149章 ファリサイ派の「正しさ」
         ルカ16章14〜15節
            【聖句】
■ルカ16章
14金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。
15そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」
               【注釈】
               【講話】
■山高きがゆえに
「山高きが故に尊(たっと)からず」という言葉を聞いたことがあります。例えば万里の長城やエジプトの大ピラミットのように「大きい」ものは、それだけで「尊い」とは言えません。なぜなら、これらの大事業は、強大な権力によって多くの民が労働させられ、おびただしい数の人たちの命を犠牲にして初めてできあがったものだからです。「一将功成りて万骨枯る」も同様に、一人の将軍の大手柄は、無数の兵士たちの死体の上に築かれていることを指します。このように歴史家や観光客の目には「偉大だ」「尊い」と見えるものも、実はその背後に恐ろしくて惨(むご)い人命の犠牲が隠されているのです。権力者や後世の人に「高く」見えるものは、それが成し遂げられた時の民の目からは、うらめしく映るのです。
 あるイスラム国を旅していた時、貧しい家々が連なる中に、ひときわ立派なモスクのミナレット(塔)がそびえているのが目に留まりました。それも一つだけでなく二つ、三つと立っていて、異様な風景だと感じたのを憶えています。宗教的な建物だから「尊い」のかもしれませんが、神様の目から見れば、モスクの塔も「高きが故に尊からず」ではないのかという疑問を抱きます。イスラム国に限らず、日本でも貧しい村落に不釣り合いな立派な寺院が建立されているのを目にすることがあります。ヨーロッパの大聖堂もその例外ではないでしょう。
 万里の長城もピラミットも、その「大事業」のお陰で、これに従事する人たちの生活が支えられたのだから、言わば為政者の大事業は、施しであり富を民へ還元する経済効果があるという見方もありますが、この論理で行けば、大企業、大銀行が栄えるのは、市民への富の還元になるのでしょう。まして大寺院、大聖堂ともなれば、後世に残る宗教的文化的な遺産として、人の目には「山高きがゆえに尊し」と映るのでしょう。
■神の忌み嫌うもの
 ところがイエス様は、「人目に高い者は神の目には低い」と言われるのです。この御言葉は、それが語られた具体的な状況がはっきりしませんから、いろいろな意味に解釈することができます。ただ言えることは、大事業、大功績、大伽藍、大聖堂は、いずれも後世にその名を残したいという人間の深い欲望から生まれた営みであり、しかも、ある特定の人物と関わることで、その人の名が後の世まで伝わることもその目的に含まれます。
 それのどこがいけないのか?と不審に思う方もいるでしょう。しかし、わたしはイエス様が言おうとされているのは、特定の人、特別な人物だけが崇められて、それらの事業の「ほんとうの担い手」である一人一人の名もない無数の人たちが、一人の人物の名声によってかき消されている<そのこと>にあると思うのです。
 それらの大事業は、後世にその名を残すために行なわれたもの、すなわち歴史の「時」の中で何時までも生き遺ることを窮極の目標にしています。これこそ、他の動物にはない人間だけに具わる特有の欲望であり願望です。だから、偉大な業績や偉大な建築を人々が賞賛するのは、人の世の常だと言えましょう。ところがイエス様は、そのような「人が賞賛する」ものを「神は厭(いと)わしく思う」とはっきり言われた。この御言葉の直前でイエス様は、「神と金に兼ね仕えることができない」(13節)と言われ、さらにその前で「小事を大事に」(10節)と言われています。「富」を尊しとしてその分け前に与り、この世の「小さな自分の命」を地上で名を遺そうとする人物のために使い尽くすことを自分の「使命」(文字通り「命を使う」)だと心得る人、そういう人になってはいけない。こう言われているのです。
 なぜでしょうか? それは、どんなに小さな存在の人でも、そこに神の命が宿る時に、その人は「永遠の命」を宿す「尊い人格」を具えた者へ変容するからです。2015年の現在、一億聡番号制度が法制化され、国民の一人一人が、その名前ではなく記号化された番号で扱われる時代が来ています。これが、安倍内閣では、一億層活性化政策とリンクしています。人が人格を失って番号にされ、「一億一心」にされて国家的な事業に組み込まれる。こういう政策が採られようとしています。科学技術と文明による「進歩」とか「発展」がもたらすものがこれです。イエス様のエクレシアでは、そうであってはいけない。一人一人が、かけがえのない永遠性を宿す「一匹の羊」なのです。神がイエス様をこの世の人たちへお遣わしになったのは、どんなに小さな一人一人でも、地上のどんな大事業、大建築にも優る「永遠性」を宿す生き方ができるようになるためです(ヨハネ3章16節)。人目に賞賛される事業であれば、それだけ、その事業の陰にいる一人一人の小さな存在が隠され見失われる。その結果、目に見える大事業よりもさらに長く遺る「神のみ前にある永遠の命」を生きる「人間の人格的可能性」が、一人一人から奪われていく、このことに警戒せよとイエス様は戒めておられるのです。「小事を大事にせよ」「金と神の両方を目指すな」「人が賞賛する大きな事業よりも、小さな自分の永遠を大切にせよ」。イエス様はこう言われているのです。「人目に高い者は神の目には低い」のです。
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