【注釈】
■放蕩息子の物語について
 この物語はルカ福音書だけにでてきます。物語の特徴は以下のようにまとめることができましょう。第一部で、最初に気づくのは次男の突然の勝手な願いを「驚きもせず」〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)422頁〕聞き届けれる父親の寛大さです。次いで次男が父のもとから「はるか遠くへ」立ち去る様子が言葉を重ねて強調されます。物語は、その息子が困窮の極みに達した時点で、外から見た息子の振舞いから、転じてその内面的な描写に移ります。そして「アナスタス」(起き上がる/立ち上がる/復活する)という鍵語を境に、息子は「直ちに行動」し始めます。この部分の背景にはエレミヤ書3章22節があると指摘されています。
 第二部では、息子が帰ってくるのを見た父親の様子が注目されます。描かれるのは息子を受け容れる父親の気持ちではなく、その「受け容れ方」のほうです。彼は息子に何も言わず、彼を抱きしめて、直ちに僕たちに向いて命令します。息子の行動に合わせて、父親のほうも行動するのです。息子が「死んでいたのによみがえった」(24節)は、ここまでの締めくくりにふさわしいと言えましょう。
 ところが、締めくくりの「祝い始めた」は終わりではなく、第三部の始まりになります。兄のほうは、息子のようにそれまでの経緯が語られず、いきなり兄の怒りで始まります。弟の内面的な描写には、兄と僕の対話が対応します。父の弟への無言の抱擁には、父と兄の話し合いが対応します。一方にとって都合のいい福音は、他方にとって都合の悪い出来事なのです。問題は、父と兄から、兄と弟の関係に移り、さらには、兄の弟に対する態度が問われるところまで発展します。このように、この物語では、弟の悔い改めと兄の不満という「二つのポイント」が、相互補完的に描かれます。ルカ福音書の歴史的な背景から見れば、兄はユダヤ人(ユダヤ教徒)を指し、弟は異邦人(異教徒)を指しているのは間違いありませんが、さらに問題を絞るなら、キリスト教会での、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒の問題も背景にあると見ることができます。しかし、すでに見てきたように、物語にこめられた譬え(隠喩)は、時代を超えてその時時の歴史的状況に応じて語りますから、「福音書の中の福音」と言われるこの物語は、現在のわたしたちにも語りかけています。
 物語の前半はパレスチナでのセム的な要素が強いのに対して、後半はギリシア的です。この物語はルカ福音書の作者か、あるいは彼以前の誰かによる創作だという説もあり、物語はほんらい弟の悔い改めによる帰還だけのルカ福音書の独自資料(L)に、福音書の著者が後半を加えて編集したと言う見方もあります。しかし、物語全体は、「悔い改めた罪人への神の慈愛」という主題で統一されており、前半は資料からで後半は後からの編集だと見なすことはできません〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1085頁〕〔マーシャル『ルカ福音書』605頁〕。伝承と編集の境界を見定めるのは困難です。ほんらいイエスによって語られたたとえ話が、ルカ福音書の独自資料として伝承され、これにルカ福音書の作者による編集が加えられて、この福音書の中心に置かれた見るべきでしょう〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)424頁〕。
■注釈
[11]【そこで言われた】そこで(イエスは)言われた」は、直前の失われた羊と失われた銀貨のたとえを受けています。
【ある人】「人」の原語「アントロポス」はルカ福音書の独自資料(L)の特徴です〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)424頁〕。
【二人】「息子二人」は、弟だけでなく兄もいることを読者に悟らせ、物語の後半を予測させます。
[12]古代のパレスチナでは、家長を中心とする大家族が理想とされました。家長(今回の父)は、自分の財産を自分の死後どのように処理するのかを遺言によって決めるか(ガラテヤ3章15節参照)、あるいは自分の生前に贈与することもできました。大家族制では、財産をなるべく分割しないで、兄弟仲良く暮らすのが理想とされましたが、「遺産争い」が起こるのも避けられなかったようです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1087頁〕。シラ書33章20~22節に父の生前贈与はなるべく避けたほうがよいとあります。ただし、生前贈与の場合、不動産は譲られた息子が直ちに自由に処分することができず、その所有権だけを保留して、父の死後に不動産の処分が行なわれたようです。今回の物語では、次男は自分の「取り分」の生前贈与を父に要請したのですが、このこと自体は律法に反することではありません。兄弟の場合、通常、弟の取り分は兄の半分でした(申命記21章15~17節)。「わたしが頂くことになっている」とあるとおり、弟の要求は決して不当ではありません。「財産(ウーシア)の分け前」とは不動産のことであり、「財産(ビオス)を二人に」は生計を立てる手立てをも指します。「二人に」とありますが、兄も同時に自分の取り分を受け取ったという意味ではありません。以後の話を見ると、父はいぜんとして全財産の所有者であるという印象を受けます。
[13]【全部を金に換えて】原語は「集める/一括する」ですが、ここでは「まとめて換金する」ことでしょう。「まとめて」〔フランシスコ会訳聖書〕。したがって、自分の不動産の「(将来の)所有権」も換金したことになります。「遠く国外の地方へ出て行った」とあるので、この息子は、二度と故郷へは戻らないつもりだったことが分かります、
【放蕩の限り】原語は「救いがたい生活で資産を食い散らす」。「救いがたい」は資産が「二度と自分の手もとに戻らない」ことだけでなく、彼の生活自体がふしだらなことを含みます。「身を持ち崩し」〔フランシスコ会訳聖書〕。弟の過ちは、父のもとを出たことよりも、父の贈与を悪用したことにあるいうという見方もあります〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)425頁〕。物語全体を通じて「お金/財産」の問題がたとえを構成しているのが分かります。
[14]【その地方に】この時代は、現在のように物資の流通が円滑でなかったから、局地的にそれぞれの程度に応じて飢饉が起こるのは珍しくありませんでした。弟が使いまくって何もかもなくなったちょうどその頃に、わざわざ遠く出かけていったその地方で「厳しい」飢饉が発生したのです〔プランマー『ルカ福音書』373頁〕。
【困る】原語は一語で「困窮する」こと。食べ物だけでなく生活できなくなることです(フィリピ4章12節「飽き足りる時も飢える時も、豊かな時も窮乏する時も」)。
[15]~[16]【身を寄せた】ここでは下働きとして「使ってもらう」ことです。「ある人」とはその地域の市民のことで、豚の群れを所有していたのは異邦人だからです。「身を寄せる」の原語には「すがりつく/関わり合う/交わりを持つ」の意味もありますから、異邦人と交わり豚に触れることで、彼はユダヤ人として「汚れた」生活をしなければならなかったのです(使徒言行録10章28節の「異民族と交際する」を参照)。
【いなご豆】原語の「小さな尖ったもの」とはいなご豆のさやのこと。オリエントでは豚の餌にぶどうやオリーブの絞りかすに草類を混ぜた物などが用いられたが、いなご豆の黒ずんださやは、乾くと苦みがあり、オリエントでは動物の餌として用いられ、時には豆類やスイカの種と共に人が囓ることもあったようです〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)426頁〕。ギリシアでは、いなご豆のさやは乾燥させて現在でも非常食として使われるようです〔織田昭『新約聖書ギリシア語小辞典』313頁〕。「豚が食べる(不定過去形)」は、彼の目の前で豚が食べている様子を表わし、「腹を満たしたかった」は、食べようとしたものの、さすがに「豚と餌を共にする」のは気が引けて手が出なかった(それほどひもじかった)ことです。
【腹を満たす】「腹を満たす」と「飽き足りるほど食べる」のふたとおりの異読があります。ひもじかったのでとにかく「腹一杯食べてみたい」という願望に突き動かされたのでしょう。しかしだれ一人「まともな」食べ物をくれなかったのです。
[17]原文の意味は「あんなにたくさんの雇い人たちがいて、しかも彼らは飽き足りるほど食べているのに」です。
【言った】口に出して言うことではなく「心に思う」こと。"say to himself." ここから息子の外面の様子から内面の描写に転じます。
【我に返る】原文は「自分に戻る」"come to himself"。「戻る/立ち帰る」 はルカ福音書だけでなくヘレニズムでは宗教的哲学的な意味で「ほんらいあるべき状態に回復する」ことを指します(ヨハネ9章7節「目が見えるように<立ち帰った>」)。それまでの息子は「気がどうかしていた/まともではなくおかしかった」のです。
【飢え死にする】原文は「飢えで滅びる」。原語の動詞は「滅びる/失われる/死ぬ」などの意味を含みます。
[18]~[19]【ここをたち】原文は「ここから立ち上がる」です。「立ち上がる」は単なる行動を示すだけでなく、窮地に立たされた時に与えられる啓示に従うことを意味します(列王記下7章5節で4人の皮膚病患者が「立ち上がった」とあるのを参照)。
【天にも父にも】ヘブライ語の「罪を犯す」は「誰に対する」罪かを示す前置詞を伴います。人に対する罪は神(天)に対する罪とひとつです(出エジプト10章16節を参照)。特に親に対する罪は重く受けとめられました。
【呼ばれる資格】「呼ばれる」はある資格/存在を「与えられる」ことです(マタイ5章9節「神の子と呼ばれる」)。
[20]この節の始めのほうは17節の繰り返しで、弟の記述は「自分の父へ戻る」ところで終わります。物語の第二部は彼を受け容れる父の姿で始まります。父の様子は「(息子が)まだ遠く離れているのに」「彼を目ざとく認めて」「心を揺り動かされ」「首を抱き」「心をこめて口づけした」と一言一言が慈悲と恩寵に溢れています。
【首を抱き】原文は息子の頭の上に「身を投げ出す」ことです。この言い方はパウロがエフェソの信者たちと最後の別れをする時にも出てきますが(使徒言行録20章37節)、同じ表現がヤコブを迎えるエソウ(創世記33章4節)にもベニヤミンを迎えるヨセフ(創世記45章14~15節)にもでてきますから、深い和解を表わします。「心から口づけする」は、父がこの時を早くから待ち望んでいたことを意味するのでしょう〔プランマー『ルカ福音書』375頁〕。
[21]「私を雇い人同様にしてください」が続く異読がありますが、息子の言葉は19節とほとんど同じですから、この部分も後で19節をそのまま加えたのでしょう〔新約原典テキスト批評164頁〕。息子は父のこれほどの寛大さを期待していなかったこと、それゆえ父の対応に戸惑った様子をうかがうことができます。
[22]~[23]【僕たちに】父が僕たちに命じるのは、父がいぜんその家全体の主であることを表わします。
【急いで】「急いで/早く」が抜けている異読があります。
【一番良い服】原語の「一番」は「最初の/始めの」と「最良の」のふたとおりに解釈できます。息子が家出する前に着ていた服を指すのなら〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)428頁〕、父は息子が家出する前と全く同じ地位/資格を彼に回復したことになりますが、「最良の服」の意味だと、息子は特別の客として名誉をもって迎え入れられたことになります〔プランマー『ルカ福音書』376頁〕〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1090頁〕。息子の過去が回復されたと見るのは理解しやすいですが、この話には、神の不可解な寛大さが潜んでいますから、悔い改めた息子がかつて経験しなっかった全く新しい事態が授与されたと解釈するほうがいいと思います。
【指輪】捺印するためもので、その人の地位/資格を表わします(創世記41章42節)。
【履き物】奴隷は通常素足ですから、自由人であることを示します。
【肥えた子牛】単数ですからとっておきの「肥えた子牛」だという解釈もありますが、そこまでいかないまでも、何か特別の場合に屠る子牛のことです。「屠る」とあるのは「感謝の生け贄を献げる」ことだという解釈もありますが、そうではなく「お祝いをする」ためのものです。なお「祝う」は受動態ですが、新約聖書では「祝って楽しむ/喜び合う」ことです。
[24]【この息子】原文は「このわたしの息子」で、これは21節の「あなたの息子(と呼ばれる資格がない)」に対応します。
【死んでいたのに】「死んでいたのによみがえり、見失われたのに見出される」は、ヘレニズムユダヤ教では「改悛/悔い改め」を表わす用語です。これがキリスト教に受け継がれて洗礼によってキリストに贖われた救いを表わす用語になりました〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)428頁(注)40〕。"I was once lost, but now I'm found" [Amazing Grace].これがルカ15章全体を通じて流れる主題です(6節/9節/24節/32節)。なお「そして宴会を始めた」は内容的に次の25節へつながります。
[25]【兄】15章1節からの「兄」は、ファリサイ派や律法学者を指すという解釈もありますが、続く父とのやりとりから判断すると、「兄」をそのように狭く限定する必要はありません。
【畑にいた】この記述から判断すると、この家は裕福ではあっても、特権階級や大富豪ではなかったようです〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)428頁〕。
【音楽や踊り】原語は「シュンフォーニア」の単数属格と「コロス」の複数属格。「シュンフォーニア」は楽器の音色を指しますが「コロス」には「踊り」と「合唱/歌声」の両方の意味があります。楽器に合わせて歌ったり踊ったりする音が聞こえたのでしょう。
[26]~[27]【僕】先の原語「ドゥーロス」(僕)ではなく「パイス」(子供/僕/家来)です(ルカ7章7節)。歳下の僕のことでしょうか?
【無事で】原語は「健康で/元気で」です。しかしこの語は、ルカ福音書の頃のキリスト教では「<健全な>教え」の意味でも用いられていました(第一テモテ1章10節/第二テモテ4章3節)。ここでも「まともな人間として」の意味が含まれるのでしょうか〔ボヴォン前掲書428頁〕、それとも単に「元気な姿で」の意味でしょうか〔プランマー『ルカ福音書』377頁〕〔マーシャル『ルカ福音書』612頁〕。音楽や踊りの<理由>はそのどちらでしょう。
[28]原文は「<それだから>兄は怒って」です。これは32節の「<それだから>祝い喜ぶ」に対応します。父は弟にしたと同じように「自分から<出てきて>しきりに兄を宥(なだ)めた」のです。「懇(ねんご)ろに彼を宥めた」とありますから、父と兄は仲が悪かったと見るのは誤りで、事実はその逆です。ルカ福音書はここで、「ねたみやいかなる怒りも聖書的に見れば非難されるべきこと」〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)429頁〕を言おうとしているのでしょうか?
[29]~[30]以下の兄の言葉は、「このわたしには」と次節の「あのあなたの息子には(軽蔑をこめて)」が対応し、「子山羊」と「肥えた子牛」が、「わたしの友達と」と「娼婦どもと」が対応します。「宴会する」には「食事をする」という異読がありますから、異読を採れば、これも「肥えた子牛を屠って祝ってやる」ことと対応します。
【お父さんに仕える】父の戒めを守り誠実に父に仕えてきたこと。兄は自分の美徳より弟の悪徳のほうが報いが大きいのか?と問いかけるのです。兄のこの言い方にファリサイ的な律法主義を正当化する精神を読み取る解釈があります(ルカ17章9~14節参照)〔プランマー『ルカ福音書』378頁〕〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1091頁〕〔マーシャル『ルカ福音書』612頁〕。しかし、この比喩をそのように限定するのは適切でないという見方もあります〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)429頁〕。
【帰って来る】原語は「来る」だけですから、兄は「弟が戻った」とは思っていません。「あなたのあの息子が出で来る」という言い方に注意してください。
[31]~[32]【子よ】原語はこれまでの「ヒュイオス(息子)」ではなく「テクノン」です。「子よ」と親しく呼びかけています。
【いつもわたしと】息子は自分がなおざりにされていると誤解していますが、弟に与えられている今の特別の好意は、<いつもお前と共に>あったし、それは今も変わらないこと。
【お前のあの弟】兄の「あなたのあの息子」に対応して、父は「お前の弟」と言い換えています。
【祝って楽しみ喜ぶ】事は公平か不当かではなくて、「喜び」のほうにあるのです。「祝って楽しむ」は外見的な行為で、「喜ぶ」は内面を表わします。「当たり前」の原語は「デオー」(欠けていて必要である)の不定過去形ですから、「こうするのが必要不可欠のことだった」で、兄が今までそのことに「気づかなかった」ことを分からせるためでしょう。
 しかし兄の側からすれば、法的に見ても倫理的に見ても、父の行為は十分説得的とは言えないという批評があります〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)429~430頁〕。ここには、より深い霊的な視点から、人の思いを超えた父の不思議な寛大さを読み取るべきでしょう。
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