147章 不正な管理人
ルカ16章1〜9節
【聖句】
 
■ルカ16章
1イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。
2そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
3管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
4そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
5そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。
6『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
7また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
8主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
9そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」
                                          【注釈】
                                       【講話】
■様々な解釈
 今回のたとえ話について代表的な解釈を以下に幾つかあげます〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)451〜54頁を参照〕。
 ヒエロニュムスは、このたとえを比喩的に解釈して、管理人をなんとパウロにあてはめました。パウロは改心する時まで、長らく金持ち(神)を騙していたではないか? しかし旧約の律法と預言者をイエス・キリストの福音へ切り替えることで、律法を守るユダヤ人の負担をただキリストを信じるだけの救済観へと「軽減して」やり、これによってパウロ自身も神の慈悲に与った。こうヒエロニュムスは考えたのです。
 アンブロシウスは、地上の富が人間にとって一時的な物であることを説き、人は富を持って生まれることも、富を持ったまま死ぬこともできないと諭しました。古いドイツの説教には、管理人がほめられたのは、彼が狡かったからではなく、自分の身に対して賢明に振る舞ったからだとあり、だから死を迎える用意をせよ。自分の財産が死によってどうなるかを予見せよと説いてます。
 エラスムスは、わたしたちが地上で行なう善は決して無駄になることがなく、未来へ遺ること、物質的な富は自己の益のためでなく隣人の益のために用いるべきだと解釈しました。ルターは、今回のたとえが「人間の業」を正当化するほうへ誤って解釈される恐れがあるとして、ただ信仰によってのみ義とされると説いています。
 ドイツの神学者ベンゲルは、このたとえを救済史的に解釈し、特定のユダヤ人に向けられたユダヤ教から、普遍的な対象のキリスト教への移行を読み取りました。ユダヤ人の使徒たちは自分たちに委ねられた霊的な契約と神の霊的な支配を自分たちだけのものとすることが許されず異邦人と分かち合ったと彼は考えたのです。今回のたとえ話のポイントが、終末と金銭的な富の関係にあるという見方も根強く現在まで続いています。
■たとえの解釈
 注釈でも指摘したように、ルカ福音書を神学的に統一された文書だと見なして、その神学的な意図に沿って全体と個々の物語を解釈しようとするのが現在の傾向です。では、「その神学的意図」とはなにか? となると、これがなかなかまとまらないのが現状です。こういう傾向に対して注意しなければならない理由を、わたしなりに三つあげておきます。
(1)ルカ福音書と聖霊の働きの関係が軽んじられるか、無視されるか、あるいは意図的に「合理化」される傾向があります。使徒言行録と聖霊の働きの密接な関係を持ち出すまでもなく、ルカ福音書においても、聖霊の働きが重視されています。ルカ福音書の「神の国」とは、地上を歩まれたナザレのイエス様が、復活して信者一人一人を通して働く聖霊の働きにほかなりません。しかし、現在のルカ福音書の一般的な解釈では、これの救済史的な一貫性を重視するあまり、聖霊の視点が見過ごされるおそれがあります。イエス様の弟子たちが、いざという時に、何をどう言うべきかを「その時その場で」聖霊が授けてくださること(ルカ12章11〜12節)、「これが」ルカ福音書の伝える聖霊観に潜む本質ですが、聖霊の働きを「合理化」するあまり「この点が」見落とされるのです。
(2)今回のたとえ話も、伝承されたルカ福音書の独自資料に基づいています。「伝承」とは、たとえそれが、異なる歴史的状況やそれまでとは違う文脈に置かれていても、伝承それ自体に宿るほんらいの意義は、どこまでも伝承ほんらいの意義を主張し続けて止めないのです。この点を見過ごすと、聖書に限らず、引用や物語のテキストの解釈を誤る基になります。
(3)今回のように、譬えを含む言説や物語は、その時時の歴史的状況やテキストの受け取り手の置かれた個人的な状況によって、無限に異なる意義を発することができます。このことを忘れると、聖書のような霊的な書物を読み解く際の「御霊のお働き」の重要な意義を見失うことになりかねません。
■わたしなりの解釈
 上に述べた視点から、今回のたとえ話をわたしなりに解釈するなら、あえてヒエロニュムスにならって、これを比喩的に理解したいと思います。伝統的には、16章を富/金銭と関連づける傾向がありますが、ルカ19章11節以下のムナの譬えは、銀行に預けた投資信託の利益のこと考えさせるためでないのは明らかです。同様に、今回の「不正の富」も神が人に与えた霊的な資質と関連づけることが許されるのではないかと思います。
 わたしたち主にある者たちは、神からそれぞれに知識や能力や財力や体力が与えられています。教会の指導者たちをも含めて、そこには霊能や霊的な知識や知恵、その他の神からの霊的な賜も含まれます。
 けれどもわたしたち、たとえイエス様にあるクリスチャンが霊の賜を活かす場合でさえも、肉を具えた人間である以上、そこに何らかの肉の働きが混入するのを避けることができません。1%のインスピレーション(霊感)には、99%のパースピレイション(汗)が伴うのです。行ないに熱心だと信仰が欠けていると言われ、信仰だけにより頼むと行ないが欠けていると言われます。だから、わたしたちのやることすることは、所詮この世では、お金同様「不正の富」にすぎません。しかし、たとえ地上の「不正にまみれた富」(ルカ16章11節)であっても、1%の御霊のために99%の汗をかいて、霊の仲間のために労するなら、主様の父はこれを善しとしてくださるのです。人が行なうことに「不正」のマイナス記号が付くのは避けられませんが、それでもなお、「不正」を覚悟の上で、御国のために愛の業を行なうなら、今回のご主人のように、マイナスの業にもプラスの記号をつけて、これを善しとしてくださるのです。人は、何をどれだけ行なったからではなく、「なんのために」それを行なったかで、その人の窮極の評価が決まるからです。
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