152章 10人の皮膚病患者
ルカ17章11〜19節
【聖句】
■ルカ17章
11イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
12ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
13声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
14イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
15その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
16そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
18この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
19それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
                       【注釈】 
【講話】
■癒やしと救い
 今回の物語では、身体への癒やしと魂の救いを区別して、外側が癒やされた9名と内側まで救われた1名が対照されるという伝統的な解釈があります〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)507頁〕。現在でもこういう解釈の伝統が生きていて、身体的な癒やしは、霊的な救いに到達しなければ意味を持たないと見られがちです。しかし、四福音書ともに、イエス様による病気癒やしは、すでにそこに霊的な救いが含まれていて、「癒やされる」ことと「救われる」ことが一つにされています(ルカ8章48節)。イエス様の御言葉にも人の身体と霊性(魂)を区別する言い方がありますが(ルカ12章4〜5節)、この区別を今回の癒やしに持ち込むのはいささか筋違いでしょう。
 問題は、身体的な癒やしか霊的な救いか?ではなく、そもそも癒やされ救われた<その後で>、その人がどのように振る舞うのか?これが問われているのです。人は驚くべき霊的な体験を与えられながら、いともあっさりとその恵みを忘れたり、ふとした折にその恵みを離れてしまう。こういうことよくあるからです。パウロもせっかくイエス様の十字架の贖いとそこから降る聖霊の豊かな恵みに与りながら、これを離れて、神の恵みを自分たちの行なう宗教的な諸行にすり替えてしまう信者たちを嘆いています。人もうらやむガラテヤ人が、悪魔に妬まれて、「御霊に騙(だま)されたという想いに誑(たぶら)かされた」のです(ガラテヤ3章1節)。 楽園で「あなたは神に騙されている」と蛇に「騙された」エヴァのように。
 今回の物語はこのあたりの消息をみごとにとらえています。9名は、なぜイエス様のもとへ戻らなかったのでしょうか? わたしが思うに、彼らは、神様に癒やされて「儲けた」とは思ったけれども「有り難い」とは思わなかったのです。戻ったサマリア人以外の全員がユダヤ人かどうかは分かりませんが、おそらく彼らは、先祖伝来の神様信仰に慣れ親しんで、癒やされてもさほど驚かなかった?! 不思議な神様のお働きを体験しても、先祖のお陰、自分たちの宗教のお陰だとは感じても、それゆえ逆に「治って当然」だと勘違いしたのではないでしょうか? 憐れみを受ける者は多いが、これに応えて感謝を献げる者は少ないようです。
 ところが、ユダヤ人の預言者の霊能のおこぼれに与ろうと必死だったサマリア人は、自分にも神様の恵みが起こったことに驚いて、感激のあまり引き返して、イエス様の足下にひれ伏したのです。よほど嬉しかったのでしょう。<自分には>起こりえないことが、起こった。彼には癒やしが、それほど「有り」「難い」ことだったのでしょう。しかしこのサマリア人も、自分に与えられている霊性が天地を造られた神からの「永遠の命」だとは思わなかったでしょう。まして、その永遠の命が、恩知らずの他の9名の癒やされた患者の先祖(イスラエルの民)の涙と血のお陰だとは、去った者も来た者も想像しなかったでしょう。神様の恵みがどんなに有り難いものか、「このこと」が分かるか分からないかで、その人の信仰の霊的成長が決まる。こうわたしは思っています。 
■憐れみと信仰
 救われた人は神を知る人です。神を知る人は、自分の体の心臓が片時も動きを止めない、この不思議にも有り難いという思いを抱くのです。イエス様の十字架の贖いと赦しの驚くべき恵みに触れて、ほんらいなら受けられないはずの恵みに自分が与らせていただいたというこの不思議な恩恵は、パウロをして狂気とも思えるほど、イエス・キリストの御霊の恵みを人々に伝えさせました。
 宗教改革者ルターは、今回の箇所を引いて「行ないではなくただ信仰のみが」救いをもたらすと説いています〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)507頁〕。いかにもルターらしい解釈ですが、ルカ福音書の今回の物語の結びの御言葉「<あなたの>信仰があなたを救った」は、どうもこれとは逆のことを言っているように思います。彼らがイエス様に「憐れんでください」と懇願したのは確かです。だから彼らは自分から何にもしなかった。ただイエス様に言われるままに、黙ってイエス様の御言葉に従っただけです。すると不思議な出来事が自分の身に起こった。何一つ行なわなかった自分にすべてが起こったのです。神様のお働きがどんなに不思議ですばらしいかをこのサマリア人は初めて知った。憐れみを受けた彼が、イエス様の足下にひれ伏して、イエス様に自分を全託したのはこのためです。
 すると「立ち上がりなさい」とイエス様のお声が聞こえた。彼は、今までの自分とは異なる自分がいること気づいた。そこから彼の行動が始まるのです。人はイエス様の御言葉に従う時に、イエス様のみ声を聞くようになります。ルカ福音書が語るイエス様は、復活して今も生きて働いてくださる御霊のイエス様です。言われるまま、導かれるまま、与えられるままに行なうのは、徹頭徹尾受動態です。ところがその受動態が、「あなたの信仰」だと言われるのです。しかも「立ち上がって」歩み始めるその行動が、「あなたの」行為になるのです。受動から能動へ。イエス様の御霊に「導かれて行なう」という、この不思議な「受動的能動」こそ今回の癒やしの出来事の結果です。
■ルカの描き方
 ところで今回の物語は、「イエス様がエルサレムへ旅する途中の出来事」として語り始められています。こういう書き出しは、すでに2度でてきて、今回で3度目ですが、そのどれもが、サマリア人あるいはユダヤ人以外の異邦人に関わる出来事としてでてきます。これは偶然ではなく、ルカは、イエス様のエルサレムへの旅を意図的にユダヤ人から異邦人への福音の転移の旅程として描いている。一般には、このように解釈されています。ルカ福音書は、ルカによるこのような意図に従って書かれているから、そこには多分に作者ルカの神学的な編集あるいは創出があるという見方が強いようです。
 こういう見方は、「間違い」ではないまでも、ルカ福音書とその作者ルカの真意とは「違う」ようにわたしには思われます。その理由は、今回の場合もそうですが、今回の物語が伝える出来事は、作者ルカの創出ではありません。そうではなく、ルカの手もとに伝えられていた「ルカの独自資料L」と呼ばれる文書がすでに存在していたからです。残念ながら、この独自資料については、よく分からないことが多いようです。イエス様の出来事は十字架の出来事を紀元30年とすれば、以後15年間ほど、文書の形ではなくほとんどが口頭で伝えられた「口伝伝承」に基づいています。今回の物語も、ほんらい口伝伝承ですが、これに「サマリア人」を加えて、ユダヤ人から異邦人への移行を示唆する物語として記したのは、この資料Lの 作者/編集者だったと考えられます。
 そうだとすれば、ユダヤ人から異邦人への福音の移行は、ルカの意図と言うよりも、このL編集者の意図によるものです。言うまでもなく、ルカもまた、この編集者の意図を受け継いでいます。大事なのは、ルカが意図した編集ではなく、ルカは、伝えられた資料に「きわめて忠実」であるという<このこと>です。これはルカのイエス様語録の用い方を見ればいっそうよく分かります。マタイはイエス様語録を彼なりにかなり思い切って編集したり、自分の神学的な意図に従って配置転換しています。ところが、ルカ福音書の作者は、ほとんどの場合、伝えられているイエス様語録の出来事の配置をそのまま踏襲しているのです。ルカ福音書は、「作者ルカの神学的な意図に従って書かれている」という見方は、うっかりするととんでもない誤解を生じます。なぜなら、ルカ福音書は、特に誕生物語などでは、イスラエルの旧約聖書の伝統を最もよく保存しているからです。「ユダヤ人から異邦人への福音の移行」だけでは説明の付かないルカ福音書のこの特徴は、ルカが、与えられた資料に忠実であったことで、十分説明がつきます。
■ルカ福音書の歴史観
 ルカは、彼以前のイエス様語録やルカ独自の資料編集者たちに忠実です。このことは、それら先達の歴史観をルカも忠実に受け継いでいることを意味します。では、その歴史観とはどのようなものでしょうか?
 資料Lの編集者は、その時期を特定することができませんが、文書化されていたのですから早くても50年以降でしょう。パウロの晩年から60年代のユダヤ戦争の頃から、ユダヤ民族主義の台頭によって、イエス様の福音への反感が強まり、このため福音の主流は、ユダヤ人キリスト教徒から異邦人キリスト教徒へ変わり始めます。この潮目にいたのが資料Lの編集者ではないかと思われます。彼は福音の歴史を自分の現在の視点から、過去へさかのぼって観ることで、その流れの意義を洞察したのです。言い換えると、彼は、現代のわたしたちがするように、<過去から現在へ>向かう因果関係(原因と結果)として歴史を解釈するのではなく、<現在到達した結果から過去にさかのぼって>歴史を観ているのです。神の導きによって現在到達している、<この視点>から、改めて過去を解釈し直すこと、これが資料Lの編集者の歴史解釈の視点であり、ルカ福音書の作者ルカもまた、この史観を受け継いでいます。実は、これこそ、旧約聖書の歴史家の史観にほかなりません。だから、ルカも、彼が忠実に従っているイエス様語録や資料Lの編集者も、旧約聖書の歴史観を受け継ぐことで、福音書を著わしたと考えることができます。
 現在が神の導きの結果だとすれば、そのような結果をもたらした「過去」は、常に新たに解釈し直されなければなりません。だから、「過去」は現在の到達点からの視野によって、常にその景色(意義)を変えるのです。言い換えると、過去の出来事は、現在において初めて、その本当の意義を悟ることができる。これが神の導きを信じる歴史観です。
 このことは、過去の出来事が、その時のその時点では、その出来事の本当の意義が、まだ十分に顕われずに隠されていることを意味します。時代が経ち、歴史が続く過程で、それらの出来事のほんとうの意義が、だんだんと明らかにされていくからです。こういう場合に、現在から観る過去の出来事を現在の「予型」(タイプ)であると言います。そして、現在は、過去のその予型が、神の導きによって成就した結果ですから、過去の「予型」の「対型」(アンティタイプ)と言い、このような「タイプ」と「アンティタイプ」の関係を「タイポロジー」と言います。このような歴史観はタイポロジー的な歴史観と呼ばれています。
 ルカ福音書は、このタイポロジー的な歴史観で一貫しています。作者ルカは、この視点に立って、与えられた資料に忠実であり、常に自分に与えられた視点から、神の出来事を観て描いています。だから、ルカ福音書の作者が、ルカ福音書に続いて使徒言行録を著わすのは自然な流れだと言えます。ルカ福音書の時代には、70年のエルサレムの滅亡と第1次ユダヤ戦争が終わり、イエス様の福音が、エルサレムからヘレニズム世界へ、ユダヤ人からそれ以外のヘレニズムの人たちへ移行していました。今回のルカ福音書の記事も、このようなルカの視点から編集され書かれています。
 だからわたしは、ルカ個人が特に反ユダヤ的であったとも、親ヘレニズム的であったとも思いません。よく言われるように、ルカは福音を「ヘレニズム化した」とも考えません。ルカの目には、逆に福音こそが、ヘレニズム世界をヘブライ化する歴史の流れを創り出す力だと映っていたとさえ思えるからです。
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