【注釈】(2)
[19]【ある金持ち】古いギリシア語のパピルス(95)には「名前はネウエース」とあります〔新約原典の欄外の注〕。エジプトのナイル川沿いのテーベから北部で話されていたコプト語の聖書には彼の名前が「ニネウェース」とありますから、この名前は、語源的に古代アッシリアの首都「ニネヴェ」と関係するのかもしれません。ギリシア語パピルスの「ネウエース」はここから出ているのでしょう。アフリカあるいはローマで書かれたキプリアヌスの名によるラテン語の偽書には「金持ちのフィナエウスが火で焼かれた」とあり(ギリシア名は「フィネアス」)、これが4世紀以後も伝承されました。「フィネアス」はおそらく「ラザロ」の語源となった「エルアザル」と共に「ピネハス」が聖書に出てくるからでしょう(民数記25章7節)〔新約原典テキスト批評165~66頁〕。さらにラテン語訳(ウルガタ)には "Homo quidam erat dives" とあります。この"dives" (裕福な)を人名だと誤解したために、英語の"Dives"(ダイヴス)という呼び名が出たと思われます〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1130頁〕。
【紫の衣と麻布】「紫」の語源は熱帯地方のアクキガイ(ホラガイの一種)のことで、これから採った染料の色から出た用語です。紫は古来王侯がまとう衣の色で、ローマの帝政時代には皇帝だけがまとう色でした〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)478頁〕。「柔らかい麻布」"fine linen" は、エジプトあるいはインドからもたらされたもので、紫の外衣の下にまとう上着に用いられ、色は白から赤茶色までありました。「紫の衣と麻布」は、パレスチナでは身分の高い裕福な人の服装を指します(箴言31章22節)。
【遊び暮らす】原語は「陽気」を意味しますが、12章19節の愚かな金持ちの言う「(食べたり飲んだりして)楽しむ」とあるのと同じ言葉ですから、ここでも、立派な衣を着て、贅沢な食べ物を楽しむことでしょう。なお「ぜいたくに」は聖書ではここだけで、人目に立つ「豪勢な暮らしぶり」のことです。
[20]~[21]【ラザロ】「ラザロ」のギリシア語名は「ラザロス」で、これはヘブライ名「エルアーザール」(神は助けた)から出ています(出エジプト記6章23節)。このヘブライ名は、1世紀前後のエルサレムのユダヤ人の納骨櫃(ひつ)から多数見つかっています〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1131頁〕。イエスのたとえ話で、個人の名前がでてくるのはここだけです。このため、無名の金持ちとは対照的に彼の名前が天の書に記されていたとする解釈やこの物語は実際の出来事だとする解釈(テルトゥリアヌス)もありました。また、今回の物語から類推して、ヨハネ11章のラザロの復活記事は、今回のラザロの記事から創出されたという説もありましたが、これらはどれも適切な解釈とは言えません〔プランマー『ルカ福音書』〕。
【門前に横たわる】「横たわる」の原語は「投げ出す」の受動態ですが、ここでは見棄てられた状態でそこに置かれていたことです。「門の前」とあるのは、幾つかの門の一つのことで、金持ちの邸宅の大きさを示唆します。なお「食卓から落ちる<パン屑>」という異読もありますが、これはマタイ15章27節からの挿入でしょう〔新約原典欄外〕。
【腫れ物】潰瘍の一種でしょうか。「腫れ物」はこの時代の医学用語で一般に用いられていました。
【腹を満たしたい】異読に「しかしだれも彼に与えてくれなかった」という付加がありますが(15章16節からか)、ここでは、金持ちをも含めてわずかの施しで命をつないでいたと思われます。それではとうてい「腹を満たす」(15章16節参照)ことなどできなかったのです。
【犬】「犬」はこの場合、ユダヤ人の嫌悪する動物ですから、そうでなくても辛い状態をなおいっそう惨めにするものだったでしょう。「傷をなめた/なめまわした」とあることから、彼はほとんど着る物さえ身にまとっていなかったことが分かります。ラザロの惨めな状態は、彼の苦しみと同時に、これを気にも留めずに贅沢に耽ける金持ちの恥知らずな傲慢をも映し出すものです。
[22]【天使たちによって】ここで二人の逆転が起こります(原文は"It happened that...")。貧者は死に、富者も死んだとあって、両者の逆転は地上の人間には全く分かりません。しかし、貧者は「天使たちに運ばれる」のに対して、富者はただ「埋葬された」とあるだけです。先に貧者が死んで、その「魂」が安らかに天使に伴われた(あるいは埋葬さないまま放置されていたので、彼の魂だけがそのまま天使に運ばれた)のに対して、富者は貧者への施しを十分与える機会を失ったまま裁かれるために死んだという解釈もあります〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1132頁〕。ただしここでは魂と身体の分離も富者への裁きも示唆されていません〔プランマー『ルカ福音書』393頁〕。「天使に伴われる」では、「義人は死後天使によって楽園へ運ばれる」というユダヤ教の伝承がタルグムにあります。これは2世紀後半の伝承ですから確かではありませんが〔ブラウン前掲書〕、これと関連するのかもしれません〔プランマー『ルカ福音書』393頁〕。
【アブラハムのすぐそば】原文は「アブラハムのふところに」〔岩波訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕です。これは先祖アブラハムと共に休らう/天の祝福に与ることを意味します(創世記15章15節/同47章30節参照/マタイ8章11節)。「ふところ」とは「アブラハムの子」とされてその霊性とひとつになることです(ヨハネ1章18節「父のふところにいます独り子の神」を参照/ヨハネ8章56節参照)。なお「ふところ」にはマタイ8章11節のように、アブラハムの側近くで天国での宴会にあずかることを指すという解釈もあります〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)1132頁〕〔新共同訳〕。
【葬られた】ここでは富者の葬儀が立派であったかどうかはいっさい触れられていません。ただ、二人が死んだこと、一方は「天使に伴われ」他方は土に埋葬されたとあるだけです。
[23]【陰府で】「陰府(よみ)」はヘブライ語「シェオール」の訳語です。ギリシア語では「ハデース」で、これはヘブライの「陰府」と区別するために通常「黄泉(よみ)」と訳されます。しかし七十人訳では「シェオール」の訳語としてギリシア語「ハデース」が用いられていますから、今回の箇所でも「陰府」と訳されています〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕。ヘブライの陰府は墓に入った者たちの住む「死者の住む暗い場所」ですが、神の裁きによって落とされる「地獄」(ゲヘナ)とは区別されます(ルカ12章5節と16章23節を比較)。
 「『第一エノク書』22章(前3世紀頃)には、エノクが天使ラファエルに導かれて「死者の山」を訪れる場面が出てきます。人類の死者全員がこの山に集められ、そこで死者たちは終末に行なわれる「大審判の日」まで留め置かれています。しかし死者たちは一様ではなく、その山には四つの区切りがあります。一つの区切りでは、一人の死者が大声で訴え(告発)を続けています。これはカインに殺された義人アベルの霊です。義人たちの霊は他の三つの区切りから区別されていて、そこには輝く水の泉があります(『第一エノク書』22章9節)。死んで埋葬された罪人にも区切りが三つ用意されていますが、それら三つの区切りの違いはよく分かりません。『第一エノク書』はアラム語で書かれたものがギリシア語に訳され、そこからエチオピア語に訳されて、現存する『第一エノク書』の全文はエチオピア語訳です(クムラン洞窟からヘブライ語とアラム語の断片が発見されていますが)〔Nickelsburg. 1 Enoch. 13. 〕。罪人の死者の霊は、地上で裁かれることがなかったために、この陰府で<大きな苦しみにもだえならが>大審判を待っています。大審判の後で呪われた者に降る永遠の刑罰と拷問が加えられるでしょう(同10節)。悪を行なった者たちの霊の中には、裁きの罰を受けることもなく、復活もなく、永遠に陰府に留め置かれる者もいます(同13節/詩編16篇10節と使徒言行録2章27~31節を参照)〔Nickelsburg. 1 Enoch. 42-43. 〕。
 『第一エノク書』が描くこの状景から見ると、今回の金持ちは、この陰府で苦しみもだえているのが分かります〔マーシャル『ルカ福音書』636頁〕〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)478頁〕。区切られてはいるものの、彼は「遠くにいる」ラザロの姿を自分の場所から見ることができたのです。なお「ラザロがアブラハムのふところで<憩っているのを>見た」という異読もあります。
[24]【父アブラハムよ】金持ちは自分が先祖「アブラハムの子」であることに救いの拠り所を見出そうとしています。しかしその願いは聞き届けられません(マタイ3章9節/ヨハネ8章37~39節参照)。
【ラザロをよこす】「大声で言った」は遠く離れているからです。生前金持ちはラザロを門前払いこそしなかったものの、「憐れむ」ことなくただ無視したのです。かつてはどんな贅沢も自分には贅沢だと思わなかった彼が、今は、どんなささいな好意でも有り難いのです〔プランマー『ルカ福音書』〕。彼が「ラザロ」を名指しするのは、ラザロに対する軽蔑ではなく、逆に自分を卑下しているのです。ラザロのいる所には「輝く水の泉」が湧いていたのでしょうか(23節注釈参照)〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)483頁〕。
【炎の中】「もだえ苦しむ」は黙示文学で地獄の苦しみを指しますから、ここで金持ちが言う「炎」もゲヘナ(地獄)での永遠の炎を予想させます(シラ書21章9節)。
[25]~[26]【良い物】「善い物」〔フランシスコ会訳聖書〕。原文の文意は「あなたは生前に自分自身を喜ばせる善い物を十分に受け取った」です。金持ちの方には「自分の善い物」とありラザロの方には、ただ「悪い物」とだけありますから、金持ちは善い物をすべて独り占めしていたのに対して、ラザロは「悪い物」を受ける運命にありながらそれを甘受していたのでしょう〔プランマー『ルカ福音書』〕。
【今ここで】時間と空間の両方がひとつになっています。なお「慰められる」「苦しめられる」と26節の「(大きな淵が)定められている」は動詞が受動態です。これらは神の御心から出た事を表わす「神的な受動」の用法でしょう〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)〕。
【そればかりか】原文は「だがそれがすべてではない」〔REB〕。「それに加えて」と読む異読もあります〔岩波訳〕。アブラハムは金持ちを「子よ」と呼んでいますから、先祖と子孫の関係を退けているのではなく、かつての金持ちの姿を彼に「想起させて」いるのです。ただし、願いが届かない理由は「それだけではない」のです。ちなみに、ギリシア神話の「黄泉」では「レーテー(忘却)の川」(三途の川)を渡ると人は生前のすべてを忘れると言われますが、黄泉にはまた別に「想起の川」もありますから、ギリシア神話にならうなら、ラザロは過去を忘れ、金持ちは過去を想い出すのでしょうか。
【慰められ】神の公正から出た「補償」の意味をも含みます〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)〕。
[27]~[28]物語は26節で終わることもできますから、27~28節は独自資料(L)の作者による付加でしょうか〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)484頁〕
【ラザロを遣わす】死者が地上へ戻ることについては注釈(1)の民話を参照。ここではラザロが「生き返る」ことを求めているようにも聞こえますが、真意は、夢かヴィジョンを通してラザロが兄弟たちに現われることだという見方があります〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)〕。ただし、30節から判断すると、金持ちは、ラザロが現実に地上へ生き返ることを指していることになります。イエス以前のパレスチナでの「復活」は、原則として、再び生前の状態によみがえることを意味しました。
【苦しい所】原語は「テスト/審査/罰/拷問を受ける場所」のこと。ここでは「拷問を受ける」ことです。"the place of torment"〔NRSV〕〔REB〕
 金持ちの言うことは、とりようによって、自分が存命中、神は自分に十分警告して<くれなかった>かのようにも聞こえます〔プランマー『ルカ福音書』〕。彼は、ファリサイ派のように、天からのしるしを兄弟たちに見せてほしいと言っているのでしょうか〔プランマー『ルカ福音書』〕。
【言い聞かせる】原語は「証言や証拠によって厳しく警告する」こと。
[29]~[30]【モーセと預言者】具体的には旧約聖書の「律法」と「預言書」のことですが、ここでは聖書全体を指すと見ていいでしょう(ルカ24章27節を参照)。
【死んだ者の中から】金持ちは、かつての自分と同じように、たとえ兄弟たちが、安息日ごとに会堂で「モーセと預言者」の言葉を聞いても、彼らはこれに耳を貸さないことを知っているのです。だから、ラザロが夢かヴィジョンか、何か超自然的な方法で彼らに顕現して忠告すれば〔マーシャル『ルカ福音書』〕、彼らとて「悔い改める」と訴えたのです。なお「(死者の中から)出ていく」を「よみがえる/復活する」と読む異読があります。続く31節に合わせたのでしょう
[31]29~31節はルカ福音書の作者による付加で、ここにはイエスの復活とそのメッセージがイスラエルの民に届かなかったことが反映していると言われています(使徒言行録13章26~30節)〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)485頁〕。
【生き返る】原語「アニステーミ」(起き上がる/復活する)に対して「エゲイロー」(起き上がる/目覚める/復活する)と読む異読があります。
【聞き入れる】「納得する/得心する」ことです。ここを「信じる」と読む異読があります〔新約原典注〕。
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