【注釈】
■やもめと裁判官
 今回もルカ福音書だけの記事で、旅の終わりに近い頃のイエスの「たとえ」として語られています。「たとえ」とは言いながら、内容は先立つ「人の子の日」と密接に結びついていますから、イエスの来臨から「人の子」の来臨/再臨までの間、終末を望みつつ忍耐強く祈り続けるよう励ますものです。だから今回の祈りのたとえは、先の「真夜中の友の願い」(11章5~8節)とも共通します。ルカ福音書のイエスは「祈る人」です(3章21節/5章16節/9章18節/同28節/11章1節/22章41節/23章34節/同35~36節のイエスへの嘲りも「祈り」に関連する)。
 たとえはやもめと裁判官の二人に絞られ、二人は、忍耐をもって誠実に祈り続ける者と神御自身にたとえられています。ただし、「不正な裁判官」が「神」でないのは言うまでもありません。厳密に言えば今回のたとえは2~5節に限られています。しかし、今回は前回と異なり、終末の突然の到来ではなく、終末まで忠実に祈り続けるかどうかに焦点があてられますから、人の子再臨の遅延を配慮したルカが、この記事を「ファリサイ派」だけでなく弟子たちとその周囲の人たち(とルカの教会)に宛てているのでしょう。
〔資料について〕1節は直前の「人の子の日」へつなぐルカの編集です。2~5節はたとえの根幹ですが、ここは、不正な迫害に苦しむ神の民が、裁きによって自分たちの正しさを「立証して」くださるよう神に願い求めるイスラエルの伝統的な祈りが背景にあります。終末の到来を待ち望むこのたとえはイエスにさかのぼると見ていいでしょう〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)770~71頁〕〔TDNT(8)435〕〔マーシャル『ルカ福音書』670頁〕〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)532頁〕。6~7節はそのアラム語的な構文からルカによるものではなく、ルカ福音書以前の独自資料(L)の段階で文書に編集されたと思われます〔マーシャル前掲書670頁〕〔ボヴォン前掲書531頁〕。今回のたとえは、放蕩息子の物語(ルカ15章)や不正な管理人(同16章)などと同様に、主要人物の「内心の独り言」が大事な意味を帯びています。さらにルカ11章5~8節の「真夜中の願い事」や同13節の「悪い人間のよい贈り物」のように、「より劣った者(不正な人間)からよりすぐれた者(正しい神)へ」話を進める手法など、独自資料(L)の特徴がよくでています。独自資料(L)は、このようにイエスの語ったたとえを保持していることで重要です〔ボヴォン前掲書531頁〕。ルカは、独自資料(L)の伝承を活かしながら、1節を加えて先の「人の子の日」につなぎ、用語を編集し(1節の「祈る」4節の「しばらくの間」6節の「主は言われた」)、黙示的な終末性をやや抑えながら、再臨の遅延にもかかわらず「たゆまず祈る」ことの重要性を教えています。
 
■注釈
[1]【たとえを】直訳は「気落ちすることなく絶えず祈る必要があることについて、イエスはたとえを語って言われた」ですから、これは命令ではなく、たとえを通じた教えです。「(イエスは)彼らにこのたとえを語った」はルカが好んで用いる言い方ですから(5章36節など)、1節はルカの編集です。不正な裁判官と忍耐強いやもめのたとえがほんらい語られた状況がよく分からないので、その内容とルカの編集の意図がうまく一致していないのではないかと指摘されています〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1178頁〕。原話から独自資料(L)を経てルカ福音書にいたる重層的な解釈が求められているのです。
【気を落とさず】「途中で嫌気が差して(祈るのを)止めることをしないで」ことです。(典礼の)祈りの勤めを怠ることではないでしょう。「祈る<べき/必要がある>」には、その祈り自体に「神のご計画が含まれている」ことを指します(ルカ2章49節/4章43節/9章22節/13章16節/同33節/19章5節/使徒言行録1章16節/同21~22節/3章21節/4章12節「わたしたちが救われるべきお方」/9章16節/19章21節「ローマを見ることになる」/23章11節/25章10節/27章24節「あなたは皇帝の出ることになる」)〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)532頁(注)27〕。
【絶えず】「常に」は24時間「絶えず」"continual"のことではなく、「持続して途絶えさせない」"cintinuous"ことです。ユダヤ教に「四六時中祈る」と言う考え方はありません〔マーシャル『ルカ福音書』671頁〕。人の子の再臨まで祈りを諦めないことです(第一テサロニケ5章17節/第二テサロニケ3章13節参照)。ちなみに、初期のクリスチャンの祈りには「願い事」「執り成し」「感謝」「罪の告白」などがありました。
[2]【裁判官】捕囚期以来、ユダヤ人は異教徒の支配者による圧政と不正に苦しめられてきました。ここにでてくるのも、この類いの異邦人の裁判官でしょうか〔プランマー『ルカ福音書』411頁〕。たとえ彼がパレスチナのユダヤ人の裁判官でも、たとえの内容に変わりありません。「神を畏れず人前で恥じない」は、旧約以来の伝統的な言い方で(出エジプト記10章16節を参照)、金持ちから賄賂を受け取り貧しい者への正義を顧みない裁判官を想像させます(第二コリント8章21節と対照的)。通常、パレスチナのユダヤ人は神の律法に準拠するユダヤの会堂(シナゴーグ)へ訴え出ましたが、今回のやもめは、より権力があると思われる世俗の裁判官(通常は「都市」の裁判所に属する)に直接訴え出たのでしょう。
[3]【やもめ】旧約聖書で「やもめと孤児(みなしご)」は不正な圧政による犠牲者の代表としてあげられています(出エジプト記22章21~22節/申命記10章17~18節など)。なお、やもめが「(裁判官の所へ)来た」とあるのは、幾度も繰り返し訪れたことです。
【わたしを守る】原文は「わたしの敵対者に対するわたしの正しさを裁判で立証してください」です。具体的にどのような事例なのか記されていませんが、富裕層が買い占めによって物価をつり上げ、生活苦に陥ったやもめなどの弱者に金を貸し付けて、その借金のかたに生活必需品を取り上げたり、場合によってはその人を奴隷同様の身分に陥れることが考えられます。「(金を貸し付けて)、やもめの着物を借金の質にとる」(申命記24章17節)/「やもめの牛を質草に取る」(ヨブ記24章3節)/「孤児と寡婦を搾取し、無実な者の血を流す」(エレミヤ書22章3節)などの例があります。「守る」とあるのは、相手のこのような不当な手段からやもめを擁護することですが〔プランマー『ルカ福音書』412頁〕、さらに、相手側の不正に対して処罰をもって報いることも指します〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)533頁〕。「わたしを訴える者からわたしを擁護してください」〔岩波訳〕/「どうかわたしの敵を裁いてください」〔フランシスコ会訳聖書〕。"Grant me justice against my opponents."〔NRSV〕(わたしの敵対者に対するわたしの正しさを裁定して相手に罰を加えてください)。
[4]~[5]【しばらくの間は】原意は「久しい間耳を貸そうとしなかった」で、幾度願い出てもその度毎に断わられる事態が繰り返されたのです。職務怠慢からかもしれませんが、むしろこの裁判官は、彼女の相手である有力者と面倒を起こすのを嫌ったからでしょう〔マーシャル『ルカ福音書』672頁〕。
【その後に】「ついに/とうとう」です。「考えた」は「自分に言い聞かせた/心中思い始めた」です。"he said to himself" 〔NRSV〕。
【自分は】4節後半は、11章8節と同じ構文ですから、「たとえ自分は~でも」は仮定ではなく、自分の実際の有り様を述べています。長い間の放置、続いて、しばらくの間の自己問答、それからやおら立ち上がり・・・・・というところでしょうか。この裁判官は、よほどの権力者のようです。
【うるさくて】「面倒をかけ続ける」こと。
【彼女のための裁判】原語「エクディコー」は、その人の訴訟をとりあげてその人が正しいことを証明することで、彼/彼女の法的な権利を擁護することです。この言葉には「加害者である相手にも報復として処罰する」という意味も含まれます。「彼女を擁護してやるとしよう」〔岩波訳〕/「この女のために仕返しをしてやろう」〔塚本訳〕。
【ひっきりなしに】最後までとことんあきらめないことです。
【さんざんな目に】「さんざんな目に遭わす」は「相手の目の下を打つ/目の下が黒ずむ」ことですが、これには「相手の面目を潰す」という意味もあるようです。「このやもめは、自分の権利が保証されるまで諦めないでとことん自分を困らせるから、仕方なく有利な判決をしてやろう」という意味なのか、「このまま彼女を放置しておくと、裁判官としての自分の面子にかかわるから、仕方なく・・・・・」の意味なのか〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)534頁〕、ふたとおりの解釈があります。「俺をさいなむこともなくなる」〔岩波訳〕/「わたしをどんなひどい目に遭わせるか知れない」〔塚本訳〕。
[6]【主は言われた】原文は「そこで主は言われた。『聞きなさい』」です。たとえは5節で終わりますから、聞き手は少しの間その意味を考えます。これを見越してルカは、「そこで主は」とイエスを「主」(ルカ福音書の頃のイエスへの呼称)と呼んで、自分の聴衆/読者にたとえの意味を厳かに告げます。「不正な裁判官」から「神」へ移るのは、悪い/劣った者の例から、正しい/優れた方へ論点を移行させることで、「まして~は」と内容をいっそう強く印象づける手法です。
[7]【選ばれた人たち】「彼(神)が選ばれた者たち」は、『第一エノク書』などユダヤ黙示思想にしばしば出てくる言い方ですから、独自資料(L)からでしょう。ユダヤ教で「選ばれた者」は、迫害の下で「生き残った者」を指す場合がありました。彼らは「イスラエルの<残りの者>」とも呼ばれます。「選ばれた者のために裁きを行なう」は、やもめに表象される「選ばれた人たち」の正しいことを特に迫害する敵対者たちに対して神自らが立証することです。今回は「人の子の来臨」と関連づけられますから、特に「終末の日」のことを指すのでしょうか。
【彼らをいつまでも】7節後半は、前半とのつながり方が構文的に不自然なために解釈が分かれます。前半の答えは「~しないことがあろうか?」と強い疑問否定によって聞く者に「決してそうではない」と答えを迫る言い方です。後半をも前半のこの疑問否定に含めるならば、「まして神は、昼となく夜となく、ご自分に叫び求める選ばれた人々のために、裁きを行なわず、長い間放っておかれることがあるだろうか」〔フランシスコ会訳聖書〕/「まして神が、夜昼叫んでいるその選ばれた人たちのために仕返しの裁判をせず、気長にほうっておかれることがあろうか」〔塚本訳〕という意味になります。後半を疑問否定に続けることをせず、これを切り離して考えるなら、「神は選ばれた人たちが訴える叫びに<忍耐強く耳を傾けて聞き届けてくださる>/<特別の恵みを抱いて聞き届けてくださる>」と解釈することもできます〔マーシャル『ルカ福音書』673頁参照〕。前半に続けるにせよ、後半を切り離すにせよ、ここにはシラ書35章4~22節が反映しているのは確かでしょう〔マーシャル前掲書その他〕。なお、原語「マクロースモー」は「遅らせる」と「じっと忍耐する」の意味があります。"...day and night? Will he delay long in helping them?"〔NRSV〕"Then will not God give justice to his chosen, to whom he listens patiently while they cry out to him day and night?"〔REB〕。ほんらいの独自資料(L)では「仕返しはすぐにも来る」とあったのをルカが「しかし、神はしばらくの間先延ばしされる」と訂正したという説もありますが〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)536頁〕、これでは8節につながらなくなります。
[8]8節後半はルカによる編集だと言われますが、ここがルカによる付加であるのなら、なぜこの部分を先の35節に続けなかったのでしょうか?そのほうがより適切なつながりではないかと思われます。「しかしながら/それにしても」という言い方もルカ的でありません〔マーシャル『ルカ福音書』676頁〕。また「人の子」は、17章22~37節と21章25~28節で黙示的な終末の来臨と結びついていますから、8節後半をルカによる編集だと断定することはできません〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)537頁〕。8節は7節を受けていて、その原意は、「神が<じきに>選ばれた者たちの義を立証してくださるのは確かで、このために人の子は必ず来臨する。それにしても、人の子が来る時に、はたして、地上に信仰が存在するだろうか?」です。
【速やかに】「速やかに」(原語「エン・タケイ」)は、強めとして末尾に置かれていますが、「速やかに」と「ふいに/突然」の両方の意味が含まれます。ヘブライ語ほんらいの用法は、「人がまだそのための準備を整えていないうちに」という意味ですから、「ふいに」とも「早くも」とも訳すことができます(17章27~28節。使徒言行録12章7節/同22章18節をも参照)。
【信仰を】定冠詞がついた「信仰」はルカ文書では珍しい語法です。イエスが終末に来臨する人の子であると信じるだけでなく、その信仰が祈りによって保たれることでしょう。「信仰の有るところ祈り有り」です〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)537頁〕。「はたして信仰が存在するのか?」というこの強い懸念の背景にはマタイ24章11~14節の状態が考えられます。ルカも同じ懸念を共有していたのでしょう。
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