151章 ふつつかな僕
ルカ17章7〜10節
【聖句】
■ルカ17章
7「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
【講話】
■用いられること
この60年ほどか、わたしはイエス様を伝える集会を続けてきましたが、最近つくづく思わされるのは、今わたしが信じているイエス様、御復活の御霊のイエス・キリストを人に伝えることは、とうてい人間がやろうとしてできることではない、ということです。「幸いなるかな、失望しない者、その者は慰められる」これが牧師や伝道者に与えられる主様からの御言葉かどうか知りませんが、自分がやろう、自力で人に分からせよう。こう思いこう信じて、いくらやってもとうてい人にこのイエス様の御霊の福音を「分からせる」ことなどできない。長年の経験でわたしは、<このこと>を教えられた。「永遠の命」などというとほうもないことを、いったいどうやって人に分からせるのか?これはもう、地球の軌道や惑星の運行のように、人の手ではどうにもならない創造の神のお計らいから出た業だ。こんな実感を抱くのです。
それにもかかわらず、これもまた不思議なことに、祈りに導かれ、からし種ほどの信仰に導かれて、御言葉を語り伝え、御名による祈りによって、自分にも分からないところで、聞く人たちに神の御言葉が蒔かれて成長し、いつのまにか御霊にある御臨在が、聞く人たちに成就していることを知らされるのです。これはもう完全に神による創造の御業以外のなにものでもない。このことも実感するのです。「わたし(パウロ)は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(第一コリント3章5節)とあるとおりです。
■時を歩む
福音を語る業は、その時その場を主の導きに全託することにほかなりません。「主と共に歩む」とは、自分の時を主の御手にお委ねすることだから、そのような「時」は、もはや自分のものではなく、主がお働きになる「時」です。「時は神のもの」です。しかもこのような「時」は、集会やメッセージを語る時のことだけではない。「主と共に歩む時」は、一日二四時間を通じて失われてはならないことであり、真のクリスチャンの有り様は、このような「時を生きる」ことにほかなりません。従業員には勤務時間があり、家政婦にも自分の時間が認められています。しかし、イエス様の頃のパレスチナの奴隷には、主人に仕える仕事から自由になれる「時」は存在しませんでした。これこそ、今回のイエス様のたとえ話のポイントです。主と共に歩む者には、神の時から離れる「自分の時」はないのです。イエス様にあって、イエス様の恵みに活かされて、その時その場を主に委ねて歩むのです。これが空の鳥、野の花の有り様だとイエス様は教えておられます。
■人の使命
「時」は、その人の生きる中身です。人はそれぞれにその人なりの「時を生きる」からです。時を生きるのはあなたの「からだ」を通してです。あなたの思念やあなたの理念や、あなたの考えている「時」ではなく、あなたのからだがあるところ、そこがあなたの「今の時の場」です。だからパウロは、主にあなたの体を捧げるよう勧めるのです(ローマ6章13節/第一コリント6章13節)。人が己に死んで主と共に活かされる時、その歩みは主に用いられる時になります。我知らず人知れず、御復活のイエス様をその時時に生きるのです。そういう時の積み重なりこそ、その人が主に用いられた歩みの軌跡であり、その生涯が終わる時、その人の使命も終わるのです。彼は、我知らず人知れず、御復活のイエス様という「永遠の命」をその時時の歩みに宿して、生き続け、その人がいなくなっても、その歩みはなくなることがないのです。永遠の命を生きるとは、こういうことです。
■感謝する理由
ところが、今述べたことは理想の姿で、かく言うわたしをも含めて、現実の歩みはそれほどあまくはありません。時を活かさず時を殺し(英語の "kill time" は「暇つぶし」のこと)、一日の大半を「自分の時」ですごすこともあっていい。つい、こんな想いにかられてしまうのです。「小人閑居して不善をなす」と言うが、不善はなさなくても、善もしないで、一日を終えることがよくあるのです。
それでも朝夕の祈り、週ごとの祈り、集会での祈りを通じて、イエス様の御霊は、怠け者のわたしをなんとか叱咤激励(しったげきれい)して、今日まで導いてくださいました。「無価値な奴隷」の見本みたいな自分でも、ホームページを通じて、集会を通(とお)して、曲がりなりにも主様へのご奉仕を続けることができたのは、ひとえに主様の憐れみと忍耐のおかけです。「今あるはただ主の恵み」です。だから、主に用いられた人には、主に感謝こそすれ、感謝される理由はないのです。
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