153章 ノアの日のように
ルカ17章20〜37節/マルコ13章15〜16節/同21節/
マタイ24章17〜18節/23節/27節/37〜41節
 
               【聖句】
■イエス様語録(Q17:20〜35/Q17:37)
20「神の国はいつ来るのか?」と尋ねられると、イエスは彼らに答えて言われた。「神の国は、目撃できる形では来ない。
21『見よ、ここに』(とも言えない)。見よ、神の国はあなたたちの内/間にある。
23もし(彼らが)あなたたちに『(彼は)荒れ野にいる』と言っても、出ていくな。『屋内にいる』(と言っても)後を追うな。
24稲妻が東から西へひらめき渡るちょうどそのように、人の子は彼の日に(来るだろう)。
37死体のある所には、禿鷹が集まる。
26ちょうどノアの日の出来事の通りに人の子の日にもそのようであろう。
27ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めっとたり嫁いだりしていた。すると、洪水が来てすべてをさらって行った。
30人の子が顕現する日も、そのようであろう。
34-35わたしはあなたがたに言う。畑に二人(の男)がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人(の女)が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」
   〔ヘルメネイアQ494〜523頁〕
■ルカ17章
20ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。
21『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
22それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。
23『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。
24稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。
25しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。
26ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。
27ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。
28ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、
29ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。
30人の子が現れる日にも、同じことが起こる。
31その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。
32ロトの妻のことを思い出しなさい。
33自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。
34言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。
35二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」
37そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」
■マルコ13章
15屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。
16畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
21そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。」
■マタイ24章
17屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。
18畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
 
23そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。
 
27稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。
 
37人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めっとたり嫁いだりしていた。
39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」
                【注釈】
                【講話】
■二つの解釈
 今回の「神の国はあなたがたの<中に>ある」というイエス様の御言葉は、古来ふたとおりに解釈されてきました。一つは、アウグスティヌスの師であったミラノの司教アンブロシウス(4世紀)によるもので、彼は「中に」を「あなたがた一人一人の<内に>」と解釈しました。この解釈は、イエス様の伝える御国の御臨在が、信仰者個人の内面に宿ることを意味しますから、聖霊のお働きが「自分自身」を通して顕れることを教え、キリスト教徒に個人的な自覚を促し、信者一人一人の倫理的な生活を高め、その霊性を成長させる力となりました。こういう聖霊の「個人的な」お働きは、現在でも立派に通用する大事な解釈です。
 これに対して、アレクサンドリアの主教であったキュリロス(4世紀後半〜5世紀前半)は、「あなたがたの<間に>存在する御国」として理解しました〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)525〜26頁〕。この人はネストリウス派を異端として厳しく排除した人です。彼の解釈は、個人よりもエクレシア全体がキリストの「からだ」であり、信者一人一人は、言わばエクレシアにおける<御霊の交わり>にあるという自覚を促すものです。言わば個人を離れて外界全体に御国が働きが存在すると解釈したのです。
 とりわけ、今回のイエス様の御言葉は、ユダヤ人ファリサイ派からの質問が発端となったイエス様の答えですから、現にイエス様を通して神の国が「彼らユダヤ人の間にも」働いているとも言えます。だから、たとえイエス様を信じないユダヤ人たちの間でも、神の御霊が現に存在しておられる。ただし、彼らは「このことに」気づいていないだけだという解釈を生じることになります。実はこの解釈も、御霊のお働きの大事な面を表わすものです。特に現代では、「信仰」を一人一人の信者の主観が産み出す「思いこみ」にすぎないと見て、聖霊のお働きを人間の「空想」か、せいぜい「想像」から出たものだと見る人が多いからです。キュリロスの解釈は、このような人間の主観的な想像とイエス様の御霊の御臨在をはっきり区別するものです。御霊は一人一人の思いこみを離れて、客観的な確かさをもって現実に働いておられる。このことを明確に証しするからです。
過去・現在・未来のイエス様
 今回の御言葉全体は、イエス様が在世中にお語りになった御国の現臨に始まります。実在するイエス様という一人のお方が人々の間に現に居られて、このお方を通じて神の御霊が働き、このお方を通じて御国がすでに<あなたたちのところへ来ている>、こうイエス様は言われたのです。悪霊の追放も、病気の癒しも「このこと」を証しするものですから、これらの霊能現象に目を奪われて、イエス様を通じて働かれている御霊のお働きの源泉である「歴史に実在したイエス様の霊性」それ自体に目を留め、これに躓かず、ここからあなたがたの信仰を出発させなさい。そうすれば、あなたたち一人一人が、自分の内にも、そして自分を超えた人と人との交わりの中にも、御霊が働いておられることを実感し体験する。そうなれば、「わたしはキリストだ」とか「キリストがどこそこにいつ来る」などというデマや宣伝に振り回されることがなくなる。こう今回の御言葉は教えています。
 イエス様の御言葉は、イエス様御復活以後のエクレシアへ受け継がれて、ユダヤ戦争当時に飛び交ったメシア来臨だとか、世界の終末などと言う流言に惑わされないようにエクレシアを導きました。イエス様の来臨から、イエス様が十字架と御復活を経て人の子として再臨されるまでの間のこの歴史の中をわたしたちエクレシアは歩み続けています。御国はイエス様を通じて<すでに>来ています。その御国は、イエス様の霊性から発した御霊を通じて、<今もなお>わたしたちの内に、わたしたちを超えて、働いておられます。わたしたちも、そのイエス様の御霊の働きに与りながら、人類を導いておられる神の御子イエス様の御霊が、その創造のお働きを止めることをせず、現生人類が<終末を迎える>まで、父と御子と御霊の三位一体の御臨在は働き続けるでしょう。かつて居られ、現在も居られ、やがて来たるべきイエス様です。わたしたち一人一人のうちに働き、わたしたちエクレシア全体に働き、エクレシアの外の宇宙に働く神の御子イエス・キリストです。「永遠に変わることのないイエス・キリスト」です(ヘブライ13章8節)。
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