150章 金持ちとラザロ
            ルカ16章19〜31節
               【聖句】
■ルカ16章
19「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
23そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
24そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
26そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

                      【注釈】(1)
                      【注釈】(2) 
              
【講話】
■ラザロ物語の背景
 昔から、地上で善い思いをした者はあの世では苦しみに遭い、この世で辛い思いをさせられた者はあの世では楽にされると言い伝えられています。だから、今回のラザロの物語は、洋の東西を問わず、古今を問わず、どこの国、どの民族、どの宗教の間でも、これに類似の話があると思います。今回の物語も、起源はイエス様のたとえ話にさかのぼると思われますが、すでにその段階で、エジプトか、あるいはエジプトの民話の影響を受けたパレスチナの民話が、イエス様の話の背景になっていると言われています。それがヘレニズム世界全体に通用する内容であることも指摘されています。
 こう聞くと、人は地上で与えられなかったことをあの世で受けると信じることで、心に慰めを見出そうとするある種の妄想か作り話にすぎないと合理化して納得する向きもあろうかと思います。カール・マルクスは、そのヘーゲル哲学批判の中で「宗教はアヘンだ」と言いました。彼はまた「宗教は涙の谷」だと言ったと記憶していますが、これは詩編84篇7節からでしょうか。マルクスの真意はともかく、宗教とは要するに人の目を現実からそらすありもしない「地獄極楽」の話だということでしょう。
■苦難の民と進化
 しかし、ここで一つ留意してほしいことがあります。それは、およそ人類の進化あるいは進歩と言われる出来事は、この世で楽な想い、いい目を見た人たちからではなく、辛い思い、苦しい目に遭った人たちの間から生じたという事実です。現在の基本的人権の核心とも言える「個人の自由」という考え方一つとってみても、これが現在のように世界的に認められるまでには、「血の池」を通ってきたと言っても言いすぎではないでしょう。
 とは言え、わたしは、貧しい人たちの味方だと称するいわゆる「革命家」や社会運動などに必ずしも与(くみ)しません。こういう革命家や運動を否定するつもりはありませんが、こういう人たちは、得てして、ほんとうに辛く苦しい人たちの間からではなく、むしろそうでない人たちが、自己中心の正義感や自己顕示や体制の権力への憎悪から生じる場合がほとんどだからです。「愛国心は悪党の最後の隠れ蓑だ」と喝破したのは、確かイギリスの鋭い批評家サムエル・ジョンソンだったと思います。世界を脅かし、貧しい人たちを盾にして自己の憎悪と隠された権力欲を満たそうとするテロリストたちも同類です。
 そうではなく、貧しい人苦しむ人たちの、言葉にならない言葉を聴き取って、そこから人類の新しい夜明けをもたらしてきたのは、英雄気取り革命家たちではなく、真の意味で、「声なき声」に耳を傾け人類を導く神御自身なのです。"vox populi vox dei" (民の声は神の声)とは、涙の民の声なき声に耳を傾ける神がおられるという意味に理解すべきでしょう。神は、<このために>、悪人も善人も、権力者も善人気取りも、あらゆる人を利用するのです。人類に進化をもたらした民の「涙の谷」からの叫びは、<このような神>によって聞き届けられてきた。どんなもっともらしい社会理論や革命理論よりも、わたしはこの見方のほうがはるかに説得力があると思います。
■生命の危機と進化
 「人類の進化」などという大げさな言い方をしたのは、それなりのわけがあります。人類だけでなく、およそ地球上の生命の進化は、平安と安穏の内に過ごした種からではなく、地球の大変動を含む生命の絶対の危機に瀕した種から、驚くべき変容が生じたことを想い起こからです。卵生のネズミような小さな動物がどうして胎生に変容できたのか? 巨大な恐竜類の中から、どうして空を飛ぶ小さな鳥たちへ変貌する種族が生じたのか? 陸上や水辺で獲物を漁っていた大きな体の哺乳類が、どうして海中深くにもぐる鯨に変身できたのか? 数え上げれば切りがないほど、驚くべき変身、変容、変貌が、40億年近い地球の歴史の中で生起してきたのです。これらは、宇宙を創造し、この地球を動かし続けてきた創造主のお働きにほかならないと確信するのです。
 人類の先祖が二足歩行を始めたのは、そうしなければならないよんどころない理由があったからです。おそらく二足歩行は、安全な樹の上や森の中から、裸の無防備な状態で、地上の獰猛な獣たちにその身を曝す結果になったでしょう。寒さと危険と飢えの中から着る物と道具と火を作り出さなければならなかった厳しい現実がそこにはあったでしょう。
■人類の命の尊さ
 進歩あるいは進化と危機は常に裏表でした。今でもこの事情は変わりません。今笑う幸せな人たちではなく、今悲しむ不幸な人たちこそ、神に支えられて、真の慰めを見出す人たちなのです(ルカ6章20〜23節)。とりわけ大事なのは、人類は、こういう様々な危機の中から、苦しむ者悲しむ者を「思いやる心」、食べ物着物を「分かち合う」行為、苦しむ者を助けるためにその「命を献げる」人、こういう想い、こういう人、こういう尊い価値観を創り出してきたことです。アルバート・シュヴァイツァーは、今回のラザロの話から、アフリカの原住民を助ける仕事に身を投じたという話を聞いたことがあります。そうだとすれば、彼は、今回の物語を、単に個人のこととしてだけでなく、国や社会全体に置き換えて読んだことになります。贅沢に耽ける金持ちをヨーロッパの国々に、そのすぐ南には、飢えと病に苦しむラザロのようなアフリカの国々の人たちがいることを彼は悟ったのです。このような人類特有の価値観や行動は長い間の「涙の谷」を通って初めて実現したものです。これこそが、地球上に出現したいかなる生命よりもさらに尊い命、神と共に「いつまでもなくならない命」であること、このことをイエス様が啓示してくださったのです。
 今回のラザロの物語も、人類が到達した「この命」の大切なことをわたしたちに教えてくれます。わたしたちが現在イエス様の御名によって与えられている永遠の命への信仰、これは宇宙ができて145億年、地球ができて44億8000万年かかってできてきたものです。そう思うとおろそかにできません。ホモ・レリギオーサス(宗教する人)が到達した最も尊い価値観が、このような神による命への信仰に根ざすことを知ってほしいのです。イエス様が行なわれた数々の霊能の御業も、この価値観の尊さを人々に教えるためにほかなりません。霊能の業は、これに直接関わる人にとっても、霊能の出来事を見る人にとっても、一つの試金石です。今回の物語を含めて、聖書の御言葉に耳を傾けない人は、たとえしるしや不思議を見ても信じないでしょう。  
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