37章 安息日に麦の穂を摘む
マルコ2章23~28節/マタイ12章1~8節/ルカ6章1~5節
【聖句】
マルコ 2章
23ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、
弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
24ファリサイ派の人々がイエスに、
「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
25イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、
食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。
26アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、
祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、
一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
27そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。
人が安息日のためにあるのではない。
28だから、人の子は安息日の主でもある。」

マタイ12章
1そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、
麦の穂を摘んで食べ始めた。
2ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、
「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
3そこで、イエスは言われた。
「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
4神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。
5安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、
と律法にあるのを読んだことがないのか。
6言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
7もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
8人の子は安息日の主なのである。」

ルカ6章
1ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、
弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。
2ファリサイ派のある人々が、
「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。
3イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、
読んだことがないのか。
4神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、
供の者たちにも与えたではないか。」
5そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」
 
【注釈】

【講話】

■安息日の成り立ち
 創世記の天地創造物語は、祭司資料にもとづいていて、第7日目は神が休息された聖なる日とされています。これが、安息日を神に捧げる日と定める根拠となりました。だからこの制度は、創世記で語られる神の創造の意味を人々に分からせる目的で生まれたのです。この制度は、なによりも宇宙を創られた神が存在することを知り、人が神と共に、宇宙の創造を喜び、神の御霊の働きとしての命を祝い、これに感謝するためなのです。命の主と人とが交わりによって共に喜ぶことです。
 アダムとイブは、神に背いて、せっかく与えられていた、神の創造を喜ぶ心を失ってしまいました。その後にイスラエルの民は、エジプトにおいて奴隷状態に置かれました。しかしイスラエルは、モーセによって導きだされて、解放の喜びを味わうことができました。イスラエルの安息日には、この出エジプトの解放と救済の出来事を祝う意味も含まれていました。その後に、イスラエルの民は、再びバビロニアでの捕囚の体験を味わいました。バビロンでの奴隷状態から解放されてエルサレムへ帰還した後に、イスラエルは、その救いの喜びを安息日制度の確立によって伝えようとしました。しかしイエス様の時代には、この創造と救済の喜びの体験も、再び細かな規則や律法によって逆に人間を従属させ、支配する制度へと逆転していたのです。
■安息日の意義
 創造の主は、宇宙の生命の主であり、命は主から出たものです。このことを心から祝うためには、人間は「安息」を見いだして、隷従状態から解放されていなければなりません。だから、経済的な理由から日曜日の休息を破壊する行為は、命の主であり、宇宙の創造者としての神を敬うことを忘れた行為につながります。
 神の御霊は「創造の御霊」(Spiritus Creator)です。神は、この宇宙をお造りになったことを喜び、宇宙に現われる御栄光を人間も共に喜ぶために安息日を定められたからです。だから、安息日は、父なる神が、人間と一緒に、宇宙の創造を悦ぶことを求めておられることを表わすものです。安息日は神の創造のみ業と深くかかわっています。ちなみに、創世記で、第七日目に「神が安息をとられた」とあるのは、神の創造された宇宙の終末を暗示するものです。
 イエス様は、安息日の根本的な精神に立ちかえって、御霊にある創造と自由、人を束縛から解放し、人間としてひとりひとりが自分の内に宿る御霊によって神と交わる命と創造と救いをよみがえらせてくださったのです。御霊による創造と救済、この二つこそ安息日を生み出した御霊の働きです。
 現在、経済効率のために、大勢の人たちが、日曜日を無視して仕事をさせられています。神様がお造りになり、人がこの宇宙の創造とそこに働く命を喜ぶという大事な心を忘れてしまっているのです。イエス様は、この安息日の根本的な意味を御霊によって、新たによみがえらせてくださったのです。しかしながら、安息日問題は、イエス様とユダヤの指導者たちとの間に大きな緊張をもたらす出来事となりました。なぜなら安息日制度こそ、当時のユダヤ教の律法の精神を具体的な生活に生かす網の目のように完備した制度だったからです。マルコ福音書3章では、安息日に手の萎えた人がイエス様によって癒されたことが出ています。ところがこの奇跡が、安息日との関係で問題とされています。さらに、ヨハネ章では、この問題が、癒された人のあり方をとおして、イエス様とファリサイ派との対立となって克明に描かれます。そこでは、人を幸せにするための安息日制度が、人を束縛し、その人の命を殺す方向へ働いていることがはっきりと語られています。
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