39章 湖畔で大勢を癒す
マルコ3章7〜12節/ルカ6章17〜19節/同4章41節
マタイ4章24〜25節/同12章15〜16節
【聖句】
マルコ 3章
7イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。
ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ
8エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、
イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。
9そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。
群衆に押しつぶされないためである。
10イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、
イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。
11汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
12イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。
ルカ6章
17イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。
大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、
また、ティルスやシドンの海岸地方から、
18イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。
汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。
19群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。
イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
同4章
41悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。
マタイ4章
24そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。
人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、
悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、
あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
25こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、
ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
同12章
15イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。
イエスは皆の病気をいやして、
16御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。
今回の所もイエス様による病の癒しと悪霊追放の記事です。共観福音書を重ね合わせて読んでみますと、イエス様のガリラヤ伝道の開始からイエス様の教えにいたるまでは、病気癒しと悪霊追放と安息日問題の記事が目立ちます。わたしが好んで癒しや悪霊追放を採り上げているのではありません。福音書がそう語っているのです。癒しと悪霊追放そのものについては、すでに何度かお話ししました。また、癒しと悪霊追放とがイエス様の教えと結び付くことも前回お話ししました。ここのイエス様の伝道のまとめは、ルカ福音書もマタイ福音書もイエス様の教えに直接つながっています。だから今日は、神癒や悪霊追放とイエス様の教えとの関係をもう少し違った観点から見てみたいと思うのです。
現在の日本では、これは日本だけでなく、実は世界中のキリスト教もそうですが、いわゆる癒しや異言や悪霊追放などの<霊的現象>とマタイ福音書やルカ福音書の語るイエス様の教えとが、注釈者の間で完全に分離しています。試しに手元にある福音書の注解を読んでご覧ください。イエス様の様々な教えについての注釈とイエス様の行なわれる癒しや悪霊追放の注釈との間に、何の関連づけも行なわれていません。全く別次元のことのように、並んで出てくるだけです。一方では、イエス様の教えについては、詳しく事細かな注解が行なわれています。ところが他方では、イエス様の癒しや悪霊追放については、原始キリスト教会の信仰によれば、こうなりますというように、まるでよそ事のように書いてあります。注釈者自身が、そういう霊的現象を信じていないのではないかとさえ思わせます。学問的な注釈になればなるほど、この傾向が強いです。
ところが、ご存じの通り、異言や預言は言うまでもなく、いろいろな癒しや悪霊追放が、国の内外の伝道者たちによって、現在盛んに行なわれています。この間、妻と二人で、40年ぶりにオズボーン先生の集会に出て来ましたが、祈りと聖書の御言葉への信仰、これによって起こる奇跡と神癒の伝道、これがアメリカを中心とするキリスト教の聖霊派や福音主義の諸教会では、日常のこととして語られ、また実際に行なわれています。それなのに、学問的な注解者たちとこういう神癒伝道者たちとの間には、日本だけではなくアメリカでも、おそらく世界中でも、全く何の交流も行なわれていません。オズボーン先生の集会に出た後で、関西学院で開かれた日本キリスト教学会で、ドイツの有名な聖書学者ルツ教授の講演に出ますと、まるで別の世界にいるようです。これが同じ聖書を信じているキリスト教の集まりなのかと不思議に思うほどです。もっと不思議なのは、どちらの側の人たちも、お互いに相手のことをなにも知らないことです。この落差は驚くほどです。
■パウロの場合
福音書の場合でさえもこうですから、パウロの場合はもっとひどいです。皆さんは、パウロ書簡の注釈で、癒しや悪霊追放の解釈を読んだことがありますか? おそらくないでしょう。異言や預言については、コリント書簡に出てきますから、これについてはいろいろ書かれています。けれども、ほとんどは、十字架と復活と罪の赦しについての神学的な細かな注解や教義的な解釈ばかりです。まるでパウロは、ファリサイ派の神学者のように、癒しや悪霊追放とは無関係な聖書学者かと思うほどです。ところが使徒言行録を読んでごらんなさい。彼は聖霊体験を受けています(9章17節)。魔術師と闘ってその目を見えなくする霊力を発揮しています(13章10節)。足の萎えた人を立たせています(14章10節)。幻を見ています(16章10節)。異言が降る按手の祈りをしています(19章6節)。癒しと悪霊追放をイエス様と同じように行なっています(19章12節)。死んだと思われる人を生き返らせています(20章10節)。嵐の船の中で預言しています(27章25節)。まむしに咬まれても害を受けません(28章5節)。ここには、いわゆる神学者パウロとは全く別の顔があります。イエス様でもパウロでも、神癒や悪霊追放と教えとが一体になっているのが分かります。十字架の罪の赦しと、癒しや悪霊追放は、パウロの聖霊体験の次元では同じひとつの出来事なのです。
■悪霊問題について
わたしがどうしてこのように悪霊問題にこだわるのかと言いますと、今日、この国で、聖霊派や福音主義の人たちから、日本文化悪霊論がさかんに唱えられているからです。今日ここに持参した本は、その中のほんの三冊だけです。中を見るとずいぶんひどいことが書いてあります。しかもこれを信じている日本人のクリスチャンが結構大勢います。日本人でもこうなら、アメリカ人ならなおさらでしょうね。日本を知らないアメリカ人は、こういう本を読むと、日本はまるでアフリカの呪いを信じる部族みたいな悪霊憑きの社会だと思います。ほんとにそう信じている人が、なんと日本人の中にもいるのです。
こういう本を読むと、仏教や神道は言うまでもなく、お雛さんや端午の節句や七夕も悪霊の祭りになります。扇子に描かれた舞妓さんまで神事に関係があるから悪霊的だと見なされます。だからこの人たちは、神社仏閣撲滅運動でも始めるのではないかと思うほどです。ところが、もう一方では、知識人のキリスト者の間では、西田哲学とキリスト教、禅とキリスト教との関連、法然や親鸞や道元とパウロやイエス様との比較対照などがいろいろ論じられているのです。プロテスタントからカトリックまで、幅広い人たちがこれに参加しています。ルツ教授も、聖書の世界は、イスラム教や仏教の世界を排除しないと言っていました。ところが、こういう人たちは霊的現象を信じない。癒しや悪霊追放には全く無知で、現在の日本で行なわれている悪霊文化論など、知らないか知っていても知らないふりをしているのか、とにかく無関係無関心です。この落差たるやものすごいです。
いったいこれはどういうわけでしょう。違った宗教での間のことなら分からないこともない。でもこれは、正真正銘の正統派のキリスト教の間のことなのです。欧米のようなキリスト教文化圏の人なら、悪霊文化論はよその国のことだと思うのも仕方ないかもしれません。でも、ここは日本です。しかも聖霊派も知的学問派も、どちらもこの国全体から見れば、ごく少数の日本人のキリスト者たちです。それなのにおたがい全く別の宗教みたいに、誰もなんにも言わない。これはものすごくおかしいと思いませんか。
■霊的現象とイエス様の教え
だからわたしは、聖霊体験とイエス様の教えとの結びつきを大事にするのです。ここのところが分からないと、今お話ししたような悪霊文化の問題も解決できないと思うからです。異なる宗教同士の対話だとか一致だとか、言うのは簡単ですが、キリスト者同士が理解し合えないのに、どうして仏教や神道と対話ができるのでしょうか? 改めて、今回のイエス様の癒しや悪霊追放とイエス様の教えとの結びつきが大事な問題となって浮かび上がってきます。
先にお話ししたように、マタイ福音書もルカ福音書も、今回のイエス様の伝道活動に続いて、山上の教えや平地の教えを語っています。だから、敵を愛すること、一里行かせようとする者とともに二里行ってやること、右の頬を打たれたら左の頬を向けること、迫害する者のために祈ること、上着を取られたら下着も与えること、ののしられたら喜び躍ること、このようなことをいくら語学的に文献学的に歴史的に解釈してもらっても、とても実行できるものではありません。こういうのを絵に描いた餅、「画餅」(がべい)と言うのです。いくらおいしそうでも食べられない。見れば見るほど逆にお腹がすいてきます。だから、もしもこれを本当に実行しようと思えば、「これは自分には絶対にできない」、こう思うところから始めなければなりません。だからこの教えは、自分では病気が治せないから、イエス様に癒していただく、あるいは、自分では悪霊の力に勝てないから、イエス様によって自分の内に働く悪霊を追い出していただく、これと全く同じレベルの話なのです。
人間が憎しみや妬みに勝つことなど、そんなに簡単にできることではありません。だからここで語られている教えを本当に実行できる人は、イエス様ただおひとりだと言われるのです。でも、イエス様は人間であって人間ではない。神ご自身の御霊が宿り働いておられるお方です。こういうお方にして初めて、このような教えが実行できるのです。イエス様がお伝えになった福音は、聖霊の働く神の御国の世界です。だからイエス様の御国は、この世の終わりに、終末になって初めて成就する、実現すると言われるのです。では「今のこの世」ではイエス様の教えは実現できないのか? 実現できないから罪を赦していただく。十字架の罪の赦しにすがって歩む。こういう生き方がキリスト者の有り様だと言う人もいます。でもそれならイエス様の教えは結局画餅です。世の終わりに実現するから、それまで額縁に入れて飾っておくだけです。
ところが、イエス様を信じると本当に病気が治る。悪霊が出ていく。異言や預言の霊的現象が起こる。こういういわゆる霊的な現象が、現在のこの世で起こる。こういうことが、ここで大事になってきます。もしもこういうことが本当に起こるのなら、イエス様の教えは画餅ではなくなる。今の世の中でも実行可能な現実の出来事になるからです。食べられないお餅ではなく、食べようと思えば食べることができるほんもののお餅になるのです。霊的現象を馬鹿にしたり、狂信扱いする学者先生たちは、ここのところが分かっていらっしゃらないのではないか。こう思うのです。
■イエス様とパウロ
では十字架の罪の赦しと霊的現象とは、どのように結び付くのでしょうか? 先ほどわたしは、パウロは単に十字架の罪の赦しだけを説いているのではないと指摘しました。パウロは確かに十字架の罪の赦しを説いています。ところがその彼が、同時に、病を癒し悪霊を追い出し、異言を語り預言を行なっている。これはいったいどういうわけでしょう? ここで初めて、イエス様の伝道とイエス様の教えとが、パウロの伝道とパウロの教えと同じレベルで見えてきます。もはや生きているのは「わたし」ではない。「わたし」にあってイエス・キリストが生きておられる。こうパウロが言う意味が見えてきます。パウロを理解するというのは、<こういう>パウロを理解することです。この共観福音書の講話は、もうあと一回で、前回やり残したイエス様のガリラヤ伝道とイエス様の教えとがつながりますが、こういうところからパウロを見ていきたいのです。
「人にはできないことも神にはできる」こうイエス様は言われました。これは山上の教えは人には実行できないけれども、神様は実行できる。こういう意味なのでしょうか? そうではありません。イエス様の教えを実行することは、「人間にはできない」。けれども、人間にはできないことでも、神様は「人間ができる」ようにすることが「できる」。こういう意味です。イエス様に従う人には、こういうことが実現する。成就する。こうイエス様は言われたのです。ではそれはどのようにして起こるのか? これがガラテヤ人への手紙の問題です。それ以上にローマ人への手紙の問題です。特にローマ人への手紙7章から8章にかけてパウロが語っている問題は、これです。
■創造者との出会い
ここからが難しくなります。どうぞ我慢して聴いてください。
(1)最初に分かってほしいこと、それはイエス様の教えをほんとうに実行できるのは、イエス様ただおひとりだということです。だから、その教えをわたしたちが自分でやろうとしても、絶対にできない。なぜそうなのかと言えば、わたしたちは今ここで、造り主である神の聖霊に出会っているからです。わたしを造り、あなたを造り、ここにおられる一人一人をそれぞれ固有の者としてお造りになったお方の聖霊です。イエス様を通して働く御霊は、創造者の御霊です。天地万物を創造された方の御霊です。わたしたちは造られた者、被造物です。だから、イエス様の御国とは、天地が新しく造られていく、その新しい世界のことです。聖書に今の「時代」とあるのは、新約聖書のギリシア語で、今の「アイオーン」と言います。この「アイオーン」には、時間だけでなく、空間も含まれます。今現在のわたしたちも、自然も、宇宙も、動いている。動きつつ過ぎ去っていく。そして物質界を構成している空間も時間も、新しい世界へ向かって動いている。この新しい世界が、イエス様のお伝えになった神の御国なのです。宇宙を創造された神は、この新しい世界、御国を創造し成就しようと、御子イエス様をわたしたちの居るこの「時代」にお遣わしになった。だから、今現在、父の神が御子イエス様のみ名によって遣わす創造の御霊が、この時代に、わたしたちの「からだ」に働きかけておられるのです。人が神を探すのではない。人が神を造るのではない。神が人を求めて、これを新しくしようと、この世にあって働きかけていてくださるのです。
こういう事態ですから、わたしたちが、自分の力でどうするこうするという問題ではありません。造られた被造物が、自分の力で世界を新たにする。自分を新たにする。そんなことできるわけありません。わたしが「絶対にできない」と言ったのは、この意味です。イエス様の教えは、新しい御国の法ですから、古い時代にいるわたしたちが、これを実行しようとしてもできるわけがないのです。先ずこのことが分かることです。でも分かって、ああ、それではもうだめだと、あきらめて離れ去ることではない。ルカ18章18節以下のあの金持ちの若者は、イエス様に出会って、せっかく永遠の命を求めながら、あきらめて悲しそうにイエス様から立ち去った。「人にはそれはできないが、神にはできる。神はなんでもできる」こうイエス様が言われたのはその時です。実は、絶対にできないと分かると、そこからほんとうの信仰が始まるのです。「できない」から「できる」へ転じる道が、そこから開けるのです。自分の力で癒されようとしてもダメだった。ダメだと分かって、イエス様、わたしにはできませんと祈ったら癒しが来た。いくらやっても自分の罪に勝てなかった。もうだめだと放り出した。自分を放り出した。でも自分をただ放り出したのではない。「神様の御前に」放り出した。イエス様に向かって放り出した。そうしたら、罪に勝つ力が不思議に与えられた。こういうわけです。傲慢な人はこれができない。偉そうにする人はこれが苦手です。知識や才能や財産に恵まれて富んだ人には、これが難しい。へりくだって謙遜になるまで、しばらくお預けです。自分の罪に勝つ道はこれしかないです。
(2)もうひとつ知っておきたいことがあります。それはイエス様の「教え」の意味です。「殺すなかれ」「あなたの隣人を愛せよ」「人を憎むな」、こういう教えは「すべし」「すべからず」の律法です。でも、イエス様の御霊の福音は教えや律法ではない。いくら律法を作っても、それで神の御国の新しい創造が始まるわけではない。かえって、人間を縛るだけです。悪くすると、人をして、自力で律法を行なおうと仕向けます。御霊の世界は、創造の世界です。創造は自由自在、とらわれない心、縛られない者のすることです。ではなぜイエス様は「教え」を与えたのか? それは、神様の御霊のお働きは、わたしたち人間には、「教え」あるいは「律法」としてしか理解できないからです。人間の言葉は「ロゴス」です。「理性」です。ですから人間の言葉で言い表わすと、どうしても「教え」になるのです。理性や知性は人間に具わる大切なものですが、理性や知性は、物事を「法則」あるいは「律法」としてしかとらえることができない。神様の御霊の働きは、不可思議で神秘です。だから人間の言葉では言い表わすことができない。言葉に絶した世界だからです。これを人間の理性や知性でとらえようとすれば、どうしても「法則」あるいは「律法」としてしか見えてこないのです。せいぜいキリストの命の「霊法」(ローマ8章2節)としてしか認識できないのです。ほんとうは「殺すなかれ」ではない。「殺さないようにしていただく」のです。人を愛するように「させていただく」、あるいは自然にそう「させられる」のです。だから福音は「伝道する」ものではない。伝道「させられる/させていただく」ものです。自分はとてもそんな柄(がら)ではないけれども、どういうわけだか、イエス様の話しをさせられている。不思議だと思います。
理性や知性ではこのことが分からない。人の理性では、法則や理論や律法や教義としてしか言い表わせないからです。ただし、イエス様の御霊に導かれると、知性の限界が見えてくる。単なる法則や律法ではないのだと分別できるようになります。これが御霊にある人の「英知」です(昨年の夏期集会では、これを「英知/霊知」と言いましたが、「霊知」はさらに高い霊的な意味を表わすので、この段階では「英知」とします)。御霊に導かれた人の理性や知性のことを「英知」と呼びたいと思います。
■聖霊と霊性
(3)次に知っておくべきなのは、神様からイエス様のみ名によって降る創造の御霊は、この世界に対して絶対無条件に働きかけてくださることです。わたしたちの精神と肉体の両方を含めて、絶対無条件に働きかけてくださる。わたしたちの弱さを支え、わたしたちの罪を赦し、その上、わたしたちの罪を取り除いてくださる。精神面だけでありませんよ。キリストの御霊は、その絶対性をもって、わたしたちの肉体が宿る「からだ」に働いてくださることです。だからこそ、肉体の病気の癒しが起こり、異言が出て、預言が語られるのです。自分ではどうにもならなかった罪に負けないのです。悪い霊が出ていくのです。世界を創造する神様の御霊の力は絶対的です。精神も肉体もそのままで、自分の善いも悪いもそのままで、御霊は絶対的に働いてくださる。永遠の命の聖霊が働いてくださる。永遠の命は肉体の命を同じなのか違うのか? 違うとも言えない。同じとも言えない。絶対の世界は、この世の相対の世界とは比較できないのです。同じだとか違うだとか、区別したり比較したりできないのです。同じと言えば同じ、違うと言えば違う。そうとした言いようがないのです。
わたしたちの知ることができるもので、もっとも絶対の世界に近いものと言えば、それは「光」でしょう。物理的に見て、光の性質は、最も絶対に近いと言われています。ところがこの光は、粒子なのか波長なのかがはっきりしません。粒子であって粒子でなく、波長であって波長でなく、その両方であって、両方であるとも言えない不思議な性質を持っています。
同じように、キリストの御霊の絶対性は、肉体も精神も、善いも悪いも、そういう相対の比較を超えています。キリストの御霊は、ただ絶対的に働いてくださる。わたしたちは、「からだごと」、ただこの御霊の霊風に吹かれるがまま、これにお委ねして、あるがまま、そのままで、聖霊の働きかけの「場」となるのです。交わりの場、コイノニアの御霊の場となるのです。このような「場」では、「わたし」はわたしであって、わたしでない。イエス様がわたしに居てくださる。こういう不思議な恵みの場です。人間の側から見ればこれは「霊性」の場となり、神様の側から見ればこれは「聖霊」の働く場です。わたしたちは、このような御霊の働きにただ波長を合わせるだけです。ある人はこれを絶対無の境地と言い、ある人はエクスタシーと言い、ある人は御霊に満たされると言い、ある人は霊知と言います。
だから、イエス様の教えを守ろうとするのではない。守ろうとする自分がいる限りは守れない。守る守らないの世界ではない。守ろうともせず、守るまいとも思わない。教えを守らなくてもいいのではない。守れなくてもいいのです。赦しとはそういうものでしょう。だから、それぞれにできる範囲でやってください。御霊によって与えられる霊性は、自由で創造的ですから、英知を働かせてやってください。こういう生き方を悟るのを「霊知」と言います。主様の御霊が働く時に自然とそこに現じて来る世界、ただそれだけの世界です。肉もある、罪もある。でも聖霊の働く場であるこの霊性において、そのような罪も溶かされて、除かれ、消滅していきます。ローマ8章のパウロの世界です。イエス様の教えは律法ではない。イエス様の御霊に導かれているうちに、「自然妙法」(じねんみょうほう)、自然とその世界が見えてきます。人それぞれに御霊の導きが与えられます。そうしたらだんだんほんとうのことが分かってきます。「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われたイエス様の世界が分かってきます。言葉では言い表わせなくても、からだで分かるのです。癒しも異言も預言も、こういうところから湧いてきます。イエス様の教えもこういうところから自然と生まれてきます。