【注釈】
■構成と資料
 先行する部分から判断すると、今回の話も「弟子たちに」(17章1節)さらには「使徒たちに」(同5節)に宛てられています。内容は、イエスの頃のパレスチナの「主人と奴隷」の例です。この農家の主(あるじ)は、畑と羊の群れと奴隷一人を所有しています。当時の主(あるじ)と奴隷の身分関係とこれに伴う奴隷の当然の義務は、近代の「主人と使用人」あるいは現代の「雇用者と従業員」の関係とは全く異なります。7~9節は奴隷よりも主人の視点から語られますが、10節になると視点が奴隷のほうに移ります。
 今回もルカ福音書だけの独自資料(L)からですが、これにルカ自身による編集が加えられています(7節の「直ちに」/8節の「その後で」/9節の「感謝を」/10節の「あなたがたに命じられたことすべて」)。ただし、編集はほんらいの内容を損なわない程度に限定されています〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)493頁〕。
 この話はほんらい9節の主人の問いかけで終わっていて、10節は後からの付加ではないかと言われています〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1145頁〕。だとすれば、10節はルカによるのか、それともルカ福音書以前のLの段階ですでに付加されていたのか、判別は難しいようです。Lの段階だとすれば、今回の話はほんらいの7~9節(第一段階)に、10節が加わり(第二段階)、これにルカによる編集が加えられた(第三段階)ことになりましょう〔フィッツマイヤ前掲書〕〔ボヴォン前掲書〕。
 ユダヤ教でも「あなたは律法において大きな業をなしたとしても、自分の功績だと言い張るな。あなたはそのために造られたのだから」〔フィッツマイヤ前掲書1147頁〕というラビの教えがありました。「それにもかかわらず」と言うべきか「それだからこそ」と言うべきか、今回の話もイエスにさかのぼると見なすことができます(「あなたたちのうちでだれが?」という問いかけの仕方に注意)〔マーシャル『ルカ福音書』646頁〕〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)494頁〕。元の話が9節の問いかけで終わっていたとすれば、このたとえ話は、聞く者それぞれに様々な解釈を生じさせたことでしょう。
 ほんらいこの話は、弟子/使徒たちではなく、自己義認を誇るイエスの頃のファリサイ派に向けられたものではなかったか(17章9節以下参照)? という見方もあります〔フィッツマイヤ前掲書1145頁〕。この点は確かでありませんが、後に10節が加えられることで、使徒たちの継承者を自認し誇る教会の指導者たちに宛てた戒めへと話の内容が重層化したと思われますから、ルカ福音書においても、「弟子たち/使徒たち」に宛てた話として採り入れられたのでしょう。
 なお、今回の「ふつつかな奴隷」は、ルカ12章35~40節の「主人自らが食卓で給仕してくれる模範的な僕」と対照的です。今回の奴隷の話を「無益で役立たずな」教会の指導者あるいキリスト者のことだと解釈するのは正しくないでしょう。また、神からの報酬を期待してはならないという戒めだと理解するのも適切とは言えません〔プランマー『ルカ福音書』402頁〕。模範的な僕と今回のふつつかな奴隷の話は、二枚組の屏風のように、どちらもそれぞれに、神に用いられる人間の評価の半面を映し出していると見るべきです。
■注釈
[7]~[8]【その僕】原語「ドゥーロス」を「僕/使用人」と訳すか「奴隷」と訳すかが問題です。パレスチナの奴隷はギリシア・ローマのそれとは扱いがやや異なっていたとは言え、外の仕事(耕作と牧畜)と家事(食事の準備など)の両方を当然の義務として負わされていました。ただしルカ福音書の読者には、パウロが言う「主の奴隷=僕」(ガラテヤ1章10節など)という意味も二次的に加わって受け取られたでしょう。同様に、「畑」(宣教の場)「羊を飼う」(牧会の奉仕)にも、あるいは「食べて飲む」(聖餐のパンとぶどう酒)にも、ルカ福音書の頃の教会の指導者たちの奉仕を思わせる二次的な意味を読み取る解釈があります〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)497頁〕。
【むしろ】8節は「むしろ~ではないだろうか?」という問いかけで始まります。7節冒頭の「あなたたちのうちでだれが?」という問いかけと共に、イエスに由来する言い方だと考えられます。
【夕食の用意】主人が食べるものを料理して作ること。
【腰に帶を】原文は「腰に帯を締めわたしに仕える/給仕する」で、この洗練された言い回しはルカによるものでしょう〔ボヴォン前掲書〕。「腰に帶をして仕える」は、二次的に、教会の指導者たちが信者に奉仕することを指します(ヨハネ13章5節/使徒言行録6章2節参照)(英語の "minister" の原義)。
[9]~[10]【命じられたこと】原意は「当然の義務/責任として割り当てられた仕事を実行する」ことで、主から命じられた通りに忠実に責務をはたすことです。
【感謝するだろうか】「まさか奴隷に向かって『有り難う』とは言うまい」。「感謝するだろうか?<わたしはそうは思わない>」を加えた異読があります。後の読者が欄外に書き込んだコメントが本文に入り込んだのでしょう〔新約原典テキスト批評166頁〕。
【取るに足りない】原語は「無価値な/無用な/役立たずの」で、新約聖書では、今回以外にマタイ25章30節にでてくるだけです。「無価値な奴隷」は、ヘレニズム世界でよく用いられる言い方だったのでしょうか。しかしこの意味では、今回の奴隷に対していささか自己卑下がすぎるように思われます。この奴隷は畑仕事も牧畜も行なっているからです。続く「自分に命じられたこと」以下は、主(あるじ)がその人たちに与えた果たすべき使命をすべて成し終えた後で奴隷/僕が言うのですから、ここでは「ふつつかな/ゆきとどかない」という謙虚な気持ちを表わすのでしょう〔マーシャル前掲書648頁〕。
 ルカ福音書はここで「神が人間に相応の協力と参加を強く要請している/必要としている」〔ボヴォン前掲書497頁〕ことを言おうとしているという解釈もありますが、逆に、この話は「神は人間の側からの業を何一つ必要としない」ことを言おうとしているとも受け取ることもできます。また、今回のたとえ話を直前のからし種のたとえと結びつけ、弟子たちの「信仰を増してください」という願いに対して、「信仰の行為とは人間の側の価値とか資格とか能力によるものでなく、信じる行為をするかしないかにかかっている」のだから、神の業は、人間に何の理解も根拠も能力もなしになされることである。だから、「わたしたちには何の価値もない」のだという解釈もあります〔市川喜一『ルカ福音書講解』(Ⅱ)天旅出版社(2011年)316~17頁〕。これに対して、からし種のたとえは、使徒たちが持っている小さな信仰を肯定し、その信仰の可能性を十分に活かすことこそ、不可能をも実現する彼らの神の力に触れる道だと勧めているという解釈もあります。この解釈だと、今回のたとえ話は、ほんらい奴隷には、自分の時間などと言うものは存在せず、したがって、「これで奉仕が完了した」などと誇ってはならないことを使徒(と教会の指導者たち)に教えていることになります〔クラドック『ルカ福音書』現代聖書注解331~32頁)〕。
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