154章 やもめと裁判官
ルカ18章1〜8節
【聖句】
 
■ルカ18章
1イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
2「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
3ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
4裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
5しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
6それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
7まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
8言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
                                     【注釈】
 
【講話】
■伝統的な解釈から
 今回のやもめと不正な裁判官のたとえをめぐる伝統的な解釈で、特にわたしの目に留まったのは、「大アルベルトゥス」(Albertus Magnus )(1200年頃〜80年)と呼ばれているドミニコ会の司教の解釈です。この人はトマス・アクィナスの弟子で、啓示と人間の理性の領域を区別しながらも、同時に神秘主義を深く知っていた人です。彼は、「祈り」を「敬虔に満たされ神へ向かう人間の霊性」と定義しました〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)538頁〕。教会での礼典的な祈祷や特定の時だけの祈祷行為ではなく、彼は、神を目指す人間の普段の霊的な有り様として「祈り」をとらえたのです。こういう「祈り」の理解は、今回の「たゆまぬ忍耐強い祈り」を理解する上でとても重要です。
 また「やもめ」の比喩では、ドイツの経験主義神学に基づく聖書解釈を確立したベンゲル(Johann Albrecht Bengel)(1687年〜1752年)の解釈があります。彼は、その『新約聖書注解』(Gnomen)のルカ18章の「やもめ」の項で「人々の中で傷つきやすく保護され難い者。この世では教会はそういう姿である」と注釈しています。「やもめ」とは、単にキリスト者一人一人のこととだけでなく、イエスを信じる「誠実な共同体」を表わし、とりわけ「世間的に孤立し、無力で見棄てられた状態にある」〔ボヴォン前掲書538〜39頁〕人たちなのです。
 今回のたとえはルカ11章の「真夜中に訪れた旅人」とその友人のたとえとも共通します。夜中に一人で旅を続け、飢えと疲れで倒れそうな人が、訪れた先の友人に思いがけなく助けられる話、あるいは権力者や金持ちに虐(しいた)げられた無力で弱いやもめに「突然に」助けが与えられるたとえ、これが両方に共通しています。
■祈りの力の源
 それにしても、上に述べたような祈りの力は、いったいどこから来るのでしょうか?大アルベルトゥスの言うように、祈りは「人間の霊性」に根ざすものでしょうが、人間の霊性は、それだけで必ずしも人を祈りに導くとは限りません。お気づきかと思いますが、今回のたとえには、「不正な裁判官」が、こともあろうに「神」にたとえられるという謎が潜んでいます。このたとえの背後に、「あからさまには語られない疑いの心」を読み取ることもできましょう。「人の子」の来臨が遅れるという終末遅延への懐疑だけでなく、わたしたち人間は、時として、長すぎる神の沈黙にいらだち、疑いの心を抑えることができなくなるのです。
 それにもかかわらず、途絶えがちな祈り心が、ともかくも持続するのはなぜなのか? この不思議に対する答えはただ一つ、「神がこれを支えていてくださる」ことに尽きると思います。忍耐強いのは人間の霊性のほうではない。その人間の霊性をどこまでもどこまでも支え続ける力がどこからか働いてくださる。この「忍耐強さ」こそ、人に働きかけて、どこまでも諦めさせない神の御霊のお働きだと思い至るのです。これこそ、イエス様がこのたとええを語られたほんらいの意味です。神は正しい裁きを求め続けて、これを成就実現するまでは決してあきらめない。イエス様の御霊は「このこと」をわたしたちに証しし続けておられるのです。
 今回のたとえは「終末に初めて成就される正当な裁き」という黙示的な色合いを帯びていますが、実は、その「正当な裁きの成就」は、最後の審判が降る終末までただ待ち続けるだけでなく、神は、わたしたちの祈りに応えて、その時時に、正当な裁きを成就してくださることを知っておく必要があります。なぜなら、新約聖書の終末は「すでに来ている/始まっている」からです。わたしたちの祈りが思いがけず聞き届けられるというまさにこの事こそ、終末が必ず訪れるこの上ない「しるし」なのです。
 このような事態を自然科学的な視野へ移し変えて見るなら、地球上の生命は、6億年前に多細胞が誕生して以来、ほとんど全滅に近い大絶滅の危機を少なくとも5回経験してきました。それらをかろうじて乗り越えて生存を続け、約20万年前に進化によって到達した現生人類のわたしたち、ホモ・サピエンスも、氷河期の絶滅をかろうじて生き延びた結果です。「生命進化」のこの長い長い歴史を回顧すると、大アルベルトゥスの言うように、人間に具わる「祈り」は、生命が生存し続けるために不可欠な霊性であり、そのような霊性は、天地創造の神御自身の働きかけによるほかないと知るのです。
■「やっと」と「もう」 
 アフリカからアメリカ大陸へ黒人が奴隷として連行され、ほぼ同時にカリブ海諸島で原住民の奴隷化が始まったのは、16世紀初頭のことです。コロンブスがアメリカ大陸を「発見」してから、1501年〜14年にかけて、カリブ諸島の原住民が激減しています〔ガブリエル・アンチオーブ/石塚道子訳『ニグロ、ダンス、抵抗』28頁〕。この頃から聞くもおぞましい奴隷船の歴史が始まり、奴隷制度が廃止されたのはヨーロッパでは19世紀初頭のことであり、アメリカでは、南北戦争終結の時にリンカーンによって奴隷解放宣言が出されました(1863年)。
 ただし、「宣言」が出たからと言って、黒人への虐待がなくなったわけではありません。20世紀後半、ケネディからレーガンまでの歴代の大統領に仕えたホワイト・ハウスの黒人の執事の伝記映画を見たことがあります。彼は南部の農場で白人の主人の息子に母を奪われ殺されるというおぞましい出来事を経験してから、北部へ逃れ、ホワイト・ハウスの執事として勤務しました。その執事が退職する間際に黒人のオバマが、大統領になったのです。黒人奴隷の歴史から300年以上を経て、「やっと」黒人の大統領が誕生した。彼はそう思ったでしょうか? それとも、まだ、まだと思い込んでいるうちに、思いがけない出来事が起こって、「もう」こんな時代になったのかと嬉しい驚きを覚えたでしょうか?おそらくは、「やっと」と「もう」の両方が、彼の気持ちであったろうと思います。黒人差別はまだなくなったわけではありません。これからも、今まで同様の長い闘いの歴史は続くでしょう。黒人の血と涙の叫びと祈りが「やっと」神の御手を動かしたと言うべきでしょうか? 終末にいたらないうちに、「もう」ここで来たと言うべきでしょうか?
 カトリック教会は、近年神学的にも霊的にも大きな影響を与えつつあります。わたしが言う「カトリック」は、徳川時代以降のキリシタンを含めています。1637〜38年の島原の乱以後、日本ではキリシタンへの弾圧と殉教が続きました。殉教したキリシタンと棄教することで生き延びたキリシタンの子孫は、それ以後も殉教者の精神と信仰を捨てませんでした。長い間の祈りと叫びが「やっと」かなって、信仰の自由が与えられたのです。キリシタン禁制が解かれたのは1873年です。徳川政権がキリシタン禁令を出してから明治のキリスト教解禁まで260年経ちましたから、現在(2014年)までで、380年近く経っています。イエス様の十字架からローマ帝国内でキリスト教が公認されるまで約300年、キリスト教がローマの国教になるまで370年かかりました。神はかつて数多くの日本人のキリスト教徒たちが流した血と祈りを決して忘れてはおられません。これからの日本人のキリスト教は、あのキリシタンの殉教者たちの信仰によって支えられるでしょう。日本人のキリスト教は、あのキリシタンの殉教の歴史を抜きに語ることができません。ある年配の黒人牧師はこう言ったそうです。「あなたがたは鍵のかかったドアを何年間もノックして立ち尽くし、指の関節から血を流して初めて、祈りのなんたるかを知るのだ」〔クラドック『ルカによる福音書』347頁〕。
 
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