【注釈】
■16章の構成
 16章も15章2~3節を受けて、同じファリサイ派の人たちに向けて語られているとして、16章全体を「正しさ/義」と「不正」(16章15節)の主題でひとまとめにする視点があります〔プランマー『ルカ福音書』380頁〕。あるいは全体を「富/金銭の正しい用い方」という視点でまとめる見方もあります〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1095頁〕〔マーシャル『ルカ福音書』613頁〕。しかし、これらの注解者も認めるように、16章には離婚の問題や律法と福音の関係なども扱われますから、全体を一つにまとめる見方は適切とは言えません。今回に限らず、ルカ福音書がある特定の神学的な意図で統一的に編集されているという見方は、よほど注意しないと、個々の記事の霊的な内容を読み誤るおそれがあります。特に「譬え/たとえ話」を解釈する場合は、こういう統一的な視点にとらわれるのは危険です。
 今回のたとえ話を資料的に見ると、「ある(金持ちの)人が」で始まり、登場人物の内面的な独白(3節)など、ルカ福音書の独自資料(L)の特徴を帯びています。これに対して、10節以下は格言的なスタイルで、イエス様語録からの引用が挿入されていますから(13節/16節/17節/18節)マタイ福音書と共通する部分があり、今回の語り方と異なっています〔ボヴォン前掲書444頁〕。ただし、独自資料(L)それ自体が、すでにこれらイエス様語録からの引用を含んでいたとも考えられます〔マーシャル『ルカ福音書』614頁〕。16章9節を10節以下と結びつける訳もありますが〔フランシスコ会訳聖書〕、8~9節は一つで、後からの編集が加わっていると考えられますから〔ボヴォン前掲書445頁〕、16章1~9節をひとつにするほうが適切です〔『四福音書対観表』196~97頁〕。したがって、16章10~13節は「小事を大事に」と題して別項目で扱うことにします。
■不正な管理人のたとえ
 このたとえは様々に解釈されますが、それだけに疑問が多く、たとえ話の真意は「富の正しい用い方」なのか? 「あつかましくても機転を働かせよ」と教えるのか? 「差し迫った終末への心備え」のことなのか? 「ご主人」とはイエスを指すのか? 友になってくれる「負債者」とはだれのことなのか? 9節は8節と結ぶのか、それとも10節へつながるのか? などの問題があります〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)443頁〕。ブルトマンは「ルカ16章1~9節の不義な家令の譬え話は、明らかに、詐欺師の狡猾からさえ学ぶことができる、と述べようとしているが、しかしそれはどのような方向でのことなのか?」と疑問を呈しています〔ブルトマン『共観福音書伝承史』(Ⅰ)339頁/ブルトマン著作集(1)新教出版社〕。最近では、イエスの頃のパレスチナの大土地管理人の慣例についての考証からこのたとえ話を解釈する場合が多いようです〔1節の注釈参照〕。
■注釈
[1]【弟子たちに】この話は「弟子たちに」向けられていますが、状況から判断すれば、ファリサイ派の人たちも聞いていたことになります(14節参照)。
【管理人】「ある金持ち」とはおそらくパレスチナの大土地所有者ですが、彼自身は不在地主で、管理人はその土地の管理運営の全部を委託されていたのです。このような管理人は通常経験を積んだ誠実な人物で、主人の名代として運営と取引のいっさいを行なうことが許されていました(能力のある奴隷の場合もありました)。こういう場合、オリエントでは、管理者はその土地の運営で得た利益を「利息付きで貸し出して」その利息分を自分の所有にすることが慣習として認められていました。ただしパレスチナでは利息を取ることは公式に言えば律法違反になります。しかし、パレスチナでも同様のことが慣わしとして行なわれていたようです(タラントの譬え参照)。「証文」とはその元金と利息を明記した書類を指します。ところがこの管理人は、主人の財産の運営でなんらかの「不正を働いた」ために、主人にそのことを告げ口されて解雇される羽目に陥ったのです。そこで彼は、負債者たちを呼び出して、ほんらい自分が受け取ることになっている「利息分」を帳消しにして、言わば「自腹を切って」負債を軽減してやったのです。この処置は、実質的に主人になんら損失を与える処置ではありませんから、このやり方が、その「不正な」管理人の「賢明な」処置だと主人からほめられたのです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1097~98頁〕。
【無駄遣い】原語は「散財する/無駄遣いする/浪費する」ですが、話の内容から判断して「不正なこと」をしたのでしょう。主人の金を「使い込む」〔フランシスコ会訳聖書〕。
[2]【聞いていることがある】「お前について聞いている不正な事実は何事か!」という詰問と、「このうわさは何事か?」という不信の問いかけのふたとおりに解することが出来ます〔プランマー『ルカ福音書』382頁〕。「うわさを耳にしたが、いったいどういうことだ」〔フランシスコ会訳聖書〕〔プランマー前掲書〕。
【会計の報告】具体的な不正の件で決算を報告するよう命じているのか、管理全体を報告するように命じているのか、見解が分かれます。前者であれば、猶予はありませんが、後者であれば、報告の内容次第で赦される可能性もあります。後者の可能性のほうが高いでしょう〔プランマー前掲書〕〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)447頁〕。ただし不正を行なっていた管理人は、報告の結果間違いなく解雇されると判断したのでしょう。「報告する」(責任を問われて「言葉で応じる」こと)についてはマタイ12章36節/使徒言行録19章40節を参照。なお「会計」の原語「オイコノミア」は「管理/運営」の意味で、ルカ福音書の時代のキリスト教では、教会の組織とその管理運営だけでなく、家族や社会的な組織の運営などにも用いられました。
[3]【考えた】原文は「自分に向かって言う/心で思う」で(ルカ7章39節参照)、この言い方はルカ福音書の独自資料の特徴です。これが登場人物の決心を導き出す前提になりますから、この言い方は1節の「無駄遣いする/散財する」と共に放蕩息子の物語を思わせます(15章13節/同17節)。
【取り上げようと】管理人は自分のしたことが解雇に値すると感じとっています。「主人の家に恥をもたらす者は、その地位を追われるか、その職務を解かれる」(イザヤ書22章19節)とあるように、主から委託を受けた者が不忠実で不正を働く場合、その者は神によって退けられます。
【土を掘る】原文は「掘るだけの力がない」。「掘る」は畑仕事、ぶどう酒作りなど肉体労働全般のこと。
【物乞いする】原意は「さらに(落ちぶれて)施しを乞う」のはとても恥ずかしくてできない。
[4]【そうだ。こうしよう】原文は「自分が何をするのかを思いついた」で、突然に考えがひらめいたのです。続く「迎え入れる/受け容れる」は主語がはっきりしない不特定複数の動詞です。
[5]~[6]【証文】書かれた証文は、管理人と負債者の間で取り交わされるもので、証文には実際に貸した原資と管理人の手数料(コミッション)/利子が分けて記される場合と、原資と利子を併せた総額だけが記載される場合がありました。パレスチナでは律法によって利子を取ることが禁じられていましたが、オリエントでは、管理人が主人の財産で利子を取るのは慣例として広く認められていたことからパレスチナでも実際は黙認されていたようです〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)448頁〕。だからパレスチナでは利子を明記することを避けて総額で記載される証文が多かったのでしょう。特に、今回のように油や穀物の場合の利ざやは大きく、当時のエジプトでは食料品の利子は50%でした〔マーシャル『ルカ福音書』619頁〕。ちなみにローマ帝国からの徴税の場合も、請け負った徴税人は、総額として請負額が決められたので、かなりあくどい中間手数料を取ることができたようです。この管理人は、この点を利用して、利子分を差し引いた額に証文を書き換えさせたのです。こうすることで、負債者の返済額を減じることができ、利子を放棄した管理人は律法を忠実に守ったことになり、しかも主人には実質的な損失をかけないという巧みなやりかたをしたのです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1100~1101頁〕。ただし、たとえそうであっても、証文を偽造した「不正」は残るという解釈もあります〔ボヴォン前掲書448頁〕。
【バトス】「バトス」はヘブライの「バテ」のギリシア読みです。出エジプト記(16章33~36節)に天からのマナを「正味1オメル」だけ容れる壺を用意することが命じられています。1オメルは2.3リットルで、10オメル=1エファ、1エファ=1バテになります。古代のパレスチナで出土する壺の容量を平均すると1バテ=約21~23リットルです〔『キリスト教大事典』(教文館)「聖書の度量衡2頁〕〔マーシャル『ルカ福音書』618~619頁〕。しかしヨセフスの『ユダヤ古代誌』(8巻57節)には「1バトスは72クセステース」とあり、1クセステース=半リットルとして、1バトスは約36リットルになります。クムランから出土した壺だと1バトス=40リットルほどです〔マーシャル前掲書618頁〕。バテの容量は時代によってかなり変化していますから、確かなことは分かりませんが1バトス=40リットルがイエスの頃の実際の容量でしょうか〔岩波訳ルカ福音書16章6節(注)5〕。
【五十バトスに】上記の解釈が正しければ、この管理人は油に100%の利子をかけていたことになります。これも「あくどい」やり方に入るのでしょうか。100バトスの油はオリーブの木約140本分の収穫にあたり、これは金額にして労働者500日~600日分の賃金に相当します〔ボヴォン前掲書448頁(注)41頁〕。
[7]【小麦百コロス】「コロス」はギリシア読みで、ヘブライ語の「コル」にあたる穀物などの容量を量る単位です。旧約聖書では、1オメル(2.3リットル)/10オメル=1エファ(23リットル)/10エファ=1コル(230リットル)になります〔新共同訳度量衡表〕。したがって、100コロスは23000リットルです。80コロスに書き換えさせたのだから、利子が25%だったことになります。言うまでもなく管理人は、これ以外にも様々な利率で油、ぶどう酒、穀物などを貸していたのです。
[8]~[9]8節の後半は、明らかに主人の言葉とは思われません。また今回のたとえ全体の趣旨とも合致しません。構文も後からの加筆を示唆します。このたとえが「狡いやり方を助長する」と「誤解」した初期のユダヤ人キリスト教徒の編集による付加でしょう。おそらく、ルカ福音書の編集者は8節後半をそのまま9節へつないだのでしょう〔マーシャル『ルカ福音書』620頁〕。
 8節の「不正な管理人を」は、9節の「不正の富によって」と対応します。8節で主人は「ほめた」とあるので、この管理人は、犯した不正を咎められたけれども、結果として逆に主人からほめられた、あるいは主人は管理人の不正を赦して、彼は解雇を免れたという解釈があります〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1101頁〕。ただし、不正を働いた管理人は結局解雇されたという見方もあります〔プランマー『ルカ福音書』384頁〕。
 上の解釈によれば、管理人は自分の相手の人たちの利益を配慮して「賢く/抜け目なく」自分の仲間を増やした。これを受けて9節では、同じように、霊的な世界の人たちも、霊の仲間の益を図って賢明に対処するなら、終末の時(神の御前での決算の時)、霊の仲間のお陰で神に赦していただき、御国に受け入れられる。こういう解釈が成り立つでしょう。この場合、「抜け目ない/賢い」は、終末の時を慮(おもんぱか)って仲間のクリスチャンに対処することを意味します〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1101~2頁〕。イエスは、ここで弟子たちに、終末に備えて互いの交わりを大事にする(「互いに友達同士そうしなさい」)よう警告しているとも解釈できます〔マーシャル『ルカ福音書』621頁〕。
【この世の子ら】原語は「この時代(アイオーン)の子たち」で、今の時代/世と来たるべき新しい時代/世とを区別して、人は現世においてそのどちらの「時代」を追求するかによって、「この世に属する」者なのか、「来たるべき新しい時代に入る」者なのかが決まります。
【光の子ら】第一テサロニケ5章5節/エフェソ5章8節/ヨハネ12章36節を参照。
【不正の富】「富」のギリシア語「マモナース」はアラム語の「マーモーン」から出ていて、ほんらいは「頼りになるもの」の意味です。だから、あらゆる種類の「善い物/財産」などを指し、必ずしもそこに「悪」の意味はなかったと思われます。だから「不正な富」とは、神のいます天の霊的な宝/富に対して地上の頼りにならない「富/財産」を指すのでしょう。だとすれば、「地上の富を施しに用いることで天に宝を蓄える」ことを「不正の富を用いて友を作る」ことにたとえているのです。9節はたとえとはほんらい別個であって、ルカ福音書の編集者による加筆説もありますが、このように解釈するなら、イエスほんらいのたとえに含まれていたと見ることもできます〔マーシャル『ルカ福音書』620頁〕。
【金がなくなったとき】ここを「あなたがお金から離れる時」、すなわち「この世を去る時」と解釈する訳もあります。"when money is a thing of the past"〔REB〕。この解釈は古代の教父たちによって行われました。
【永遠の住まい】「住まい」の原語「スケーネー」はここでは複数で、「天幕」「幕屋」を意味しますから、神の「住まい/宿り/臨在」をも指します(ヨハネ14章2節参照)。
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