【注釈】
■ルカ16章14~15節
 今回の部分にもルカの編集が加わっていますが(特に14節の「聞いている」「居合わせる」などはルカ的な言い方)、内容は独自資料(L)からです。14~15節は、直前の16章13節と内容的に結びつき、その主題は19節以下の「金持ちとラザロ」へつながります。ところが15節と19節の間に挟まれた16~18節は、内容から見るとこの流れを断ち切るのです。おそらく独自資料(L)では、これらの諸項目が現行のルカ福音書の順番に置かれていたのでしょう〔マーシャル『ルカ福音書』624頁〕。
 14節で聞き手が弟子たちからファリサイ派に変わりますから、13節と14節の間に切れ目を置く見方もあります。しかし17章1節で再び弟子たちへ戻りますから、17章10節までは、聞き手は弟子たちで、ファリサイ派はその脇役です。だからルカ15~17章は終始二重の聞き手を想定して書かれています。ユダヤ人とユダヤ人キリスト教徒、異邦人と異邦人キリスト教徒、ルカ福音書はこれら多くの読者層に宛ててイエスの福音を証しし「弁明する」ために書かれているのです。こういうルカ福音書の語りの姿勢は、今回のイエスの言葉の解釈にも影響してきます。
[14]【ファリサイ派】「ファリサイ派<もまた>(聞いていた)」という異読があります。15章2節から見ると、16章1節以下で弟子たちに向けて語られたことの「一部始終」をファリサイ派も同時に聞いていたことになります。ファリサイ派はここで「金に執着する」と言われていますが、ファリサイ派の神学では、富それ自体は「悪」ではなく、律法を守ることで神の祝福が与えられ、それが豊かさを産み出すとされていました。だから、「神と金」は「両立できる」ものであり、決して「相容れない」ものではないと考えられたのです。彼らが13節のイエスの言葉を聞き終わった時に「嘲笑った」(原語は「自分の鼻を指で押し上げる行為のこと)のは、このためです。しかしイエスの言葉は、富が神からの祝福の結果なのか、逆に裁きの基なのかを問うのではなく、ファリサイ派の「上辺の敬虔」に潜む心底を見抜いた言葉であることが、次の15節で説明されます。なお、金銭に執着することをも含めて、14~15節はファリサイ派よりも、むしろイエスの時代のサドカイ派により適切だという見方もあります(「サドカイ」も15節の「正しくある」も語源的にはヘブライ語「ツァーダック/正しくある」と共通します)。しかしルカ福音書の今回のファリサイ派批判は、マタイ23章のファリサイ派批判に対応するとも考えられます(マタイ23章と並行するルカ20章45~47節は「律法学者」への批判に変えられています)。
【金に執着する】原語は「金銭への貪欲」を意味します。「貪欲/貪り」はモーセ十戒の最後を締めくくる大罪で、旧約と新約を通じて人間の罪性を代表する悪徳として偶像礼拝につながる罪です(ルカ12章15節/コロサイ3章5節/第一テモテ6章10節)。しかも「金銭への貪欲」は、ファリサイ派特有の罪ではなく、ヘレニズム世界を含む人間全体に共通する悪徳として広く認められていました。このため、ヘレニズム世界では、「金銭への貪欲」は、敵対する相手を批判する時の常套手段になっていました。ファリサイ派もまたこの悪徳をサドカイ派に向けています〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)463頁〕。今回のルカ福音書のファリサイ派批判も、イエスに敵対した「ファリサイ派」を悪徳の見本としてパレスチナとヘレニズム世界に訴えるものでしょう。90年代のルカ福音書の頃には、ヘレニズムの読者には、イエスを批判した歴史的な実在のファリサイ派を指すよりも、「ファリサイ派」も「サドカイ派」と並んで典型化された「悪徳のタイプ」として象徴的な意味を帯びていたようです(ルカ18章9節以下で「ファリサイ派」はたとえ話として登場します)。
[15]【自分の正しさ】ここは単に金銭欲だけでなく、ファリサイ派の心底に潜む偽善を暴くもので、この批判はイエスにさかのぼるでしょう〔マーシャル『ルカ福音書』625頁〕。彼らの神学は富を神からの祝福として肯定するだけでなく、これを貧しい人たちに施す際にも「人の目に善く見せる」ことにこだわっていました(マタイ23章5~7節/ルカ20章46~47節)。その奥に潜むのは人間の「自己義認」の罪であり、これこそパウロがユダヤ人の律法主義者たちに向けた最大の「罪」です(ローマ10章2~3節)。ルカ福音書ではこの自己義認が「神への高ぶり」として批判されています(ルカ1章51~53節/18章9節)。
【忌み嫌われる】原語は厳しい言葉で、終末での神の裁きを思わせます。自己義認は、神を喜ばせるはずの祭儀をも神に嫌われる祭儀へ転じ(イザヤ書1章13節)、神による祝福の「富」もその所有者を断罪する結果へ変質させるものです。「災いだ、罪人どもは。お前たちの富は自分を義人に見せかける。しかし、心では自己を罪人として告発する」(『第一エノク書』96章4節)。
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