〔アレクサンドリアのキュリロス〕。飢饉とは神の言葉から離れたための善行の欠如のこと、豚の飼い主は悪魔を指すという解釈もあります。
 ユダヤ人も異邦人も含めて、人間は神に自由な意志で奉仕するよう造られたのだが、この自由を悪用して創造主を忘れた結果、窮乏のどん底に陥り、そこで再び創造主を想い出し、「悔い改めて」神のもとに帰ると、神は人間にほんらいの(堕罪前の)栄誉を与えてくださった〔エイレナイオス〕というのも伝統的な解釈です。
 教会で洗礼を受けた後のクリスチャン(弟を指す)が教会に背いて離れ、辛い目に遭って悔い改めて再び教会へ戻り、犯した罪を神に告白すると、これに伴い神の赦しの慈愛が与えられて、教会での洗礼と聖餐に再び与る状態に復帰させてくださった。ところが、この復帰を嫌う信者たち(兄のこと)がいて、教会のこの処置を批判したいう解釈もあります〔アンブロシウス〕。
 神からが与えられた自由をはき違えた人間が、与えられた恵みと自然の賜物を無駄に費やし、苦境に陥った時に罪の自覚が与えられ、悔い改めへと導かれた。だから、悔い改めは予め父なる神からの働きかけなしには不可能であるという解釈も伝統的です〔アウグスティヌス/ルター〕。弟の行動は、最初からすべて父の遠大な計らいから出ているという見方もあります〔エラスムス〕。物語を実際の出来事だと判断して、「人間の」父でさえ赦すのなら、まして神は赦さないであろうかと問いかけ、神の驚くべき慈愛とこれを阻もうとする人間の邪悪さを指摘する声もあります〔カルヴァン〕。
 ここで確認しておきたいことがあります。父は兄を戒めてはいますが叱ってはいません。まして非難などしていません。兄が父の言葉を聞いて快くそれを受け容れたかどうか? 弟はその後どのように過ごしたのか? これらのことはいっさい語られていません。
■悔い改めと和解
 今回の物語では、弟の「悔い改め」と父との「和解」、これに対する兄の「不服」が主題であるのは間違いないでしょう。ここで語られていることは、現在でも、およそ「悔い改め」と「和解」が行なわれる時に必ず生じる問題です。
 かつて日本軍が韓国で従軍慰安婦を募集したことで、村山内閣は日本国家として正式に「お詫び」の声明を出し、生存中の韓国のかつての被害者たちにそのお詫びと共に慰謝料を支払おうとしたことがあります。日本は終戦以来、過去に犯した罪を反省して、国外ではいっさい武力を使わず、現在まで日本の軍隊に殺された人は一人もいません。ところが、2014年の現在、韓国の一部の人たちは、日本のこのお詫びは不十分だとして、被害を受けた韓国の女性たちに日本の謝罪と見舞金を受け容れるのを拒否するように呼びかけています。このため、日韓関係は和解どころが今までにないほど悪化しています。「悔い改める」難しさは、それだけでなく、これを受け容れる側、さらにその受け入れを快く思わずお詫びの受け入れを妨げようとする人たちが必ずいること、これが、この問題の深刻さを物語っています。
 キリスト教の国である東チモールでは、かつてインドネシアからの独立を求める人たちとこれに反対する人たちの間で殺し合いが生じました。独立が達成された現在でも、家族を殺した人の謝罪を殺された側が受け容れるという和解が今も続いています。アフリカのルワンダでも、ツチ族とフツ族の間に殺し合いが起こり、100万以上の人たちが殺されました。これの和解が今もなお続いていると聞きます。イスラエルとパレスチナのアラブ人との間の殺し合いと和解、これは現在もなお先の見透しが立たないまま、紛争が続いています。
 刑務所を出たかつての犯罪者が、過去を反省して社会へ復帰しようとしても、周囲の人たちから前科者扱いされて、なかなか復帰が難しいと聞いています。わたしたちの日常の罪と悔い改めと和解の問題から国際規模の和解まで、人類の「罪」と「悔い改め」と「和解」の歴史は、これがいかに大切で、しかも難しいかを教えてくれます。人と人とが「悔い改めて和解する」。この難しさとこの大切さに人類の存続がかかっていると言っても言い過ぎではないでしょう。これを実現してくださるのは聖書の神だけなのです。
■弟の新生
 今回の物語でわたしが一番不思議に思うのは、弟を迎え入れる父親の態度です。そこに神の恵み、神の寛大な赦しを読み取る伝統的な解釈を否定するつもりはありません。けれども確かなのは、父親が帰ってきた弟にしたことは、弟自身にとっても、周囲の僕たちにとっても、予想もしない不思議な出来事だったと言うことです。このことは兄が弟の帰還に際して父にとった態度にこの上なくはっきりと表われています。通常の人間的なレベルで考えるなら、兄の父に対する不満は当然だと思います。父が、息子の放蕩の過去も顧(かえり)みず、親の情にほだされて以前と同じように家族として弟を迎え入れた。こういうことなら、それが正当か不当かはともなく、人の情として理解できないことではありません。ところがここで起こっていることはそうではないのです。父は息子に<以前にも優る>名誉を与えたのです。その名誉が「兄にも優る」ほどであることが、兄の父への言葉からもはっきりうかがえます。ここではなにか、わたしたち人間が想像もできないことが起こっているのです。それは神の深い知恵から出ているのは間違いありませんが、わたしたちも兄同様に、父のすることが理解できないのです。
 罪を犯した者のほうが、一見罪を犯したことがないように見える人たちよりも、神のより大きな恵みを授かることができるのか? この疑問に対してパウロは、イエス様の十字架の福音を「神の知恵」と呼んで、神が神を愛する者たちに備えてくださったことは、「人の目がいまだ見たことがなく、人の耳がいまだ聞いたことがなく、人間の心に思い浮かびもしなかったこと」(第一コリント2章9節)だと喝破(かっぱ)しています。「神を愛する者たち」と言いますが、逆に考えて、これだけとほうもない恵みを頂いたら、誰でも「神を愛する」ようになるのは当然です(ルカ7章36節以下参照)。
 今回の物語では、<その後>弟はどんな人になったのか、兄は弟を快く赦したのか、これらについてはいっさい語られていません。けれども、弟は「誰よりも父を愛する人」に変貌した。その結果、兄と弟の関係も以前に優る状態になった。どうもルカ福音書はこういう結末を匂わせているようにわたしには思われます。死んだ息子をイエス様に「生き返らせて」もらったナインの未亡人の出来事でも、<その後>この息子はイエス様を愛し神を愛する人に変貌しことを予想させます。同じ事が今回の物語でも起こっているのは「(弟は)死んでいたのによみがえった」とあることで分かります。人間が、それまでの人間とは異なる次元の人間へ引き上げられる。こういう事態が現実にありえるのです。しかもそれが、(個人であれ民族であれ)日常では起こらない危機的な体験を通して「悔い改めて神に立ち帰る」ことで生じる。こういう不思議な事態を今回の放蕩息子は物語っているのです。イエス様の父なる神は、わたしたち人類に「新しい人間」を啓示してくださったのでしょう。人間とは、常に人間を超えようとする不思議な生き物です。
 それにしても、こんなにわけの分からない神様のお計らいを、人間なら誰でも共感を覚える「分かりやすい」物語で語るルカ福音書はすごいです。分かりやすさと分かりにくさのこの不思議な二重性こそ、 ルカ福音書の不思議です。ルカ神学だとか、ルカの救済史理念などと、ルカ文書は一貫した理念で理解できるかのように言う学者がいますが、わたしはそうは思いません。ルカ文書(ルカ福音書と使徒言行録)は、驚くべき不思議な内容です。この不思議は、ルカがあのイエス様の伝えた霊性を深く洞察して、これを資料として忠実に受け継いでいるところから来る。わたしはそう思っています。
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